第29話

「今から夕飯の準備するからひろ兄たちは適当に時間潰してて」


 家に着くと綾香が早速夕飯の準備に取り掛かり始めた。


「綾香ちゃん、私も手伝うよ」


 瑠璃が手伝うからと、リビングから綾香のいるキッチンへと足を踏み入れた。


「瑠璃ちゃんはお客様なんだから――ううん……お手伝いお願いできるかな?」


 綾香はお客様に手伝わせるのは申し訳ないと断ろうとしたが、何か思うところがあるのか手伝いをお願いした。


「うん! 任せて!」


 お客様扱いされるのが嫌だったのか、綾香にお手伝いを頼まれた瑠璃は張り切っている。




「ねえ、瑠璃ちゃん」


「綾香ちゃん、なぁに?」


 綾香から借りたお揃いのエプロンを着けた二人は、仲睦まじい姉妹のように見えた。


「ひろ兄とはどこまで進んでるの?」


「ど、どこまでって、な、何の話⁉︎」


 直球な綾香の質問に吹き出しそうになった瑠璃は、食事を作っていたこともあり、それを我慢したものの動揺は隠せなかった。


「瑠璃ちゃんは知ってると思うけど……めぐみさん、ひろ兄に振られちゃったでしょ? その原因は瑠璃ちゃんなのかなぁって」


 綾香はめぐみから告白の一部始終を聞いていた。だから、宏樹が断った本当の理由は瑠璃にあるのではないかと推測していた。


「わ、私は宏樹とは何も……何もない、よ……」


 瑠璃が言う通り、瑠璃と宏樹の関係は幼馴染で秘密の許嫁である事以外には何もなかった。その事実を自分で話す瑠璃は寂しそうに俯いた。


「瑠璃ちゃんは……ひろ兄のことどう思ってる? 私は知りたいな」


「私は……」


 綾香の質問に答えることを瑠璃が躊躇しているのは、自分の気持ちに向き合うのが怖いからだ。宏樹への恋心を認めてしまうと、今までのように振る舞える自信がないからだった。


「めぐみさん、ひろ兄のこと諦めていないし、このまま瑠璃ちゃんがハッキリしないと、本当にいつか取られちゃうよ?」


 宏樹に対する好意を隠していないめぐみと、照れ隠しなのか、いつもツンとしている瑠璃とでは勝負にならないと綾香は感じていた。


「そ、それはイヤ……わ、私は……宏樹のことはずっと前から、今でも……好きだよ……」


 何もしなかった人間と、失敗を恐れず行動した人間とでは大きな差がある。このまま瑠璃が何も変わらなければ、本当に何も起こらないまま月日が過ぎ、宏樹との関係も変わることもなく、むしろ大きく距離が開いてしまうかもしれない。

