第4章「嘘じゃないこと証明してあげる」

 新聞、テレビ、ネット。その全てが香箱町で起きた無惨な殺人事件で持ちきりだった。

 警察の発表によると、レッヘンセンターで起きた停電は人為的なもので、復旧する数分の間に五十人が命を落としたと確認された。

 更に従業員通用口、映画館。そしてキナコが出会った親子を含めると六十人をも超える犠牲者が出るという、近年稀に見る大事件として世間から注目を浴びる。

 香箱町といえば、世界に名を知られたヒーロー二体に護られている平和な町という印象が強く、町内の人は不安に駆られ、町外の人は対岸の火事という滅多にない話題で持ちきりとなっていた。

 被害者全員の共通点、それは首筋に小さな二つの穴が空いていたことだ。針ほどの大きさのそこから、何かしらの毒物を注入された事による心臓麻痺が全員に共通する死因であった。

 六十人も殺めた犯人は一夜明けても影も形も見当たらず、ショッピングセンター内の防犯カメラだけでなく周辺の防犯カメラにも犯人らしき姿は何処にも映ってない為、警察の捜査は難航していた。

 週刊誌やワイドショーでは「闇の塊が動いていた」「停電が直った直後、白い蛇を目撃した」など信憑性の低い話題が唾と共に連日飛び交う。

 町中が不安な静寂に包まれる中、ひなたぼっこは、名前と裏腹に嵐のように大荒れだった。

 絵は落ち着いた太陽に照らされた静けさが打ち破られる音で目を覚ました。

 寝不足気味の頭を覚醒する為に、目を擦りながら部屋を出る。

「キナコ落ち着いて!」

 キナコは香織の静止に耳を貸さず、あたりのものに八つ当たりするように暴れ続ける。

 キッチンに向かったキナコは、シンク脇に置いてあった食器を口に咥えては床に叩きつけていく。

 一枚一枚音を立てて砕け、床が破片で埋め尽くされる。

 香織も近づこうとするが、皿が割れる銃声のような音、床に散らばった欠片は地雷のように行く手を阻む。

 キナコはまだ満足していないのか、今度は食器棚を開ける。まるで洪水のように口と前足を使って茶碗や皿が落ちていく。

 中にはキナコ達のお皿も含まれていた。

「そんな事をしても、何も解決しないのよ」

 泣きそうな香織の言葉も今のキナコには届いてはいないようだった。

 キナコは食器の殆どを壊しても、まだ満足していないのか、毛を逆立て荒い息遣いであたりを見回す。

 香織を見る目つきは敵を見るように鋭く、誰の話も聞きたくないと語っていた。

 キナコが次に目をつけたのは床に落ちても唯一無事だった皿だ。

 それを割ろうとしているようだが、周りは欠片で埋め尽くされ、降りたら怪我する事は避けられそうにない。

「駄目!」

 香織の言葉はブレーキにならず、キナコは身をかがめて飛び降りた。

 危なげなく欠片の隙間に足をつくと、無事だった皿に歯を立て、力の限り振り回す。

 円盤投げのように飛翔した皿は、香織のそばにあった液晶テレビに直撃した。

 驚いて悲鳴を上げた香織に、しまったと言うように顔を上げたキナコだったが、リビングを後にして下に降りて行ってしまう。

 すれ違いざまにシラタマが何か言いかけたが、キナコは全く気づいた様子もなく通り過ぎてしまった。

 絵は騒ぎがおさまった頃を見計らって香織に話しかける。

「出て行ってしまいましたね」

 取り敢えず静かになったリビングに紙の上を滑らせる音が響く。

「ええ。お皿片付けるの手伝ってくれる」

「いいですよ」

「片付ける前に、鉛筆とスケッチブックは閉まってね」

「……すいません」

 無意識に取り出していた道具をしまい、香織の片付けの手伝いを始めた。

「もう一週間ですか」

 紙皿で提供された朝ご飯を食べ終えた絵は、割れた液晶パネルに表示されたニュースに目を通していた。

 ここ毎日の日課のようにショッピングセンターの事件は取り上げられているが、連日連夜放送されて慣れてしまったのか、ニュースキャスターの口調に緊張感は感じられない。目新しい情報といえば、この事件は日本のみならず海外でも話題に上がっているということだけだった。

