第5章「ボクの言ってること信じてくれた」
外から戻ってきた絵はリビングに入るなり椅子に座る。
墓石を背負ったような身体を受け止めるように椅子が大きく軋む。
身体に染み付いた線香の香りと一緒に深く息を吐いた。
ついさっき、キナコのお葬式が終わったばかりだ。
路地裏で事切れたキナコを発見した香織は、ひとしきり涙を流した後、吹っ切れたような高い行動力を見せる。
キナコを優しく抱いてひなたぼっこに戻ると段ボールとキナコ愛用の毛布で、手早く棺を作る。
固まってしまった筋肉をほぐすように体勢を整えて寝かせると、本当に就寝しているようにしか見えなかった。
朝一番で葬儀社と供養専門店に電話をかけ、その日の内に葬儀の手筈を一人で整える。
葬儀社から準備完了の連絡が来るまで、香織とキナコは部屋で二人きりだった。
扉越しに漏れ聞こえる啜り泣きの声が、今も胸を強く締め付けている。
足腰の弱いワラビに留守番を任せ、準備の整った民営の火葬場へ足を運んだ。
線香を上げてお経を読んでもらい、棺が炉の中へ運び込まれる。
香織は涙を堪えていた様子だったが炉の扉が閉まった途端、火葬が終わるまで人目も憚らず泣き続けていた。
扉が閉まった音が、生前のキナコが旅立ってしまったと実感してしまったのかもしれない。
絵も、キナコのお骨を骨壷に入れていく作業を手伝った。
部外者の自分は遠慮すべきと考えていたが、香織に是非と言われて詰めていく作業を二人で進める。
印象的だったのは、終わるまでずっと、シラタマが瞬きする事も忘れて、変わり果てた先輩に視線を注いでいた。
今ひなたぼっこにいるのは、絵と留守番を任されたワラビしかいない。
家で待っていてくれたワラビに葬儀の一部始終を話していく。
途中身動きしなかったワラビがほんの少しだけ動き、こちらに背中を見せた。
手を伸ばすと湯たんぽを収めたクッションのように暖かかい。
話し終えるまで撫で続けると、不思議なことに悲しい気持ちが和らいでいく。
「……ただいま」
「お帰りなさい」
香織がリビングに入ってきた。部屋へ向かったのかシラタマの姿はない。
香織は椅子に座ると、大切そうに抱えていた小物をテーブルに置く。
それは手のひらに収まりそうなほどの、三毛猫を模した骨壷だった。
ワラビは頭を上げると、「御苦労様。そしてお帰り」と言うように丁寧な動作で頭を下げる。
「リビングに置いて置くには最適な大きさだと思うの。入れ物も可愛らしくて違和感なしね」
香織はどこか自分自身に言い聞かせながら立ち上がると、置くのに適当な場所を探して歩き回る。
「ここが良さそう」
そこはリビングを一望できる場所で、香織達の団欒を見守ってくれるような位置だった。
香織は骨壷を見ながら何かを悔やむように下唇を噛む。
「写真、撮っておけばよかった」
「一枚もないんですか?」
「ふふ、そうなの。あの子ったら大の写真嫌いで、私と一緒でもすぐ逃げ出しちゃうのよ。テレビとかに映る時は絶対変身してたわ」
笑顔を見せながらも、目尻が光を反射している事を見逃さなかった。
絵は寝床の中で目を閉じることが出来なかった。
閉じた瞼の裏にこの世界に来た数日のことが、目が痛くなるほどの鮮やかさで蘇ってくる。
時計を確認すると布団に入ってから二時間ほど経っていたが、その間一睡も出来ていない。
こんな体験数え切れないほど味わってきたのに、いまだに慣れないな。
眠る事を諦め、温かい飲み物でも飲みながら完成間近の絵を描き上げようと、道具一式を持って部屋を出る。
廊下に出ると、リビングに灯りがついている事に気づいた。
椅子に座っていた香織は、こちらに気づくことなく、キナコの方を見て穏やかな表情をしている。
傍のマグカップに口をつけた様子はなかった。
