第44話 ランナーズハイ

路地裏から飛び出る。――雨宮はすぐそこまで来ていた。


「……!!」


ゆっくりと目を合わせながら後ずさる。獣と会った時のように。『着いてこい』というかのように。


(来いっ。来い来い。頼むから来てくれ……!!)


雨水が冷や汗と混ざり合う。懇願こんがんが頭で反復する。


徐々に雨宮は路地裏へと近づく。冷や汗は多くなり、頭の中の懇願こんがんも増えていく。ゆっくりと。そう、ゆっくりと――。




――雨宮は路地裏を通り過ぎた。笑いながら義久を追いかけてくる。


(――――来た!!)


作戦は成功した。とりあえず最悪のパターンはまぬがれた。あとは時間を稼ぐだけだ。


路地裏を通り過ぎて数メートル。確実にこちらへ来ていることを確認して――義久は走り出した。




空き地では自力で出産する用意をしていた。一度は経験してること――なんて軽口を叩いている余裕などない。


上着を脱いで地面に。少しでも子供が汚れることを防ぐ。


「村雨……上着を貸して」

「うん」


村雨の上着は子供を包むために。6月とはいえ夜はまだ寒い。雨で濡れてしまっては体温が低下してしまう。


「うっ、ぐ……ぐ――ぅ」


陣痛だ。アドレナリンが止まった今。鈍っていた痛みが海琴を襲う。


「ママ大丈夫!?」

「ふぅぅ……うん……うん。ママは大丈夫……よ」


誰がどう見たって痩せ我慢だ。5歳の村雨ですら分かる。しかし母とは強いもの。海琴はぎこちない笑顔で村雨を安心させようとした。


「村雨……ちょっとお願い聞いてくれる?」

「な、なに?」

「石を取ってきてくれない?ちょっと大きめの……空き地の中でね」

「わかった……」


ほんのちょっと離れただけで母の姿は見えなくなる。周りには人もいない。――怖い。とてつもなく怖い。


しかし母親が頑張っているのだ。父親も頑張っているのだ。自分に出来ることを精一杯やる。村雨はなんとか自分を奮い立たせた。



「も、持ってきたよ」


海琴の手に収まるくらいの大きい石を持ってきた。


「ありがとう……その石を……どっかに投げて割ってくれない?」


ちょうどいいところにコンクリートの壁がある。言われた通りに石を投げつけた。


石は割れて小さくなる。何に使うのか疑問に思いながら海琴に手渡した。


「何に使うの?」

「……へそのって知ってる?」

「知らない」

「村雨にもあったのよ。おへその部分が私と繋がっててね。産まれてくる時に邪魔になるのよ。それを――切る」


石の端は鋭く尖っていた。


「痛く……ないの?」

「へそのは痛くないわよ。安心して」


村雨を撫でる――それは村雨を落ち着かせるためではなく、自分を落ち着かせるためであった。


無茶なことをしているのは自覚している。馬鹿なことをしているのは自覚している。それでもやらなくては。子供を救うためにも――。




一方その頃。義久もまた、家族を守るために走っていた。


雨宮は一定のペースではなく、速くなったり遅くなったりしながら向かってくる。義久をあおっているのか。それとも体力を消費させるためか。


どちらの狙いも義久には的中していた。体力は雨と共に大きく削られ。精神もヤスリで削られているかのように摩耗まもうしていく。


止まりたい。もう終わりたい。足が熱を帯びる。肺が動いてくれない。心臓が壊れそうなほど痛い。痛い痛い痛い。


痛い。止まりたい。止まりたくて――膝が落ちそうになった。


(――海琴)

(――村雨)

(――――――時雨)



――強靭きょうじんな意思でまた踏み出す。もう体は言うことを聞かない。ならば今動いているのは意志の力だ。『家族を守るため』という絶対的な意思からなるものだ。


だから走る。夜で雨。外を出歩いてる人もおらず。大通りにも出れない場所なので完全にひとりぼっち。


暗い闇。孤独な世界。しかし止まれば殺される。無くなりかけている精神をギリギリで保っているのは――家族の存在だった。


(まだ――まだだ――)


思い描く――。時雨の姿。大人になった村雨の姿。海琴と過ごす老年期――。


(まだ――死ぬ――わけには――)


願望がある。望みがある。理想もある。願いもある。壊されたくない夢がある。消えて欲しくない未来がある。生かすべき命がある。


(まだ――倒れる――わけには――)


だから男は走った。走り続けた。残りの人生を全てつぎ込むかのように。全てを放り捨てるかのように――。

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