 絵は毎日の天気予報と同じくらいの印象でニュースを左から右に聞き流していると、香織が口を開く。

「犯人は未だに捕まらないみたい。キナコも毎日探しているけれど……」

 キナコが荒れているのは、一週間前の事件が原因なのは明白だ。

 あの時、頭から血を流していたキナコは自分の状態を省みず、しきりに香織に助けを求めていたのは猫と意思疎通できない絵にも分かった。

 ショッピングセンターの事件は大々的に報道されているが、キナコを苦しめているのは、あの親子の被害者の事なのは間違いない。

 絵はスケッチブックを取り出し、香織から聞いた話を思い出す。

 春人はキナコの大ファンだったらしく、何度もひなたぼっこに通っていた。

 特徴を聞いたとき、キナコとシラタマを初めて見た時に会った親子だった事を思い出す。

 スケッチブックには、イベントを楽しそうに見ていた春人とその様子を微笑ましく見守る両親の絵があった。

 自らを慕う春人との突然すぎる別れは、キナコにとってよほどショックだったはずだ。

 その怒りは家の中に無数に走る爪痕で容易に想像がつく。

「ちょっと電話してもいいですか」

 絵は了承を得てからスマホを耳に当てるが、コール音が無意味に鳴り響くだけだったので耳から外した。

「どうかした?」

「いえ。相手が出なくて。きっと向こうも忙しいんでしょう。また後で電話してみます」

 ワラビが香織に向けて頭を上げた。開店の時間だ。

「じゃあ、私はお店を開けるから」

 香織はワラビを抱き上げて下の階へ降りていった。

 一人になった絵はお茶を飲みながら、今日一日何をするか考える。

 絵一人だけがゆったりとした時を過ごしていたが、何もしないで時間を潰してもしょうがないと椅子から立ち上がる。

 階段を降りると、閑古鳥が鳴いていた。

「香織……さん?」

 入店しているのは弱々しい日差しだけで、香織はカウンターに突っ伏していた。

 声をかけるべきか迷っていると、気配に気づいたのか、ゆっくりと起き上がる。

 瞼を擦って大きなあくびをしたところで絵に気づく。

「ふぁぁ〜……あっやだ、恥ずかしい」

 慌てて口を閉じるも、眠気が取れないのか、水飴のようにトロンとしている。

「今日はもう休んだ方がいいんじゃないですか?」

 絵は出入り口の方を見る。ガラス戸は開かれる気配はなく、通る人も何処か早足に感じられた。

「もう少し開けておくわ。本を必要としている人が来るかもしれないでしょ」

 眠気を覚まそうと背伸びをした香織の背骨の曲線は、絵に残したくなるほど魅力的だ。

「お出かけ?」

 香織の言葉に背筋から目を離す。

「……絵を描いてこようかと、あまり人がいないからこそ見える風景があると思って」

「気をつけて。白昼堂々襲われないと思うけれど、犯人は何処かに潜んでいるかもしれないのだから」

「それを言うなら、香織さんこそ気をつけてください。ここ外から丸見えだから、店員が寝てるなんて分かったら万引きされるかもしれませんよ」

「ありがとう気をつけます。あっそういえば……」

 外に出ようとすると、香織の言葉が釣り針のように引っかかる。

「どうしました?」

「今思い出したんだけどキナコが変身したきっかけ、ここに強盗が入ったからなの。ちょうど今日みたいにお客さんが来なくてウトウトしていた時にね」

 絵はキナコのことをもっと知れると、興味が湧いて店内に戻る。

「キナコが助けてくれたんですか」

「二階にいたあの子が強盗に飛びかかって揉み合いになったわ……でも彼女は怯まずに立ち向かって、そして––」

「変身した」

「私も驚いたけれど、キナコが一番驚いた様子だった。だって強盗を捕らえてから家を飛び出して何日も帰ってこなかったの。私が探しにいってあの子を見つけたときには、元に戻る方法が分からなくて混乱してたけれど、一緒にいてあげて落ち着いたら元に戻れたのよ」

