第31話

 話はコジマベーカリーの売却が完了した日の三週間ほど前、健治が退院した頃にさかのぼる。


「社長、瑠璃お嬢様がいらっしゃいました」


 制服姿の瑠璃は社長秘書の川松に案内され、久宝パン本社の社長室に案内された。

 瑠璃は学校が終わってから、直接久宝パン本社までやって来たのである。


「瑠璃、今日はわざわざアポまで取ってどうした? 用事があるなら家で話せばよかったんじゃないか?」


 社長である政光の家族である娘が、アポイントメントを取って会いにくるということには、何か特別な意味があるということだ。


「久宝社長、今日はビジネスの話をするために、お時間をいただきました」


「ほう……ビジネスの話か」


「では、私は退室いたします」


 瑠璃の言葉を聞いた秘書の川松が退室しようとする。


「川松さんも一緒にお話を聞いていただきたいと思います」


 しかし瑠璃がそれを制止した。


「川松くん、瑠璃がああ言っているから君もソファーに座って一緒に聞いてくれ」


「承知しました」


「瑠璃、そこのソファーで話を聞こうか」


 政光に促され、瑠璃も川松の隣に腰掛けた。


「それでビジネスの話とは?」


「はい、単刀直入に言います。デリシオッソカフェの買収を提案します」


 瑠璃の発言を聞いた川松が僅かに驚きの表情を見せた。


「なるほど……それはどういった理由で?」


 驚きの表情を見せた川松とは対照的に、政光は眉ひとつ動かさず至って冷静にしている。


「社長は以前、カフェ事業への参入を考えていると仰っていました。デリシオッソカフェを買収すれば、カフェ運営のノウハウを持たない久宝パンでも参入が容易になります。それに……その……」


「それに?」


 そこまでハッキリと意見を述べていた瑠璃が言葉を詰まらせ、政光は続きを促す。


「デリシオッソカフェがコジマベーカリーを買収して、カフェベーカリー事業に参入する噂もあり、カフェベーカリー事業は久宝パンにとって専門分野を活かせる市場ではないかと考えます」


 瑠璃が言葉を詰まらせた原因は、コジマベーカリーの名前を出す必要があったからである。ビジネスの話と言いながら、私情を持ち込まれていると思われる可能性があったからだ。


「ふむ……川松くん、君は今の話をどう思う?」


「私はただの秘書なので専門的なことは分かりかねますが……デリシオッソカフェの事業規模は現状ではそれほどではないですが、新興企業として勢いもあり、今それを取り込むのは悪い話ではないかと思います」


 瑠璃が秘書の川松を退出させずに話を聞かせた理由は、密室である社長室での会話が家族同士の馴れ合いではないことを、第三者として立ち会わせて証明させるためであった。

 その瑠璃の意図を汲んだ政光は、あえて川松に意見を求めたのであった。


「では、買収のプロセスを聞かせてもらおうか」


「デリシオッソカフェは東証のグロース市場に上場しています。なので敵対的TOB(株式公開買付け)で50%超の株式を買い付け経営権を取得します」


「瑠璃、なぜ友好的TOBではなく敵対的TOBを選んだ? じっくり相手の経営陣と買収交渉すればいいのではないか?」


 敵対的TOBとは対象企業の経営陣の了承を得ずに買収を仕掛けることであり、瑠璃がなぜそれを選んだのか政光には興味があった。


「デリシオッソカフェはコジマベーカリーを買収して、新たにカフェベーカリー事業に参入する計画を立てています。それをリスクと捉える株主がいると考えられるので、そういった投資家が株式を手放す可能性も低くないのではと思っています」


 デリシオッソカフェが新規事業に投資して失敗する可能性がある限り、株価が下がり損をする前に投資家が株式を手放す確率が高いということである。


「つまりはデリシオッソカフェがコジマベーカリーを買収したタイミングがTOBの仕掛け時だと?」


「はい」


 というのは方便で、瑠璃にとって経営権を取得してコジマベーカリーの名前を残すことが本当の目的であり、相手の経営陣と買収交渉をしていても、必ずしも経営権まで取得できるとは限らない友好的TOBは選択肢に入らないのであった。


「その話に乗ったとして、瑠璃は買収にどれくらい金額が掛かるか計算はしたのか? 買収した後の我が社の利益はどのくらいになるか? 買収のリスクは?」


「そ、それは……」


 政光の質問に瑠璃は言葉を詰まらせた。


「社長……さすがにそれは……」


 俯いてしまった瑠璃を見兼ねた川松が口を挟んだ。

 経営学を学んだ大学生でもない、ただの高校生の瑠璃にそれを求めるのは酷な話であった。


「まあ、さすがに高校生の瑠璃にそこまで求めるのは酷な話だな。ここからは専門家である我々大人の出番だ。次の経営会議が近々あるから、そこで議題に上げよう」


「ほ、本当ですか⁉︎」


 瑠璃がパアッと表情を明るくし、俯いていた顔を上げた。


「ああ、悪い話ではないし検討の余地はあるだろう」


 とはいえ、あくまで素人の意見である。

 それを専門の経営陣が鵜呑みにするとは思えない。


「はっきり言ってしまうと久宝パンは非上場企業だし、株式の大半は俺が持ってるしな。反対があってもゴリ押ししようと思えばできないこともない」


 久宝パンはオーナー系企業であり、オーナーの権力が強い。だから経営会議での発言力も他の役員とは比べ物にならない。


「お、お父さん……それを言っては……」


 政光の問題発言とも取れる発言に、さすがの瑠璃も素で返してしまう。


「この提案を私は検討しようと思うのだが、川松くんはどう思うかな?」


 何年も傍で秘書をして、政光の性格を分かっている川松にも意見を求める。


「私は、経営判断する立場にはありません。社長の思うがままにするのがよろしいかと」


 久宝家と小島家の関係を知った人間がこの話を聞けば、単なる私情で買収計画を立てていると思うだろう。実際のところ瑠璃は私情でこの計画を考えたのである。ただ、説得にはそれらしい理由が必要であると考え、社長にアポイントメントを取り、色々と調べてそれらしい理由付けをして体裁を整えたに過ぎない。

 政光もそれを承知の上で、瑠璃の計画を検討することを約束したのである。


「……分かった。瑠璃、よく考えたな。家族として頼るのではなく、形だけでもビジネスとしての体裁を整えたことを私は評価する。後は任せて安心するといい。決して悪いようにはしない」


 政光は自分の娘がコジマベーカリーを何とかしたいと思い、ただの高校生ができることを最大限考え、行動に移したことを誇らしく思った。

 結果、親に甘えていることには変わりないが、それでも政光は嬉しく思った。


 大事な娘のために、そして親友の健治のために私情で動くことに政光は後悔は一切なかった。

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