第35話
「藤沼社長、今回はお詫びしなければならないことがります」
お茶をテーブルに並べ終わった晶が作業中にデスクに戻ったタイミングで瑠璃が切り出した。
「瑠璃さん、それはどういうことでしょうか?」
瑠璃の唐突な謝罪に、藤沼社長はやや困惑気味だ。
「今回のデリシオッソカフェへの敵対的TOBは私が発案して、父……いえ、久宝社長に進言しました」
一度、父と言ったのを取り消し久宝社長と言い直したことから、瑠璃は私情で買収計画をお願いしたわけではない、と言いたいのであろう。
「え? 瑠璃が考えたのか?」
驚いた宏樹が瑠璃に目を向けると、コクンと頷いた。
「なるほど……しかし、それがお詫びすることと、どう関係するのですか?」
藤沼社長は不思議そう首を
「それは……藤沼社長の大切な会社を事前に相談なしに、買収してしまったわけですし……」
瑠璃は敵対的TOBに対して、あまり良い印象を持っていないようだ。一般的にも名称を聞くと良いイメージはないだろう。
「そうですか……企業買収などよくある話で、コジマベーカリーも小島社長が病気で入院したタイミングで買収したわけですし、私も事業家としてそういった覚悟は常に持っています。だから、瑠璃さんが気に病む必要はありません」
健司が病気で弱っているところを狙った買収工作は効果的であり、藤沼社長が言うようによくあることで、世の中食うか食われるかなのだ。
「藤沼社長にそう言っていただけると、気持ちが軽くなります」
「それに買収されたからといって、会社が無くなるわけでもないですしね。まあ、久宝パンがデリシオッソカフェを解体して、資産だけ売ってしまうとかでなければですが」
企業買収では必要な部門だけ残して不要な部門は売ってしまい、会社が無くなることもよくある話である。
「そ、そんなことはしませんから安心してください。久宝パンは共にデリシオッソカフェの事業を拡大していきたおと思っています」
「こちらとしても、そうでありたいと思っています。久宝パンという大企業の後ろ盾があれば、市場での同業種との競争や経営リスクを軽減できますから、私としては事業拡大も今以上に進めることができます。まあ、その辺の話は追々、詰めていく話なので今ここで話すことではないと思いますが」
さすがは若くしてカフェチェーン店を展開する事業家の藤沼社長である。タダでは転ばない
「はい、私には難しい経営の話は分かりませんから、いずれ久宝社長とも話すことになるでしょう」
あくまで高校生の瑠璃はTOBというアイデアを出したに過ぎない。詳細は社長の政光や重役たちが詰めて実行したのである。
「それにしても……瑠璃さんは、さすが久宝パンの御令嬢なだけはありますね。高校生でありながら、聡明で先見の明をお持ちだ。うちがコジマベーカリーを買収したタイミングで、更に買収を仕掛けてくるとは思ってもいませんでしたよ。これも愛の成せる業というやつですかね?」
藤沼社長は、何やら意味深な言い方で宏樹に目を向けた。
「え? そ、そういうわけではなくてですね……」
藤沼社長の言葉を瑠璃は慌てて否定する。
瑠璃が宏樹のために、デリシオッソカフェを買収したということを、藤沼社長は暗に言っている。
「はは、まあ……とにかく、これからは一緒に仕事する仲間だから、瑠璃さん、よろしくお願いしますよ。宏樹くんもね」
「は、はい! 藤沼社長、こちらこそよろしくお願いします」
瑠璃の言葉に頷いた藤沼社長は、とても大人であった。瑠璃が私情を挟んで買収を持ちかけたことを察していても、大人の対応を忘れることはない。
「藤沼社長、これからもよろしくお願いします!」
「うん、ところで……宏樹くんと瑠璃さんは付き合っているのかい?」
「ええっ!? る、瑠璃とは単なる幼馴染ですよ!」
唐突な藤沼社長の質問に、慌てる宏樹はそれを否定した。
「そうなのかい? お似合いなんだけどね。瑠璃さんの婿養子になれば、久宝パンも安泰じゃないかな?」
「ふ、藤沼社長!? わ、私たちまだ高校生ですし……その……」
瑠璃は顔を真っ赤にしているが満更でもなさそうだ。
「瑠璃!? そういう問題じゃないから!