 過去の悲しみを紛らわせるように香織はワラビを撫でる。

「ごめんなさい。これから出かけるというときに。さぁ、いつお客さんが来てもいいように私も気持ちを引き締めないと」

 いくら香織が自分を奮起させてもお客さんは来る気配はないので、こんな提案をする。

「決めました。今日は店内の絵を描かせてもらいます」

「えっ、今?」

「開店しているところの絵ってなかなか描けないですから。いい機会だと思うんです」

「外の絵を描くんじゃないの」

「チャンスはいつでもあります。けど開店の様子をゆっくり書けるのは今だけだと思うんです。お客さんが来たらそこで中断しますから」

「分かったわ。じゃあこの椅子使って。そこの角ならちょうど全体を見れるわ」

「ありがとうございます」

 絵は角に椅子を置き、鉛筆とナイフを取り出した。

「ゴミ箱借りてもいいですか」

「どうぞ」

 ゴミ箱を足の間に置き、鉛筆の先端を削っていく。

 かんなで木材を削るような滑らかな音が心地よい。

「削るの好き?」

「好きですね。何も考えずに削れますし、段々と綺麗な形になっていくのは気持ちがいいものですよ」

 満足のいく形になり、ヨットが追い風を受けて進むように、鉛筆を紙の上に走らせていく。

 まず消失点の位置を決めると、それに繋がるように補助線を薄く重ねて引いていき、店内を描いていく。

 本棚を書き、その中に置かれた絵本や小説を一つ一つ細かく描いていく。

 カウンターを書き始めたところで、ある事に気づいた。

「香織さん。動いてもいいんですよ」

「えっいいの」

 絵を描く事に集中しすぎて、香織が微動だにしなかった事に気づいたのは書き始めてからしばらくしてからだ。

「動いたら書けないかと思って」

「大丈夫です。ある程度こちらで補いますから。それに自然体でいてくれた方が作品に躍動感が生まれていいものが描けるんです」

 絵は話しながらも、描いた香織の骨格の上から肉付けを行なっていく。

「絵、聞いてもいい」

「どうぞ」

「いつから描いていたの」

「物心ついた時にはもう描いていたそうです」

「ご両親の影響?」

「母が絵が趣味だったんです。教えてもらってからずっとずっと書き続けて、美大に推薦されたりもしたのですが……」

 絵は理由を考える。

「僕としては誰かに依頼されるより、自分が描きたいと思う絵しか描きたくなくて、それでそんな生活を続けていたら、いつの間にか三十を過ぎていました」

「じゃあ高校を卒業してからずっと、色々な惑星に行って絵を描いているのね」

 鉛筆を動かす手が一瞬止まる。

「……そうですね。それからずっと絵を描く放浪の旅を続けています」

「ご両親は母星に?」

「いえ父は僕が学生の頃に事故で、母は今も僕の帰りを待ってくれています」

「じゃああなたの絵を楽しみに待っているのね」

「……ずっと待ってくれています」

 そこまで話したとき、店の扉が遠慮がちに開かれた。

「いらっしゃいませ」

 入ってきたのは女子高生、学校帰りだろうか。

 顔を下げて遠慮がちに入ってくると、絵の存在を認めて、歩みを止める。

 香織が気を利かせて声をかけた。

「その人は宇宙から来た絵描きさんなの」

「あっ、そうなんですか」

 女子高生は信じたのか、絵に会釈する。

「貴女の邪魔はしないから、自由に本を見ていって。探しているものがあったら遠慮なく私に言ってね」

 香織の心遣いが生クリームのように混ざり合い、女子高生の顔から強張りが少し消えた。

「はい」

 絵は一休みがてら、描くのを中断しそれとなく店内を観察する。

 女子高生は一心不乱に本棚と睨めっこをしていて、他に客がいないので隅々まで眺めていた。

 流行りの漫画、往年のミステリ小説、家庭料理等の定番の本もあれば、操り人形の歴史とかいうマニアックな本が収められた棚にも目を通していく。

 目当ての棚を見つけたのか、満開の桜のように顔が輝くが、それも束の間のことですぐ萎んでしまう。

 どうしても諦め切れないらしく、体が出入り口とカウンターを秤に載せた天秤のように揺れていた。

 意を決したように身体の揺れが止まり、カウンターへ大きな足音を鳴らして進む。

「あの!」

 思わず大きな声に自分で驚いたのか、軽く咳払いをして続ける。

「あの、この車の本を探しているのですが……」

 女子高生がアヒルのメモ用紙を香織に見せる。

