第17話 それが何か分からない

窓なんて空いていない。つまりガラスから手が出てきたのだ。



青白い手がひたりと布団の上に。続くように頭、肩、どう、脚――と女の体が出てくる。


「ぅ……ぁ…………?」

「ゃ…………ぁ……」


2人は固まって動くことすらままならない。震えすら止まっていた。


女は音もなく立ち上がる。足は地面に着いているのか。なんで窓から出てきたのか。まず誰なのか。そんな疑問は全て『恐怖』によって上書きされていった。



『いき……なん……』



声がする。声が聞こえてくる。耳に。肌に。大気を震わせて。



『わた……しは……死んだのに……なんで……なんで……』

『なんで……お前は――生きてるの。お前が私を殺したくせに』






――動いた。鎖で縛り付けられていたかのように動けなかった体が跳ね上がった。


「――時雨!逃げるよ!!」

「ぅぇ――――?」


動きが遅い時雨を引っ張って部屋から飛び出る。玄関へと向かう2人――を女は気持ち悪い笑顔で見ていた。



速く。速く。家から出れば――それでも逃げられる保証はない。だが家の中に居てはダメなのは明確だ。


だから外へ向けて走る。走る。走り続け――ていた時。時雨が転んでしまった。


「時雨!?」


足をひねったようだ。少し赤くなっているのがチラリと見える。


「大丈夫……先に――」

「ダメ!!おぶるから行くよ――――」



――――手に。自分の手に。ほのかな違和感が。てのひらに目を向けると――。自分のてのひらあったのだ。


「――――ぅわああぁぁぁああ!!??」


光もまた腰から床へと落ちる。――その瞬間、背中から殺意にも似たおぞましい感覚を感じ取った。


時雨は目を見開いておびえた表情をしている。ちょっと遅れて光も後ろを振り向いた――。



――また目が合った。無数の。何人ものだけと。


「「――――」」


玄関へ向かってはいけない。本能で感じた。光は時雨を支えながら玄関とは逆のトイレの方向へと走る。


だがそっちに逃げ道はない。行き当たりまで走った後に気がついた。


「あ――あ――こ、こっちはダメ!!」

「でも玄関は――――」




例えるならば直線運動。どす黒い殺意をまとった女は脚すら動かさずに壁を通り抜けてきた。


「「ひぃっ――――!?」」


逃げられない。抱き合って恐怖をまぎらわせる。



『あなたの――あなあなあなたの――あなたの――あなたのあなたのあなたのあなたの――』



壊れたラジカセのように同じ言葉を繰り返している。それがまた怖くて。それがまた恐怖で。


「いや……いや……来ないで……」


――ピクリと女が動いた。気味の悪い笑顔がさらに強く。口角は目の下まで来るほどに釣り上げて。異常なまでに黒い歯を見せつけながら。女は2人の方へとスライド移動してくる。


「なんで――なんなの――なんなの……!?」


光が口に出す。


「なんでこんな……貴方は誰なの……!?」


女は――スンと真顔に戻った。


『私の恨みはソイツへの恨み。私の呪いはソイツへの呪い』

「……え?」


時雨は光の腕の中で震えている。


『ソイツさえ居なければ私は死ななかった。ソイツさえ。ソイツさえ居なければ』

「しぐ……れ……が?」

『そう。ソイツは私――――』






「にゃァァァァァ!!」


――ヘキオンだ。ヘキオンが女に向かって獅子ししごとえた。


『――』


女は猫の方へ顔を向ける。


「――――に、逃げないと!」


時雨の言葉に背中を押され、2人は注意がれている女の横を通り過ぎた。そのまま外へと飛び出す。






走る。また走る。くつかず。髪も乱れて。


「どうしよう……どうしよう!?」

「分かんないよぉ……」


どっちも泣きそうだ。泣きそうな顔で走っていた。


「わたっ、私の家は?」

「八重は帰ってきてるの!?」

「分かんない……」

「――とりあえず走ろ!家から離れよ!」

「うん……!」


――時雨の動きがぎこちない。そういえば逃げている時に捻挫ねんざしていたことを思い出した。


光はすぐさま時雨をおんぶする。


「光ちゃん!?」

「足痛いんでしょ!?ごめんね忘れてた!」

「は、走れる!大丈夫だから――」

「大丈夫じゃない!足も!この状況も!」

「う、うぅ……」


光の言葉に気圧けおされて黙る時雨。



足の裏に石が刺さって痛い。久しぶりに走ってふくらはぎが痛い。時雨を背負っている腰が痛い。


痛い痛い痛い。そんな頭の中の片隅で――女の言葉が反芻はんすうしていた。


『私の恨みはソイツへの恨み。私の呪いはソイツへの呪い』

『ソイツさえ居なければ』

『私は死ななかった』

『――お前が私を殺したくせに』


背負っている時雨がどんな表情をして、どんなことを考えているのか。


それを想像する勇気は今の光にはなかった。

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