邪魔するのも野暮かと引き返そうとしたが、気づかれてしまった。
「あら、眠れないの」
「すいません。邪魔するつもりはありませんでした」
「いいのよ。何か飲むかしら」
「お願いします」
香織はキッチンで飲み物を用意する為に立ち上がった。
持参した鉛筆でスケッチブックに絵を描き始める。
二つのマグカップを手に持った香織は一つを絵の側に置くと、自身も黙って椅子に座る。
お茶の香りと、鉛筆が紙の上を滑る音が、夜中のリビングに不可侵の空間を作り出していく。
「キナコはね……」
鉛筆を持つ手を止めることなく聞き入った。
「キナコはお母さんや兄弟に嫌われてこの町に来たの。でもその間に沢山の猫達を助けてたのよ。おかしいと思わない? 誰も味方してくれなかったのに誰かを助けていたなんて」
「何故助けていたんですか」
「本人は『弱い奴をいじめる自称強い奴が大嫌いなの」って言ってたけれど、私は違うと思うの。あの子は自分が求めていた存在を自分で演じていたのよ」
「演じることで自分自身を守っていたんですね」
「でも、それはとても辛いわ。だって本当の自分を偽っているのだもの。だからあの子はここに辿り着いたのよ。自分を受け入れてくれる存在を求めてね」
香織の口調には、心の内が見えているようだった。
「私が初めて会った日は、あの子が片目を失った日だった」
「その時も、誰かを助けていたりしたんですか?」
香りは頷き、その時が映し出されたスクリーンを見るように天井を見上げた。
「あの日の出来事は鮮明に覚えているわ。まるで昨日のことのように……」
香織が目を覚ましたのは、乾いた物音が聞こえたからだ。
一緒に寝ているワラビが起きたのかと思ったが、夢の世界を散策しているように穏やかな寝息を立てている。
一定のリズムで動く背中は、思わず撫でずにはいられない。
気のせいだったかと、ワラビをひと撫でして布団に戻る。
目を閉じてすぐに、また物音。間をおかずに再び音が聞こえる。家の中からではなく窓の外から聞こえてくるようだ。
何かしらと心の中で呟きながら、カーディガンを羽織ってからカーテンを薄く開けると、黒い翼が飛び上がっていくのを目撃した。
正体はカラスで、向かいの文具屋に掲げられた英字の看板の上に着地する。
香織の胸中に不安の重りが一つ落ちた。
ここ最近、カラスがゴミを荒らしたり、人や猫に襲いかかるという事件が多発していたからだ。
特に酷いのが、子猫を拐いそれを食べてしまうというもので、この世界で一番猫を愛する香織にとって、我が子を失う母親のように胸が痛くなる話だった。
目が合った途端こちらに襲いかかって来ては困るので、動向を伺いながらカーテンを閉めようとすると、カラスがある一点を見つめていることに気づく。
道路を見下ろしている。その方向にゴミ捨て場や興味を惹くものなど置いてないのに。
では何がカラスの気を引いているのだろうか。
突然カラスが視線を固定したまま体を大きく見せるように羽を広げ嘴を上下に開く。
直後、叫ぶような吠えるような猫の鳴き声。
ガラスに張り付いてもよく見えないので窓を開く。
冬の冷気が吹き込んでくるなか、窓から身を乗り出してカラスの行方を追うと、道の真ん中で複数のカラスが羽を撒き散らして暴れていた。
その中心には一匹の猫が立ち向かうように顔を巡らせている。
カラス達は嘴をツルハシのように猫に叩きつけているが、猫はその場を退かず寧ろ前足を使って反撃を試みていた。
香織はいても経ってもいられず、寝間着のまま家を飛び出すと、夜の空気をかき分けるように走る。
二羽のカラスは香織に気付く気配を見せず、口に子猫を咥えた三毛猫をいたぶり続けていた。
三毛猫は所々を啄まれながらも、自分の後ろには絶対行かせないという強い気迫を全身から発していた。