「待ってて。ちょっと探してみるわね」

 香織が二階に上がると、カウンター前で立っていた女子高生はワラビが気になるのか視線を注ぐ。

 触るのを我慢するようにリュックのストラップを握る手に力を込めていた。

「お待たせ。この本かしら」

「そ、それです!」

 香織が持ってきたのは赤いスポーツカーの表紙の本だった。

 いそいそとリュックから財布を取り出す女子高生に香織は本を袋に入れながら質問する。

「車好きなの?」

「いえ違います! 弟が好きで」

「いいのよ。隠さないで。自分を偽る人生なんて苦しいだけよ」

「いいんですかね。私が車好きで」

「好きに性別は関係ないわ。この本は貴女と出会うためにここで待ってたの。本心を隠してたら悲しくなっちゃうわよ」

 女子高生は受け取った本を抱擁するように胸に抱いた。

「あの、ありがとうございました」

 女子高生は大きく頭を下げる。

「どういたしまして。今は色々と物騒だから気をつけて帰ってね」

 香織に再び頭を下げて、女子高生は店を後にした。入ってきた時と違いとても生き生きとした表情で。

「ちょっと早いけれど、今日は閉店にしましょう」

 まだ日は出ているが、もう少しで太陽が隠れる時刻。香織はカウンターの椅子から立ち上がるとシャッターを閉め始める。

 絵も描くことを中断し、凝り固まった肩をほぐすように何度も回しながら話しかけてきた。

「満足するところまで描けた?」

「ええ。後は仕上げるだけです」

「完成したら是非見せてね」

 香織がシャッターを閉めようとしたところで、キナコが帰ってきた。

「お帰りなさい」

 キナコは全くの無反応を貫き、そのまま二階へ上がってしまう。

「夕飯の用意するわね」

 そう言ってワラビを抱いて二階に上がっていく香織の横顔は、先程の笑顔とは打って変わって寂しそうだった。

 いつも全員が揃っていた食事時にもキナコの姿はない。

 個包装されたキャットフードを持って自分の寝床へ引っ込んでしまったのだ。

 今頃一人で食べているのだろう。香織も特に引き止めず、キナコのやりたいようにさせていた。

 食べ終えた頃、下の階からシャッターを叩く音が聞こえてきた。

 トントンと規則正しく緊急という様子ではないが、夜も更けている時間だと何事かと不安になる。

「ちょっと見てくるわね」

 香織が様子を見に階段を降りていく。

 数分経っても中々戻ってこない。シラタマは気になるのか、何度も階段の方を気にするように首を動かしていた。

 絵も気になっていたので、様子を見に一階に降りると、シラタマもついてきた。

 香織と話していたのは、二人の警察官だった。

 香織が警察官に頭を下げる。

「あの子が迷惑をかけた事は謝罪します。でもあの子も犯人を見つけようと必死なんです。その気持ちを汲み取ってあげてください」

 二人の警察官はバツが悪そうにお互いを見合わせる。

「……気持ちは分かります。けれども苦情が出ていると言う事はご理解ください。では失礼します」

 香織は立ち去っていく警官にもう一度頭を下げて見送る。

 どんな言葉をかけていいか分からず、見つかる前に上に戻ると、キナコが部屋から出てきた。

 また犯人探しに行こうとするのか、階段に向かったところで、上がってきた香織と鉢合わせする。

「キナコ聞きたいことがあるわ」

 香織は無視して進もうとするキナコを抱き上げる。

「家の庭やベランダに無断で入ったり、その家の子や野良の子をどこかに連れ出しているそうね」

 キナコは観念したように低い声で長く鳴いた。

「やっぱり。犯人を探す為に協力してもらっていたのね。でもあんまり自分勝手な事をしては駄目よ。沢山の人があなたを嫌いになってしまうわ」

 それでも構わないと言いたげに、身体を激しく動かして香織の手から抜け出す。

「待って」

 キナコは振り返る事なく、外に出て行ってしまう。

 香織は止めようと追いかけるが、ワラビは我関せずといった様子で眠り、シラタマは小さく縮こまってしまう。

 何とも言えない空気の中、絵はスマホを取り出す。

「すいません。ちょっと電話が……はい。想井絵は私で間違いありませんが、えっそうですKA-15出身です。あの、勿体ぶってないで単刀直入に仰ってください––嘘だ。一体何が原因で……マオウという怪物が……そんなじゃあ母は––」