 そのことに薄々勘付いていた瑠璃は、宏樹への想いを口に出した。


「うん、頑張って言えたね……私は瑠璃ちゃんもめぐみさんも好きだから、特定の誰かを贔屓することはできないけど……今は瑠璃ちゃんを応援するよ」


 綾香の方が一つ年下だがお姉さんのように振る舞い、勇気を出した瑠璃にエールを送った。


『親父! これなんだよ⁉︎」


『……見れば分かるだろ?』


 キッチンにいる瑠璃と綾香の耳に、リビングから宏樹たちの争う声が聞こえてきた。


「ちょっと、二人とも! どうしたのよ⁉︎」


 綾香は調理中の手を止め、慌ててリビングの二人へ駆け寄り、宏樹と健治の間に割り込んだ。


「宏樹、健治おじさん、落ち着いてください!」


 調理中のコンロなどの火を止めた瑠璃は、後からリビングに駆け付け一触即発の二人を宥める。興奮して大きな声を出したのは宏樹の方であった。


「瑠璃ちゃん、みっともないところ見せて済まない……」


 健治はお客様である瑠璃に親子で喧嘩しているところを見せてしまい、申し訳なさそうにしている。


「宏樹も落ち着いて。健治おじさんが退院したお祝いの席なんだよ?」


「瑠璃……大きな声を出して悪かった……」


 瑠璃に宥められ宏樹は少し冷静になったようだ。


「お父さん、ひろ兄、一体なにがあったの?」


 宏樹が落ち着いたところで、綾香が揉めた原因を二人に問う。


「これを見てくれ……入院中の荷物を片付けていたら出てきたんだ」


「ノート?」


 宏樹が一冊のノートを差し出し、綾香はそれを受け取りページを開いた。


「これって……お父さんの字……だよね?」


 ノートの中身を確認した綾香が首を捻った。中には健治の手書きで難しい言葉がたくさん書いてあった。


「健治おじさん、私も見ていいですか?」


「ああ……瑠璃ちゃん、構わないよ」


 許可を貰った瑠璃はノートに書かれた内容に目を通す。


「これは……譲渡に関する条件?」


 瑠璃は誰に言うともなくポツリと呟いた。


「そうだ、入院中暇だったからな。店を譲渡する時の条件をまとめていたんだ」


 健治によるとパソコンは病室に持ち込めないから、手書きでノートに書いていたとのことだ。


「親父……やっぱり店を売却するのか?」


「宏樹にノートを見られてしまったし、丁度いいタイミングだから今から話そうか」


 健治は覚悟を決めたのか、店の売却についての考えを話すことにした。


「……私はキッチンで料理の続きをしてます」


 部外者である瑠璃は、気を利かせてキッチンに戻ろうとする。


「いや、瑠璃ちゃんもうちの家族同然なんだ。一緒に聞いて欲しい」


「わ、分かりました……」


 健治のその言葉に瑠璃は無類の喜びを感じたが、今は浮かれている場合ではないと平静を装い返事をした。


「そのノートを見て分かると思うが、俺は店の売却を前向きに検討している」


「……本当にそれしか方法はないのか?」


 納得のいかない宏樹は未だに受け入れることはできないようだ。


「今回のことで分かったと思うが、現場の主力である俺が欠けてしまうと、他のスタッフに大きな負担となってしまう。これはオーナーである自分が第一線から身を引かずに、後進の育成に力を入れてこなかった俺の責任でもある」


 職人気質である健治は、どうしても現場に立っていたいという気持ちから、自分が欠けた時のことまで考えての人材育成というものを怠ってきた。


「宏樹だけでなく、受験を控えためぐみちゃんにまで迷惑を掛けてしまった。俺の責任で他人の人生まで狂わしてしまうような、スタッフに甘えた経営をしていてはオーナーとして失格だ」


 宏樹たち三人は黙って、それを聞いている。


「だったら……ちゃんと店の経営ができる人間にしてもらった方が、スタッフも安心できるだろ? それが俺の義務だと思うんだ」


「親父……」


 他のスタッフの事を言われてしまっては、宏樹も何も言い返すことができなかった。自分が頑張れば済むという問題ではないからだ。


「なぁに、俺も再雇用されれば待遇も良さそうだし、店を売ればお金が入ってくるから、お前たちに良い学校に行かせられるし、悲観することじゃないぞ」


 重くなった場の雰囲気を変えようと健治はおちゃらけて見せた。


「しばらく俺は現場で仕事ができないから、ノートに書いた草案を元に藤沼社長と詰めていくよ」


 自分の静養期間中は店の売却に健治は動いていくという話で締めた。

 宏樹たち三人は、現実を受け入れなければならない段階に来ていることを嫌でも実感させられていた。




 健治の話が終わった後、綾香と瑠璃は調理に戻り、完成した料理を四人でテーブルを囲み、たわいもない会話をして退院祝いは終了した。


 そして瑠璃は駅までの道のりを宏樹と二人で歩いていた。


「なあ、本当に家まで送っていかなくていいのか?」


 宏樹は家まで送っていくと提案したが、瑠璃はまだ時間も早いから駅まででいいと断っていた。


「うん、大丈夫だよ。宏樹は今日くらい健治おじさんとゆっくりしなよ」


「そうだな……ゆっくり三人で一緒にいられることは最近ほとんど無かったからな……」


 健治は休日も朝から晩まで働き、朝に挨拶を交わす程度しか最近は家族として過ごすことがなかったことを、宏樹は改めて実感した。


「だったら……なおさら一緒にいる時間を大事にしないとね」


 瑠璃は優しく微笑んだ。


 二人は薄暗い住宅街を駅に向かってゆっくりと歩いている。


「……高校生って無力だな。早く大人になりたいよ」


 宏樹が自分の無力さを嘆く


「そうだね……」


 その後、二人は黙ったままだった。

 だが瑠璃にとって会話がなくても、その時間は心地良い時間であった。


「瑠璃、今日は親父の退院に付き合ってくれてありがとう。気を付けて帰れよ」


「うん、宏樹も気を付けて帰ってね。おやすみなさい」


 駅に着き宏樹がお礼を述べると、瑠璃は手を振って改札の奥へと消えていった。




「もしもし? 瑠璃です。川松さん、遅い時間にごめんなさい」


 電車を降りた瑠璃は改札から出て家に向かいながらスマートフォンを取り出し、政光の秘書である川松に電話を掛けた。


「お父さ――いえ、社長の来週のスケジュールで、できるだけ早い日程で空いてる時間があったら教えて欲しいの」


 お父さんと言い掛けた瑠璃は、社長と言い直した。


「はい、月曜の十七時ですか? では、その時間に私が会社に伺いますので、面会のアポイントメントを取ってもらえますか? はい、そうです。はい、よろしくお願いします。遅い時間にありがとうございました。はい……失礼します」


 ――私にもできることがあるかもしれない、だから、宏樹……諦めないで。


 瑠璃はその目に光を灯し、愛しい人のために善良を尽くすと心に誓った。

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