香織と三毛猫の瞳が交差する。その瞳に宿る炎は弱々しいが、決して負けないという強い意志を感じさせる。
炎が宿る右目にツルハシが直撃しても、決して退かなかった。
香織は無我夢中に羽織っていたカーディガンを振り回して、カラス達を追い払った。
飛び上がったカラス達は名残惜しそうにしばらく滞空していたが、香織がひと睨みする事で、やっとその場を去っていく。
襲撃者達が去ったのを確認した三毛猫は、背後で縮こまっていた猫に咥えていた子猫を返す。
母猫は子猫の無事を確認すると、三毛猫に何度も頭を下げてから建物の影に消えていった。
香織は親子猫の無事を確認すると、そのまま鍵しっぽを向ける三毛猫を引き止める。
「待って。貴女怪我してるわ」
立ち止まった三毛猫は尻尾を立てて香織を睨みつける。
近づく事を拒否されていても近づくのをやめずに敵では無いとメッセージを送るためにゆっくりと手を伸ばす。
爪で引っ掻かれようが噛みつかれようが、香織は手を引っ込める事はしなかった。
ひとしきり暴れて落ち着きを取り戻したのか、三毛猫はじっと差し伸べられた手を見る。
柔らかな掌には引っ掻き傷が縦横無尽に走り、指先は複数の血の膨らみが出来始めていた。
香織は痛みを我慢しながら笑顔のまま、三毛猫の次の動きを待った。
痛む指先に湿った感触が走る。
髭を垂らした三毛猫が赤く滲んだところを癒すように舐めていく。
香織は三毛猫の献身が終わるのを待って安心させてから、三毛猫の身体を確かめる。
三毛色の毛並みは傷だらけで、四色目のまだら模様に染め上げられていた。
特に酷いのは右目の傷だ。かなり出血しているだけでなく、傷の深さは目まで達しているかもしれない。
香織は有無を言わさず、カーディガンで三毛猫を包んで抱き上げる。
「ちょっと窮屈だけれど我慢して! 今病院に連れていくから」
カーディガンを食い破る勢いの三毛猫が逃げ出さないようかつ怪我を悪化させないように気をつけながら動物病院の門を叩いた。
「あなたの名前を決めたの。キナコよ」
片目に包帯を巻いた三毛猫もといキナコの、餌を食べていた口が止まる。
「きな粉餅が好きでね。その色が貴女の毛並みの色とそっくりなの」
キナコは困惑した様子で話を聞いていた。
「『私はもうすぐ出ていくからいらない』なんて言わないで。貴女が出ていくのは構わないけれど名前は必要でしょ」
キナコは何故自分に優しくするのと、問いかけてくる。
「私はいつでも助けられる準備をしているの。あの日キナコが助けを求めたから私は手を貸した。ただそれだけ。いたいならずっといてくれてもいいし。好きな時に出て行っていいの」
キナコは何も言わずに食事を再開する。その首元には自身の鍵しっぽに似た雷が小さく揺れていた。
それを見た香織は自分の目の前にあるきな粉餅を頬張る。
冬も終わり春の息吹が届き始めるそんな陽気の日の事だった。
そこまで話し終えたところで香織は喉を潤す。
しばらくどちらも話すことはなく、鉛筆が絵のイメージを創造する音だけが聞こえている。
「できた。香織さん。よかったらこれを」
絵はスケッチブックの一枚を破り、香織に渡す。
「これ……キナコ?」
絵が描いたのは目を細め口角を上げたキナコの顔だった。
絵を見ていた香織の両手が震える。
「幸せなひと時をイメージしたのですが、あまり似てなかったですかね」
「ああっ、違うのよ」
香織は手を振りながら否定する。
「キナコ、あの子、あんまり笑顔見せなかったから。すごく意外でちょっとびっくりしちゃった。でも思い出したわ」
「何をです」
香織は椅子から立ち上がる。
「あの子に名前をつけた時も、こんな顔してた」
三毛猫の隣に置かれていた空の写真立てにキナコの笑顔が花咲いた。
「素敵な作品をありがとう」