 相手の声が微かに聞こえてくるスマホを落とし、その場に膝をついた。

 重い音に驚いてシラタマが飛び上がる。

 項垂れた絵を見て、テーブルから降りるとリビングを出て香織を引っ張るように連れてくる。

「絵。どうしたの。何かあったの」

「今警察から連絡が来て、KA-15が怪物に襲われて……」

 現実を認めたくなくて、その先が中々口に出せなかった。

「みんな死にました。殺されたんです。マオウという怪物に、母も母もそいつに……」

 母の事を口にした途端、我慢できずに涙が止めどなく溢れる。

 香織は子供のように泣きじゃくる絵が落ち着くまで、母親のように包み込んでくれた。

「大丈夫?」

 泣き疲れた絵の前に湯気を立てたお茶が置かれる。

「すいません。取り乱してしまって」

「いいの。辛い事があったら涙が流れるのは当たり前の事だもの。さあ飲んで。流した分の補給をしましょう。それに暖かい飲み物は気分を落ち着かせてくれるわ」

「はい」

 自分が思った以上に取り乱して予想以上に参っていたようで、お茶を口に含んだ途端、全身に広がる暖かさに思わず溜息が漏れる。

「香織さんは先に休んでください。僕はこれを頂いたら休みますから」

 既に時刻は午前零時を回っている。

「もう少し付き合うわ。それにキナコに「おかえり」って言ってあげなきゃ」

 絵はマグカップの温もりを吸収する様に両手で包んでいたが、意を決したように口を開く。

「香織さん。よかったら話しを聞いてもらえますか?」

「今日も長くなりそうだし、付き合うわよ」

 絵は時間をかけて、ゆっくりと言葉を紡いでいく。

「電話の後、銀河連合警察から星を襲った怪物の情報が届いたんです。名前はマオウ。惑星アルで造られた生物兵器でした」

 スマホの画面を見ながら続ける。

「アルは長い間戦争状態で、兵力を補う為に終身刑の囚人に人体実験を行って兵器を生み出していたそうです。その囚人は快楽殺人鬼で、怪物となってからも人を殺す事に悦を感じ、いくつもの惑星の知的生命体を絶滅させてきた恐ろしい存在なんです」

