第11話 愛と憎悪をふたつやみっつ

「――――うぉぉあぁ!!??」


机と椅子いすを押しのけながら腰を抜かす。


「ハァハァ……!?」


さっきの景色。それから現れたあの。景色は幻。もしくは夢のような何かだと仮定することはできる。


だが言葉。あの言葉だけは現実のものとしか思えなかった。隣でささやかれたというよりも、真正面から面と向かって言われた、としか思えなかった。


「今のは……一体……?」


困惑こんわくの色を隠せない八重。だがしかし。異常にさらされていたのは八重だけではなかった。




――数分前。弦之介は八重に言われた通り、風呂場の方へと来ていた。


「うげっ、汚ぇ」


予想通り、それ以上の汚さであった。やはり水周りは放置すると臭くなる。


床はボロボロ。ネズミや猫のふんが土のように散らばっている。一瞬だけ『外』と勘違かんちがいするほどにだ。


そんな状態ならば浴槽よくそうなどは言うまでもなく……汚い。良く言えばエメラルドグリーン色。悪く言えばドブ川だ。しかも工場近くの温かさを感じる特別汚い川の水。


「あーヤダヤダ。ここから出たら八重に文句言ってやる。……いやダメだ。金を貸してもらってるから文句が言えねぇ」


ここには何もない。八重と合流しようと振り向く直前――少し違和感のある物が視界に入った。



鏡だ。割れた鏡。不良にでもやられたか。風化したのか。野生動物に壊されたのか。どれにせよただの鏡である。


割れて無数に散らばった鏡の破片は全て弦之介を写している。まぁ当たり前だ。当たり前なのだが――そのうちの一つ。


一つだけかすかに。傷や汚れじゃない。鏡に反射した弦之介の後方が黒かったのだ。他の破片は別に黒くない。それだけが黒いのだ。


「…………」


ゆっくりと振り向く――何もいない。何もない。確かに薄暗いが、違和感を感じるほどじゃない。


また鏡を見る――黒みがしていた。いや、黒いだけじゃない。いるのだ。弦之介の後ろに黒い女が――。


「はっ――――!?」


振り向く。……何もいない。何もいないのは変わらない。だがその目で確実に見ている。


また鏡――やはりいる。女がいる。セミロングでワンピースを着ている女が。


「ひいっ……!?」


女の顔はよく見えない。だが動きだけは小さい破片の反射でもよく見えた。


細い腕がゆっくりと弦之介の首元へと伸びていく。枝木えだきのように細い腕。病的なほどに白い肌。長く伸びた爪は手入れされてるようには見えない。


鏡に映る女の手は弦之介の首を強くつかんだ。思い込みか、本当につかまれているのか。


「こひゅ――――」



動いた。走った。鏡に背を向けて走った。場所は八重のいるキッチン。さっきまでの運動音痴おんちな姿とは思えないほど速く。必死に。


「――八重!!」


ちょうど意識を取り戻して困惑こんわくしていた八重にさけぶ。


「ここはやべぇ!!早く出ようぜ!!」

「お、おう……」


弦之介の異様いような震え方に何かをさっした八重は言われるがまま外へと脱出した。




「――やべぇよ!!ここやべぇよ!!」


過呼吸かこきゅう気味ぎみに肩で息を吸いながらもさけぶ弦之介。


「確かにヤバいな」

「な、なんかよ、割れた鏡のひとつに女が映ってよ、その女が俺の首をめてきて……」

「……女、か」


――八重はこの前の夢のことを思い出した。時雨が『殺した』と言っていた女のことを。


「その女。髪が短くてワンピースを着てたりしなかったか?」

「そ、そうだ。まんまお前の言う通りだよ」

「同じ……か」

「何か知ってんのか?」


八重の夢に出てきた女と弦之介が見た女はおそらく同一人物だ。やはりおかしい。時雨の過去に何かがある。そしてその何かに八重や弦之介が見た『女』が関わっている。


「俺が見た夢に出てきた女も同じ特徴だ。おそらく……同じ奴」

「夢に出てきたって……じゃあなんだ?幽霊でも出てきたってのか?」

「そう考えるのが妥当だとうだろうな」

「幽霊なんか存在するわけないだろ?科学的に考えて」

「お前の口から『科学的』なんて頭のいい言葉が出るとは思わなかったぞ」


八重は汗をぬぐいながら立ち上がった。


「俺もお前も。女は見たんだ。それは事実なんだろ?運動不足の男が必死に走ってきたってことはな」

「それはそうだけどよ……」

「――俄然がぜん、興味が湧いてきた」


ニヤリと笑う。

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