香織の微笑みで、薄暗かったリビングがほんの少し明るさを取り戻した。
シラタマはリビングの様子を見ていたが、和やかな空気に混ざる気分にはなれず、外へ飛び出した。
今は誰にも会いたく、絵が描いたキナコの笑顔さえ見たくなかった。
どれだけ走っても、雲ひとつない夜空から逃れられそうになかった。
シラタマはまるで自分が責められているような罪悪感に苛まされて、星に見下されない場所を探し続ける。
電車の高架下は上を通過する電車の轟音は非難されているようで長時間いられず、屋根のある建物には大抵誰かがいて、話し声はシラタマの話題で持ちきりのように感じられた。
誰もいない場所を見つけても、光の届かない闇は、あの路地裏の光景が思い出され近づくのも憚られる。
歩き疲れたシラタマが落ち着いたのは、公園のベンチの下だった。
そこは夜でも街灯に照らされて明るくかつ、人通りがほとんどない。
ベンチの天井のお陰で星からの目線も気にならなかった。
歩き続けて疲れていたシラタマは、ベンチの下で蹲ると、欠伸をして目を瞑る。
冷たくなったキナコを見てから、あまり眠れなかったシラタマは疲労の限界を超えて、ほんの少しだけ眠りについた。
「シラタマ。起きなさいシラタマ」
前足で顔をペチペチと叩かれる。
「う〜ん。おはようキナコ姐」
「おはようじゃないわよ。もうみんな朝ご飯食べ終わってるの。あんたの分が残ってて香織が片付けられないじゃない」
「ご、ごめん! すぐ行くよ!」
飛び起きてリビングに向かった。テーブルにはシラタマのお皿だけが残っている。
ジャンプして飛び乗ると、お皿に盛られたキャットフードを勢いよく食べる。
ほとんど噛まずに食べていたらむせてしまった。
「あら、そんな焦らなくて大丈夫」
キッチンで洗い物をしていた香織に背中をさすってもらい程なく楽になる。
「ママ。ありがとう」
「どういたしまして。自分のペースで食べていいからね」
「うん」
食べ終えた頃には、キナコの姿は見えなくなっていた。
「キナコ姐はパトロール?」
「ええ。最近物騒なニュースがあるから、気を引き締めて警戒してるわ」
今日はひなたぼっこはお休みらしく、香織は大きなトートバックを準備していた。
「買い物行ってくるわね」
「いってらっしゃい」
テーブルの上でのんびりしていたシラタマだったが、遅めの朝食を食べていた時の香織の言葉「物騒なニュース」を思い出す。
万が一大好きな香織になったらと思うと怖気が走る。
「ぼくも一緒に行く!」
「あら本当。じゃあ行きましょうか」
ひなたぼっこから香織と一緒に出ると、猫カフェの女性店主が香織に気づいて外に出てきた。
「香織さん。シラタマちゃんと一緒にお買い物」
「ええ。シラタマから一緒に行くって言ってくれたんです」
「そうなの。じゃあ二人でデートってことだね。楽しんできてね」
猫カフェの店主はシラタマの頭を撫でると、自分の店へ戻っていった。
スーパーで食材を買い終え、家路へ向かっている途中のこと。
「ちょっと休憩していきましょう」
香織は手近な公園に行きベンチに座った。
「シラタマ」
香織の隣に座ると、秘密を話すように声を潜める。
「買い物一緒に来てくれたから特別にプレゼント」
「えっいいの」
プレゼントされたのは、シラタマが大好きなペースト状のおやつだ。
袋を見ただけでシラタマの目が大きく見開かれた。
香織が袋を開けてくれている間も、早く早くと急かしてしまう。
おやつに夢中すぎて、香織が優しい指使いでシラタマの首に何かを着けていることに気づかなかった。
食べ終えたのを見計らって香織が手鏡を見せてくる。
「ほら見て。首のところ」
手鏡に映った自分の首に黒い首輪が着いていて、中央には鈴のアクセサリがあしらわれていた。
「尻尾に合わせて作ってみたのよ」
