第43話 家族

本能だった。『家族を守るために』とか、そんな高尚こうしょうなものではなく。ただ本能的に。自分でも驚くほど勝手に体が動いた。


村雨を抱え、海琴の手を引く。妊婦ということは忘れていた。自分が出せる全速力で走る。


雨宮はというと――笑っていた。笑ってその光景を見ていた。


ニヤニヤとイジワルに。だけど状況はそんな可愛いものなんかじゃなく。目尻を釣りあげ、口角を引き裂きながら。ゆっくりと。ゆっくりと動き出した。




「はぁはぁ――」


走る。走る。雨の中を走る。車になんか乗る余裕はなかった。靴なんかく余裕はなかった。


足の裏に石が刺さっても。水溜まりを踏んでも。そんなもの関係ない。恐怖と比べれば安いものだった。


「はぁはぁ――ま、待って――」


雨の中。そして必死。それでも愛する女の声は聞こえた。


「――かっはっ!?」


久しぶりに動いた。走った。高校生以来か。とにかく呼吸器が壊れたかのように動き出す。


「はぁはぁ、はぁ……大丈夫か」

「うん。大丈夫――」



ひとまずは休憩――それを狙っていたかのように。笑っている雨宮が遠くから見えた。


街灯の光から光へ移動するように。動きは鈍い。鈍いのに速い。不思議な感覚だった。


「嘘だろ――まだ走れるか!?」

「……頑張る」


また手を引いて走り出す。あと何回。あとどれくらい。どのくらい。行き先は。警察にでも行くべきか。それとも寺にでも行くべきか。祖父母の家は遠いし、兄夫婦の家も遠い。


――考えが纏まらない。だから捨てる。思考が沼にハマると動きまで鈍ってしまう。今はただ逃げるだけだ。




逃げて。逃げ続けて。1時間。2時間。もしかしたら30分。10分すら経っていないかもしれない。


とにかく走り続けていた時。――海琴は体の異変に気がついた。


「――――あ」


にぎった手のわずかな感覚。その動揺と異変に義久も思わず動きを止める。


「どうし――」

「――――破水はすいした」

「――――え?」


――最悪だ。最悪のタイミングだ。ここから病院まで車で行っても40分近くかかる。しかも今は徒歩だ。家からは離れすぎた。


走るか。また家まで。――ダメだ。破水はすいした海琴に無理はさせられない。


救急車を呼ぶか。――それもダメだ。携帯はない。近くに公衆電話もない。仮にあってもすぐに雨宮に捕まってしまう。


「陣痛は始まってるか?」

「うん……」

「あぁクソっ。じゃあ時間がない……!!」


どうするか。考える。考える。考える考える考える考える考える考える考える考える考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ。


考えて考えて――義久は最悪の博打ばくちを思いついた。



「――――こっちだ!」


さいわいにも雨宮はまだうっすらと見えるくらい離れている。多少の余裕はあった。


海琴を連れて路地裏へ。その先にある空き地へとやってきた。夜なので暗くて不気味だが背に腹はかえられない。


空き地の端っこ。木の影になる場所で海琴を座らせた。


「痛いか?」

「痛い……あと疲れて動けない……」

「だよな……」


――博打ばくちだ。失敗すれば海琴とお腹の子、村雨を見殺しにするだけ。だが成功すれば――少なくとも村雨だけでも助かる。


「――よく聞いてくれ」


義久はできるだけ優しい声で言った。


「アレの目的はおそらく俺だ。いや……正確には俺たちだが、1番恨んでるのは俺の可能性が高い」

「……なにするの?」

おとりになる」


――あまり海琴は驚かなかった。なんとなく予想していたからだ。


「もしアレが俺に向かず、お前の方へ行けば……死ぬ。十中八九殺される」

「でも……何もしなくても殺される」

「だから……俺ができるだけ注意を引くから。ここで……?」


地面は土。上は雨。仮に産めたとしても細菌やウイルスに体が犯されるだろう。その前に出血で死んでしまうかも。それ以上に――子供が死ぬ可能性の方が高い。


だから博打ばくちだ。義久が注意を引けなければ全員死ぬ。注意を引けたとしても、最悪の場合は海琴もお腹の子も死ぬ。


だがもし――注意を引くことさえできれば。村雨だけは生き残れる。


「……」


決して首を縦には振れない。振りたくない。自分は死にたくないし、子供も死なせたくない。


だが他に方法は。――ないのだ。無いから義久は命をけるのだ。命をけて、命を守ろうとしているのだ。


だから信じるのだ。自分とお腹の子、そして村雨を救ってくれると。


「……愛してる」

「俺もだ」

「どんな結果になっても……愛してるから」

「――俺もだ」



まだおびえて震えている村雨。最愛の娘の頭を義久はでる。


「いいか。パパは行くから。お前がママと妹を守るんだぞ」

「やだ……行かないで……」

「……村雨」


――抱き締める。これが人生で最期と言わんばかりに。力強く。それでいて優しく。


「お前ならできる。お前はママのように強い子だ。それにパパのように顔がいい。将来は……きっと人類史に残るくらいのモテ方をするぞ」


涙は雨と混ざる。村雨のも、海琴のも。それに――義久のも。


「パパ……」

「愛してるぞ村雨――最後に。海琴、子供の名前は決めてるか?」

「うん」


流した涙はお腹へと。子供がいる場所へと落ちた――。



「――時雨しぐれ。時雨だよ」

「時雨。時雨かぁ……はは、この状況だと縁起が少し悪いかもな」


義久は立ち上がる。決意と。覚悟を。見に纏って。


「でもいい名前だ。可愛くて綺麗で……優しい子に育つはずだ」


後ろは振り向かない。振り向いてしまうと――二度と離れたくなくなる。だから振り向かない。


「じゃあ――必ず会いに来るからな。時雨」

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