あらぬ方向に照れている瑠璃に突っ込みを入れる宏樹。
「はは、ごめんごめん。二人が初々しいものでついね……さて、長居しては申し訳ないから、私はそろそろお
「今後ともよろしくお願いします」
そう言って瑠璃は頭を下げた。
「それじゃあ、俺は藤沼社長を見送ってくるよ」
宏樹は藤沼社長を連れて事務所の出口へと向かった。
「宮古さんも、今度ゆっくりお話をしましょう」
藤沼社長が通りすがりに晶へ声を掛けた。
「は、はい、こちらこそよろしくお願いいたします」
晶は椅子から立ち上がり、声を掛けられると思っていなかったのか、慌てて挨拶をする。
「それでは失礼するよ」
藤沼社長はそうひと言告げ、宏樹に連れられ事務所を出ていった。
「はあ……ビックリした……」
社長という立場の大人の対応に慣れていない晶は、ホッとした様子で椅子に掛け直した。
「宮古さん、仕事中に邪魔してゴメンなさい……」
藤沼社長と宏樹と瑠璃の三人で騒がしくしてしまったことを、瑠璃は申し訳なさそうにしている。
「ううん……でも、瑠璃ちゃんは凄いね。藤沼社長みたいな凄い人と対等に話ができちゃうなんて……それに比べて私なんか緊張しちゃって……」
「私はお父さんが社長だから、会社の役員の方と接する機会があったから慣れてただけだよ」
「でも、ひろくんも堂々としてたし……私って何にも役に立たないなって……」
同級生の二人が大人の会話をしていたのを聞いていた晶は自信を失っていた。
「……宮古さん、今日はもうすぐお仕事終わりでしょう? 二人で一緒に帰らない?」
「二人で? ひろくんとお話するんじゃなかったの?」
「宏樹とする話は今、話したことで大体終わったからいいのよ。私は宮古さんと少しお話がしたいなって」
宏樹が瑠璃に聞きたかったことは、デリシオッソカフェ買収の話で、先ほどの藤沼社長を交えた会話で既に終っている。
「うん、私も瑠璃ちゃんと話したいし……一緒に帰る」
「見送ってきたよ。晶もお茶用意してくれてありがとう」
藤沼社長を見送りに行った宏樹が事務所に戻ってきて、晶にお礼を伝える。
「ううん……私が大事な話を聞いてもよかったのかなって……」
晶は三人の会話を盗み聞きしているような気分で、藤沼社長と三人の会話に耳を傾けていた。
「久宝パンの買収の話は、うちの従業員の晶にも関係のあることなんだから、知る権利があるから大丈夫だよ」
「うん……でも、デリシオッソカフェが、瑠璃ちゃんの会社に買収されたなんてビックリした」
「まあ、俺も昨日の夜、その件を知ってビックリしたけどな」
「宏樹、今日は宮古さんと二人で寄るところがあるから、宏樹は一人で帰ってて」
「え? 仕事が終わったら話を聞かせてくれるんじゃなかったのか?」
「だって、その件ならさっき、ほとんど藤沼社長と一緒に聞いてたじゃない。これ以上の話は今のところ何もないわよ」
「そうなのか……分かった、今日は一人で帰るよ」
「ひろくん、ゴメンね」
「いや、二人で楽しんできてくれ。瑠璃はこのまま晶の仕事が終るまで事務所で待ってればいいよ」
「うん、そうさせて貰うわ」
藤沼社長の突然の来訪であったが、遺恨が残るようなことはなさそうだなと、宏樹は胸を撫で下ろした。
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