短く丸みを帯びたボブテイルが鈴を鳴らすように動いた。
「ありがとうママ。大切にするね」
嬉しくて、手鏡に写る鈴を何度何度も揺らしていた。
「それじゃあ帰りましょう。キナコやワラビもお腹を空かせて待っているでしょうから」
「うん!」
帰ったら鈴の事キナコに自慢しようと家路につくと、変身したキナコが目の前に着地したので、目が点になった。
「香織! シラタマ!」
有頂天だったところを水を差され、シラタマは不機嫌になったが、香織は異変を察知したようだ。
「どうしたの」
「町に侵入した蛇が野良猫を噛んだんだ」
「蛇!」
シラタマは恐怖に支配され、首輪をもらった嬉しさが消失してしまう。
「聞いた話だと危険な蛇だから、早く帰ったほうがいい」
「すぐ帰るわ。キナコは蛇を探すの?」
「うん。まだ見つかってないけれど、この辺に逃げ込んだのは確実だから。今日中に見つける。シラタマ、香織のこと頼むわよ」
キナコは返事を待たずに屋根の上を飛んで行ってしまった。
安全を確保するために足早にひなたぼっこに向かっていた途中、不意に香織が立ち止まる。
「止まって!」
シラタマは何も分からないまま、指示通りに立ち止まる。
ひなたぼっこのある商店街は目と鼻の先なのに。
シラタマの視野に映るのは、道路に左右を囲む塀に銭模様の電柱と電線。そして雲が泳ぐ空。
左右に視線を泳がしていると、視界の右側で何か動く気配。
違和感の正体を確かめようと右に目を向けるのと、悲鳴に似た警告はほぼ同時だった。
「危ない!」
シラタマの視界が香織の持っていたトートバックに覆い尽くされる。
香織が力を込めるように顔を顰めて、トートバックを投げ捨てた。
買った食材やシラタマ達のご飯と共に、銭模様の凧糸が宙を舞う。
凧糸はトートバックから口を離すと、何事もなかったようにうまく着地した。
長い体を蛇行させ、縦に裂けた目玉は獲物を逃さないように睨みつけ、舌なめずりするように口の隙間から舌を出し入れしている。
蛇は二体の獲物を品定めするように首を動かすと、小さい四足歩行に狙いを定めて飛びかかってきた。
トンネルのような大きな口を見て、シラタマは言いようのない恐怖に襲われ、縫い止められた標本のように動けない。
投げられたジャガイモがトンネルを塞ぐ。
「やった! シラタマこっちへ」
金縛りが解けたシラタマは香織の胸に飛び込む。
ジャガイモを吐き出した蛇は、今度は自分の邪魔をした大きな獲物に飛びかかった。
口の中に入りきらないほどの牙が突き立てられたら、確実に香織の皮膚は貫かれてしまう。
それでも香織は自分の身を顧みず、シラタマを庇って自らを盾とした。
シラタマはわずかに覗く隙間から、迫る蛇を見続ける。
記憶にない恐怖の崖に追い落とされそうになりながらも、後一歩のところで踏みとどまれたのは、自分を助けてくれる香織の存在だ。
シラタマも母も白い毛並みで周囲から仲間外れの日々を過ごしてきた。
この町へ向かっている間、護ってくれた母が倒れた時も何もできなかった。
ずっと母の言われた通りの事しかしてこなかった。
それが結果的に母を失う結果を招いてしまった。
今もそれでいいのか。ママが死ぬことになってもいいのか。よくない。よくないだろう。じゃあ動け。お前が動くんだ。誰かが動くのを待ってないで自分が動け。
シラタマは香織の腕から抜け出し、蛇の前に立つ。
威嚇しながら蛇に立ち向かい、慣れない前足で鱗を引っ掻く。
蛇は一瞬怯むも、相手が闘いに不慣れな事に気づくと、シラタマの身体に巻きついた。
内臓が口から飛び出してきそうな苦しさに耐えながら両足を動かすが、宙に浮いてしまい力が入らない。
体の中で卵を落としたような音が聞こえて全身の力が抜け、そのまま受け身もできずに道路に落ちる。
