第30話
健治が退院してからも、宏樹は学校と店の両立で忙しい日々を過ごしていたが、健治が少しづつ店に顔を出すようになり、コジマベーカリーの日常が戻りつつあった。
それに合わせて藤沼社長も頻繁に店に来るようになった。コジマベーカリーの売却が現実に近付いている証拠でもあった。
「宮古さん、社長からお話があるから、レジは宏樹くんに任せて事務所まで来てもらえるかな?」
夕方のお客が少なくなった時間帯、レジ業務をしていた晶に工藤店長が声を掛けた。
「は、はい、分かりました……ひろくんお願いします……」
晶は不安そうな眼差しを宏樹に向けながら工藤店長と事務所に向かった。
「工藤店長、お疲れ様でした。お先に失礼します」
二十二時になり、業務を終えた宏樹と晶は店を出て駅に向かって歩き始めた。
「ひろくん……社長から聞いたよ……お店を売却するって本当なんだね……」
ここ数日はスタッフが一人一人、健治に呼ばれていた。店を売却することをスタッフに説明するための呼び出しであり、晶も今日、呼び出され説明を受けた。
「ああ……でも、晶も説明を受けたから分かると思うけど……店が完全になくなるわけじゃないし、みんな続けて働きたいと言ってるから、そんなに変わらないと思う」
宏樹は不安そうにしている晶が、できるだけ前向きに考えられるようにと説明した。
ここで宏樹が不満や愚痴を溢すことは絶対にしてはいけないと本人も自覚している。
「うん……継続して働くことを希望するか聞かれたから……もちろん働きたいって社長には話したよ」
「社員のベースアップとパートの時給アップは売却の条件に盛り込まれてるからね。このまま続けた方がスタッフにとっては得だからね」
「そうだけど……ひろくんは大丈夫なの? このままコジマベーカリーが無くなっても……?」
宏樹の痛いところを晶は突いてくる。
「もちろん……母さんとの思い出の店だし無くなってしまうのは嫌だよ……でも、働いているスタッフのことを考えると、個人的な感情は捨てなければいけない時もあるんだ」
「そっか……ひろくんは強いね……私はお店が変わってしまうのは嫌だなって思うし、簡単には切り替えられそうもないよ」
「俺だって簡単に割り切ったわけじゃないよ。親父と散々やり合ったからね」
宏樹は今の心境に至るまで、健治に剥き出しの感情をぶつけてきた。だが、現実はそう甘くなく、感情だけではどうしようもないことを宏樹は悟ったのだ。
「ひろくんもいっぱい悩んだんだね……私も受け入れられるように頑張るから」
「お別れになるわけじゃないしな。新しい人は入ってくるけど、今までと同じ一緒に頑張ろう」
「うん、私もひろくんと、みんなと一緒に働ければ幸せだよ」
「お店のことで不安なことがあれば俺に相談してくれ。親父と話し合ってなんとかするからさ」
店の売却にあれだけ反対していた宏樹も、今は成長しスタッフの心のケアにまで気を回すことができるようになっていた。
障害は人を成長させるという、一つの証拠である。
「ひろくんカッコいいよ……」
晶は瞳を潤ませ上目遣いに宏樹に熱っぽい表情を見せた。
「そ、そんなことはないと思うけど……」
不意に見せられた晶の表情に宏樹は思わずドキッとしてしまい、恥ずかしさから目を合わせられずに顔を逸らした。
「ひろくんも何か辛いことがあったら私に相談してね。私には何もできないけど……ひろくんが望むなら何でもしてあげるから……」
――な、なんでも⁉︎
先ほどから見せた晶の官能的な雰囲気に、宏樹は保健室でのことを思い出し、性的なことを想像してしまう。そんな事を晶が言っているわけではないだろうが、宏樹くらいの年頃の高校生男子なら当然の反応である。
「あ、ああ……何かあったら相談するよ」
いけない想像をしてしまった宏樹は気まずくなり、その後は駅まで到着するまでの道のりを、他愛もない学校の話をして平静を保つように努力した。
「ひろくん、遠回りになるのに、わざわざ送ってくれてありがとう。おやすみなさい」
「また明日学校でな。気を付けて帰れよ」
改札で晶と別れ、宏樹は家路についた。
◇
健治が退院してちょうど一ヶ月が経過した日、健治はスーツに身を包み、宏樹は学生服で藤沼社長の元を訪れ、オフィスの一室に通された二人は藤沼社長を待っていた。
「宏樹、わざわざ学校休んでまで一緒に来なくてもよかったのに」
今は平日の昼間であり、本来なら宏樹は学校に行っている時間だ。
「そうはいかないよ。今日がコジマベーカリーにとって大事な日になるんだ。それには立ち合わせてもらいたい」
「ま、そうだな……宏樹にも良い経験になるだろうしな」