「じゃあ、たった一体であなたの星の人達も?」

 信じられないといった香織の言葉に、絵は重々しく頷く。

「マオウは狙った星の知的生命体を根絶やしにするまで決して活動を止めません。僕と同じように放浪していた仲間達も滞在先の惑星の人々と一緒に命を奪われたと聞きました」

「待って。という事はその怪物、マオウが地球に来た理由は……」

「そうです。唯一の生き残りである僕を殺す為に追いかけてきたんです」

 言い終えたところで、視界の隅で光が爆発した。

 眩しさで覆った手を下げた直後、変身したキナコが疾風のように迫って来ていた。

 絵はキナコに首根っこを掴まれて壁に放り投げられる。

 背中を強打して息が詰まる。歪んだ視界にキナコの爪先立ちした足が映る。

 襟首を掴まれて立たされると、キナコの顔が額に当たるほど近づいて来た。

 フェイスシールドの表情は眉が吊り上がり、噴火直前の活火山のようだ。

「僕のせいなのは分かってる。謝っても許され––」

 絵の言葉は雷で塞がれる。

 何か言おうとするたびに、全身の血管が沸騰するような痛みが走り回った。

「キナコ、もう死んでしまうから離して」

 香織の言葉でも、堪忍袋の緒が切れたキナコに届く気配はない。

 キナコの拳が絵の顔を狙って弓のように引き絞られる。

 本気で殴られれば、簡単に頭が潰されてしまうのが分かっていても、痺れた身体にはどうすることも出来なかった。

 その拳にシラタマが飛びつく。

 キナコは雷を発生させて、シラタマを腕から剥がす。

 帯電したままテーブルを転がるシラタマは落ちる寸前立て直し、初めて聞くほどの大音量で鳴いて訴える。

 キナコはそれでも止まる気配はなく、シラタマに一瞬視線を向けるだけだった。

 りんと涼やかな、けれど覚悟を決めて前を向くような凛とした鈴の音がリビングを満たす。

 音の出どころはシラタマの首輪についた鈴からだった。

 鈴の音色が静まったとき、シラタマの変身が完了した。

 シラタマはキナコの肩を掴むと、目を覚ましてと訴えるような張り手を繰り出す。

 予想してなかった一撃を喰らい、キナコの身体が硬直した。

 キナコは頭をゆっくりとシラタマに向けると、絵から手を離し拳を固める。

 シラタマはそのストレートを避けて、また張り手を喰らわす。

 キナコは完全に怒ったのか、両手に雷を纏わせて攻撃を仕掛ける。

臆病なシラタマからは想像もできないほどの素早い動きで回避するのが予想外のようで、キナコの拳は空を切るばかりだった。

 雷がリビングの電灯に直撃して弾け飛び、部屋全体が暗闇になる。

 そんな状態でも二体は戦いをやめようとはしなかった。

 経験の差か次第にキナコが有利になっていく。シラタマは回避を続けているが、反撃する隙を見つけられないようだ。

 遂にキナコの拳の連打がシラタマを捉える。

 シラタマは避ける事も出来なくなり、両手で辛うじてブロックしている。

 防御ごと貫こうと、キナコが鉄骨もへし折れそうなハイキックを繰り出した。

 シラタマとキナコの間に香織が腕を広げて飛び込む。

 キナコは急制動を掛けるが完全には止まらず、香織のこめかみに爪先が当たってしまう。

 香織が床に倒れる直前、受け止めたシラタマが責めるようにキナコを見上げた。

 キナコは視線から逃げるように二階の窓から飛び出し夜の闇に紛れて見えなくなってしまう。

「香織さん、しっかりしてください」

 絵が声をかけると、香織はこめかみを抑えながらも自分で起き上がる。

「これをどうぞ」

 香織は絵から渡された濡れタオルを赤くなったこめかみに当てる。

「ありがとう。シラタマ私は大丈夫。あれは事故だからキナコを責めないで」

 香織はこめかみを抑えながらも、そばに寄り添うシラタマの頭を撫でる。

 リビングの不安を助長させるように、パトカーのサイレンが遠くで聞こえていた。

 結局朝日が昇ってもキナコは帰ってこず、代わりに現れたのは一匹の猫だった。

 絵は知らなかったが、その猫はキナコが車の下で見つけたあの猫だ。

 猫は申し訳なさそうな顔で、出迎えた香織に来訪の目的を話す。

 話しを聞いていくうちに香織の顔からみるみる血の気が引いていくのがはっきりと分かった。

「シラタマ、この子が案内する場所に先に行って。急いで」

 シラタマは耳元で銅鑼を鳴らされたように飛び上がると、やって来た猫の後をついて走り出す。

 同じく走り出そうとした香織がよろめいたので、絵は手を伸ばして身体を支えた。

「香織さん。無茶しないほうが」

「行かないと。確かめないといけないの」

 絵の支えがなければ、立っているのも辛そうだ。

「分かりました。じゃあ僕も一緒に行きます」

 弱々しい足取りで歩こうとする香織に肩を貸して絵は案内された場所へ向かう。

 一緒に歩いてきた香織に案内されたのは、人の気配のない寂れた雑居ビルと雑居ビルの隙間だ。