シラタマは残った力を振り絞って立ち上がろうとするが、足を動かしているつもりでも実際は全く動いていなかった。
絶対諦めない。死ぬまで諦めない。
その時、体内で鈴の音が聞こえ炎が全身を駆け巡る。
獲物が光り輝いた事に驚き、今まで余裕を見せていた蛇が後退る。
光が収まった時、シラタマは二本の足で爪先立ちをする姿になっていた。
白いボディに長く伸びた五本指はどこか人間に似た姿。
驚く以上に全身に力がみなぎり、勇気が湧いてくる。
シラタマは素早く蛇の口を手で押さえつけて拘束すると、キナコが駆けつけてくれるまで手の力を緩める事なくその状態を維持し続けた。
「今日のあんた。頼もしかったよ」
結局キナコに感謝されたのは、この時が最初で最後になってしまった。
絵は自分が座っているベンチの下で動く気配を感じた。
「起きたかい」
こちらを見上げるシラタマは、まだ眠そうな顔で頷いてから、ベンチに飛び乗る。
「香織さんが、いなくなった君の事を心配してるよ。そろそろ帰るかい」
見上げるシラタマは、絵ではなく遥か上空を見ている事に気づく。
視線を追うと、見事な満月がこちらを真っ直ぐ見ていた。
「じゃあ帰ろうか」
絵は鉛筆とスケッチブックをしまうとベンチから立ち上がる。
深夜の満月が何の関係があるか分からないが、シラタマの表情は自信に満ち溢れ何かを決意したのだけは強く伝わった。
シラタマと一緒に帰ると、やっと追いついた眠気に逆らうことなく寝床に入った。
夢も見ないで寝ていると、部屋のドアノブが動き出す。
鍵をかけていないドアが音もなく開くが、廊下には人の姿はなかった。
代わりに入ってきたのは這いずるもの。
地を這いずるソレは左右に体をくねらせながら進み、ベッドの上で横になる絵の元にたどり着いた。
鎌首を持ち上げ、口が裂けるほど大きく開くと折り畳まれていた二本の牙が現れ、雫が滴る。
準備が完了したのか、何も気づいていない絵の首筋めがけて銛のように飛び込んだ。
牙が突き立てられる寸前、肉球のついた手がすかさず銛を掴む。
自分の周りで何かが動く気配でようやく絵は目を覚ます。
最初に見たのは、こちらに口を開ける白紙のように真っ白な蛇だった。
「うわ!」
一気に眠気が覚め飛び起きて後頭部をぶつける。
痛みに構っている暇なく、四足歩行の動物のように四肢を駆使してその場から離れた。
蛇は手で押さえつけられて動けないにも構わず、絵に向けて何度も口を開く。
「た、助かったよシラタマ」
蛇を捕まえたシラタマは、早く逃げてと手振りで示す。
部屋を出ると香織が駆け寄ってくる。
「絵! 無事なのね」
「シラタマが助けてくれました。あれは一体?」
「今は逃げましょう。待って、ワラビ、ワラビがいないわ」
香織の部屋を見ると灰色の老猫の姿がない。
「ワラビ、ワラビ! どこ行っちゃったの」
香織が部屋を見回している間、絵がリビングの方を見た時だった。
灯りの付いていないテーブルの上で糸玉のように柔らかそうな塊が動いたように見えた。
「香織さん。向こう」
絵が指差した方向を理解したのか、部屋を飛び出す。
途中、蛇とシラタマが格闘する部屋を抜け、陸に上がった魚のように動く蛇の体を踏まないように避けながら、リビングへ。
電気をつけると、こんな時でもマイペースにワラビは丸くなっていた。
「ああ、ここにいたのね。早く逃げましょう」
香織はワラビを抱き上げた。
「シラタマはいいんですか」
「今戦えるのはシラタマだけよ。私達がいても足手まといだわ」
香織に手を引かれたので、勢い余って足の裏が硬い綱のようなものを踏んでしまう。
下を見ると、電気に照らされたそれは蛇の胴体にしか見えなかった。
これはシラタマと戦っている蛇。どこから入ってきたんだ。