今日はコジマベーカリー売却の契約書にサインをするために、健治は藤沼社長の元を訪れていた。
「小島社長、宏樹くん、お待たせしました」
藤沼社長がドアを開け、健治と宏樹の前に姿を現した。
「小島社長、ご足労いただきありがとうございます」
「いえ、こちらこそ宏樹の立ち合いまで許可をいただきありがとうございます」
「宏樹くんとっても大事なことです。立ち会う権利は当然あると思います」
「そういって頂けると助かります」
「それでは早速始めましょうか」
藤沼社長が譲渡契約書を取り出した。いよいよコジマベーカリー売却の交渉が始まった。
交渉といっても事前に売却条件は決まっている。今日は間違いがないか契約書を見ながらお互いに確認していくだけである。
「以上で全ての確認を終えました。間違いなければサインをお願いします」
藤沼社長がペンを取り出し、健治に差し出す。
あとはサインをすれば無事譲渡は完了する。
「はい、間違いありません」
健治はペンを受け取り譲渡契約書にサインを書き始める。
その様子を宏樹は黙って見ていたが、胸中は穏やかではなかった。
だが、胸中穏やかでないのは健治も同じで、わずかにペンを持つ手が震えているように宏樹には見えた。
「これをもってコジマベーカリーの譲渡は完了しました。お互いに協力してお店を盛り上げていきましょう」
サインを確認した藤沼社長が立ち上がり、手を差し出した。
健治も立ち上がり藤沼社長の手を取り握手を交わす。
「これからお店をよろしくお願いします」
藤沼社長の手を握りながら、頭を下げ俯いた健治の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「宏樹くん、これからもお願いします」
健治が手を離すと、藤沼社長は宏樹に向けて手を差し出した。
「藤沼社長、コジマベーカリーをよろしく――お願い、します……」
藤沼社長の手を握った途端、宏樹の瞳から涙が溢れ出た。
「宏樹……泣くやつがあるか……」
「親父だって泣いてるじゃないか……」
健治の瞳にも今にも溢れ出しそうな涙が溜まっていた。
「俺は報告をしなければならないからタクシーで店に戻るが、宏樹はどうする?」
オフィスを出たところで、健治と宏樹はタクシーを拾うため大通りに向かって歩いていた。
「俺は……ブラブラしながら帰るよ」
宏樹は心の整理をつけたいと、それを断った。
「分かった。帰りはあんまり遅くなるなよ」
今日はバイトを休みにしていた宏樹は、健治と別れて当ても無く歩き始めた。
「家に帰る気分じゃないな……」
宏樹はポケットからスマートフォンを取り出し、電話を掛け始めた。
その頃、瑠璃は学校が終わり家に向かって歩いていた。するとカバンの中からスマートフォンの着信音が聞こえてきた。
慌ててスマートフォンを取り出し画面を確認する。
――宏樹⁉︎
瑠璃は通話アイコンをタップし、スマートフォンを耳に当てる。
「もしもし!」
『もしもし、瑠璃? 急に電話してごめん』
「ううん、ちょうど学校が終わって家に帰るところだから大丈夫だよ。それで……どうなった……?」
『うん、無事契約は終わったよ』
「そっか……大変だったね」
瑠璃にはそれ以外、上手い言葉が思い付かなかった。
『瑠璃……会えないかな?』
「今から?」
『ダメかな? 無理なら――』
「ううん、全然大丈夫! 大丈夫だから! どこで落ち合う?」
宏樹に会いたいと言われ瑠璃は、二つ返事で反応した。
『……子供の頃、瑠璃とよく遊んだ公園なんてどうかな?』
今の宏樹は人が多くて騒がしい場所は避けたい気持ちであったのか、比較的人の少ない公園を待ち合わせ場所に指定してきた。
「うん、あそこの公園だね。分かったすぐ行くから」
『ありがとう……急にごめんな』
「そんなことないよ……じゃあ、また後でね。先に着いたら待ってるから」
電話越しに聞こえてくる宏樹の声には元気がなかった。やはり店を売却したことで落ち込んでいるのだろう。
『俺も先に着いたらベンチで待ってるよ』
そう言って宏樹は通話を切った。
「宏樹が私を必要としている……」
瑠璃は自分が宏樹に必要とされ、天にも昇る気持ちであったが浮かれている場合ではないと気を引き締め、再びスマートフォンを操作し電話を掛けた。
「もしもし、瑠璃です……はい、契約は終わったそうです。久宝社長、例の件よろしくお願いします。はい……失礼します」
瑠璃は電話を切り、スマートフォンをカバンにしまった。
――宏樹、まだ終わりじゃないよ。
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