 ビルの背が高く、陽が届かないそこは今も薄暗い。

 路地裏の前には先程やってきた猫。

 シラタマは薄暗い路地裏で地面に顔を埋めていた。

 絵が路地裏に近づくと、シラタマが三毛色の塊に顔を埋め、しきりに舐めている事に気づく。

「キナコ……?」

 香織が絵の手を離れて一人で歩き出す。途中でよろめき四つん這いのように這いながら、シラタマの隣で地面に横たわる三毛猫を撫でる。

 薄暗い路地でも、目を開けて動かないキナコが息をしていないことは明白だった。

 香織は両足が汚れるのも構わず、冷え切ったキナコを温めるように強く抱きしめる。

 いくら香織の涙でも、神でもない限り、永久凍土を溶かすことは不可能だった。


 ひなたぼっこを飛び出したキナコは変身して、家々の屋根を飛び進んでいた。

 寸前のところで止められたとはいえ香織に暴力を振るってしまった事実が胸の中で竜巻を巻き起こす。

 香織が悪い。前に出て来たのが悪い。私は香織を傷つけたくて蹴ったんじゃない。私は何も悪くない。

 屋根と屋根の隙間を跳躍していると、自分のつま先が視界の隅に入って、ある一軒家の屋根の上で立ち止まる。

 私は香織を傷つけたくなんてなかったのに。

 拳を握り全身を震わせたキナコは、怒りの矛先を自らの爪先に定め、屋根に叩きつける。

 一度ならず、二度三度と叩きつけ、屋根のソーラーパネルにヒビが入って砕けた。

 パネルの破片が夜空を反射しながら落ちていく。

 それでもキナコは爪先を苛め続け、遂に屋根に穴が空いてしまう。

 そこまでやったところで、ほんの少しだけ落ち着くことができた。

 犯人を捕まえたら謝ろう。

 サイレンを鳴らしたパトカーが、キナコが登った家の前で止まり、警察官が降りて来た。

 どうやら家主か誰かが通報したらしい。

 警官が拡声器を使って降りてくるように説得してきたので無視して逃げ出す。

 パトカーが追いかけてくるので、更に走る速度を上げ屋根の上を駆け抜けていく。

 次第にパトカーも狭い路地に捕まって、上手く撒くことが出来たが、あちらこちらでサイレンの音が包囲するように迫っている事に気づく。

 春人を殺した犯人を一刻も早く捕まえる為、目立つ変身した姿から猫の姿に戻った。

 サイレンの網を縫うように夜道を進んでいると、待ってくれと鳴き声で呼び止められた。

 見ると、一軒家の駐車場に止められた車の下から猫が出てくる。

 以前声をかけた野良猫だった。

 キナコは何か見つけたのと尋ねる。

 犯人を探すため、飼い猫や野良猫に不審な存在を見かけたら教えるようにと伝えてあったのだ。

 猫は姿は見ていないが、ある路地裏で何かが這いずるような物音を聞いた猫が複数いること、更にその付近で複数の野良猫が行方不明になっていることを伝えてきた。

 キナコは正体不明の物音が気になり、その場所を案内させる。

 いまだにパトカーが付近を巡回しているので、見つからないように猫の姿のまま、その場所へ進んだ。

 そこは無人の雑居ビルに挟まれた路地裏だ。夜でかつ灯りが無いため、底無し沼が大きな口を開けて待ち構えている。

 闇に進む前に、案内してくれた猫の前に立った。

 あなたはこれ以上進まないで。何が起きるか分からないから。

 キナコは更に続ける。

 私が朝までにあなたの家に戻らなかったら、ひなたぼっこに行ってここの場所を伝えて。

 猫がその場を離れたのを見届けてから、闇に向かってゆっくりと近づいていく。

 キナコの視力を持ってしても、闇の中に何があるか分からない。

 意を決して闇の中に侵入し、進んでいくと、前足が大地を踏み損なった。

 慌てて止まると、地下に向かって大きな穴が空いている。

 闇と融合して非常にわかりにくいが、下から微かな悪臭とともに風が上ってきていた。

 傍には円形の重たそうな円盤、マンホールの蓋のようだ。

 まさか、この下に潜んでいるの。

 キナコは下に潜んでいる何かの正体を見極めるために、映画のコマ送りのような動作で下を覗き込んだ。

 覗き込んだのと、下から白い凧糸が伸び上がってきたのはほぼ同時だった。

 避ける間も無く、凧糸が首に噛み付く。

 二つの牙が皮膚を貫き、体内に液体窒素を流し込まれたのが最後に感じた感覚だった。

 牙から逃れる為に、首を引いたところで力尽き、その場に倒れる。

 視界の穴から悪臭とともに白い凧糸と繋がった烏羽の塊が音もなく浮上してきた。

 目の前で倒れた猫の事など眼中にないように再び穴の中へ身を沈ませていく。

 四肢が弛緩したキナコは、徐々に霞んでいく視界の中、意識が尽きるまで同じ事を繰り返していた。

 ごめんって言わなきゃ。


 



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