蛇の出所を求めて胴体を目で追っていく。止まったのはシンクの中、排水口から出てきているようだ。
出所を突き止めた途端、タイミングを合わせたように二匹目の蛇が現れた。
絵は香織を押し出すように、リビングから脱出する。
振り向くと二匹目は宙を飛び、まるでミサイルのように背中目掛けて襲いかかって来た。
「伏せてください!」
香織を押し倒すように廊下に倒れ込むと、白い誘導弾が頭上を通り過ぎた。
ミサイルは旋回すると、こちらに迫る。
それを止めてくれたのはシラタマの右手だ。
左手で一匹を抑えたまま、二匹目の動きも止めてくれた。
捕まった蛇は今にも襲い掛からんと口を開閉している。
シラタマは二匹を掴んだまま、出てきたシンクに押し戻そうとするが、リビングに入った途端、更に二匹の蛇が襲いかかってきた。
噛み付いてくる蛇の攻撃を避けていると、呼吸を合わせるように手の中の蛇も逃げ出そうと暴れ回る。
避ける事と掴む事。二つを同時にこなす事は難しく遂に手の力が緩んでしまう。
逃げ出した蛇を含む四匹が視線をシラタマに注ぎ、一斉に口を開いて毒液滴る牙を見せつけた。
シラタマは射すくめられたように内股になってしまい、ストールが力なく垂れた。
蛇達が一斉に襲いかかる。
一匹目の噛みつきを避けると、二匹目が胴体をぶつけてきた。
鱗ひとつひとつが振動し、まるでチェーンソーのような鞭がシラタマの肩を削る。
三匹目が口を閉じ、投げ槍のような頭突きを繰り出す。
身を捩って回避すると、背後の壁に大きな穴が空く。
二匹目と四匹目が鞭となって部屋中を乱舞するように跳び回る。
電灯が割れ、テーブルや椅子が真っ二つになり、壁面や床が大きく抉れていく。
キナコの写真立ても粉々に砕けてしまった。
あらゆる物が破壊されていくうちに、リビングに異臭が立ち込めていく。
嵐のようなリビングから退散していた絵達は、一階に降りて電気をつけたところで動けなくなっていた。
いつからそこにいたのか、入り口に闇の塊が立っている。
鴉の羽一枚一枚で作られたローブで頭の先から爪先まで覆い隠し、フードの奥は光も届かない闇で顔の輪郭すら見えない。
よく見ると、床とローブに僅かな隙間が見え、そこから見えるはずの足は影も形もなかった。
ローブの隙間からは四本の白い綱が伸び、二階で大きな音が立つたびに、ローブと繋がった四つの綱が細かく動く。
マオウ、遂に僕を見つけたということか。
「香織さん。逃げてください」
相手を刺激しないように、最小限の動作と小声で続ける。
「奴は僕を優先して狙ってくるはずです。だから囮になります」
「一人じゃあなたは殺されてしまうわ。でも二人なら何とか––」
「言い争いしてる場合じゃありません」
「駄目よ。みんなで逃げるの」
議論に水をさしたのは、一階の天井が揺れるほどの大きな音だった。
香織と一緒に見上げると、天井が重さに耐えられくなって、大きくたわみ、そして限界を迎える。
天井を突き破り二階の床と共にシラタマが落ちてきた。
背中から落ちたシラタマは破片に埋まりながら、苦しそうに身を捩る。
「シラタマ!……つっ」
香織が太腿のあたりを抑える。
見ると、手の隙間から血が溢れている。
「大丈夫よ。これくらい……」
香織の眉間に皺がより、真冬なのに額に大粒の汗が浮かぶ。
四匹の蛇はシラタマを持ち上げ、何度も瓦礫が積み上がった床に叩きつけると、出入り口から外に放り出す。
シラタマは向かいの文具屋のシャッターに頭から突っ込んで動かなくなってしまった。
邪魔者がいなくなったことで、四匹の蛇が絵と香織に標的を定める。
「香織さんこっちです」
唯一の逃げ道である階段を登ると、二階は戦闘の傷跡でほぼ半壊している。
更に鼻をつく異臭に思わず顔を顰めた。
脱出する方法を考える前に階段から三匹の蛇が追ってくる。
香織を無事だった部屋に押し込む。
「ここで隠れていてください」
香織が何か言う前にドアを閉め、窓へ向かった。
二階から飛び降りて、シラタマに助けを求める。助かる方法はそれしかない。
窓から飛び出そうとしたところで、ガラス窓の向こうに目のない蛇が現れる。
四匹目の蛇が、ガラスを破ってそのまま噛み付いてくる。
絵は死に物狂いで毒牙から逃れると、唯一の逃げ場である窓へと身を投げ出した。
受け身も取らずに落ちると、何度も転がって止まると、痛む身体を押して倒れているシラタマに声をかける。
「シラタマ。起きてくれ。このままじゃみんな死んでしまう」
シラタマは文具の山に埋もれながら、頭を抱えてうずくまっている。
「マオウは僕だけじゃない。この星の人を皆殺しにする。今助けられるのは君だけなんだ。頼む、助けてくれシラタマ!」
シラタマのストールが緑の光を発した。
声をかけ続けている絵に、追いかけてきた四匹目の蛇が無慈悲にも迫る。
大きく口を開いた首が重力に引っ張られて落ち、少し遅れて司令塔を失った胴体が力なく垂れた。
いつもどこか自信なく垂れていたストールが力を得たように大きく翼を広げた。
起き上がったシラタマ目掛けて、ひなたぼっこから二匹の蛇が同時に襲撃する。
シラタマは投げ槍の一撃を避けてストールを振るい、振動する鞭を飛び退けながら、ストールをもう一振り。
シラタマが着地すると同時に、二匹の蛇の頭と胴は切り離された。
絵が痛みが治まってきた身体を起こして目にしたのは、香織を盾にしてマオウが余裕綽々といった様子でひなたぼっこから出てきたところだ。
最後に残った蛇が香織の首に巻きついている。
「あいつ卑怯な手を」
シラタマは脱力したように拳から力を抜いた。
マオウはシラタマからの攻撃を防ぐように、香織を盾にして半円を描き、絵に近づいてくる。
隣に立ったマオウが香織ごと蛇を動かす。
マオウは獲物に意識を集中し過ぎていたのか、それとも人質がいるから手が出せないと気を緩めていたのか、ストールによって香織が奪還されても数秒間気づいた様子はなかった。
シラタマは救出した香織の太腿が赤く染まったいるところを発見すると、ストールを勢いよく振るった。
マオウが大きな拳で吹っ飛び、半壊したひなたぼっこに突っ込む。
シラタマは絵に香織を預けると、大股で店内に足を踏み入れ、起きあがろうとするマオウを丸めたストールで殴りつけた。
尚も起きあがろうとするマオウを鉄拳で殴る。
何度も殴るうちにマオウの動きが止まり、されるがままになっていく。
怒りに支配されたシラタマの後ろ姿は、弱いものをいたぶり楽しむ悪魔そのものだった。
香織が呼びかけても耳を貸さず、目の前のマオウに痛撃を与え続けている。
最初に気づいたのは絵だった。
呼吸するたびに鼻が詰まるような刺激臭。嗅ぎ続けていると頭が宙に浮かんで何も考えられなくなるような臭い。
「ガスだ。ガス漏れしている」
二階を見上げると、窓から見える灯りが明滅を繰り返している。
「シラタマ。逃げるんだ。爆発が起きるぞ。早く!」
絵はそれだけ言い残して、香織に肩を貸すとひなたぼっこから少しでも遠くに離れようと歩き出す。
マオウを殴り続けていたシラタマは異臭を嗅ぎ取ったのか、マオウをそのままにして一目散にひなたぼっこを後にする。
直後、漏れ出したガスが電灯からの火花によって着火し大爆発が起こる。
シラタマは炎に追われながら、先をいく絵と香織をストールで保護し、炎の魔の手が届かないところまで一気に跳躍。
絵は炎に舐められながら崩れていくひなたぼっこの最期を見届けることしかできなかった。
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