第32話

「もしもし、瑠璃です……はい、契約は終わったそうです。久宝社長、例の件よろしくお願いします。はい……失礼します」


 瑠璃は宏樹と待ち合わせをしている公園に向かいながら、政光に電話でTOB開始の依頼をした。明日には久宝パンによるデリシオッソカフェの公開買付開始がWeb及び新聞に公告されるだろう。


 以前、社長室で瑠璃から提案を受けた後、政光は詳細な買収計画を立て経営会議に臨んだ。その結果、一部の役員から慎重に考えるべきとの意見が出たものの、賛成多数で承認されデリシオッソカフェ買収案は可決となった。


 ――宏樹、まだ終わりじゃないよ。


 電話を終えた瑠璃は足早に公園へと向かう。




「宏樹はもう着いてるかな……」


 この公園は小学生の頃に瑠璃と宏樹が一緒によく遊んだ公園であり、宏樹が晶と初めて出会った場所でもあった。

 瑠璃は公園の入り口に一番近いベンチに座っている宏樹を見つけた。

 しかし、宏樹に元気がないのは遠目から見ても明らかで、その様子に瑠璃は駆け出さずにはいられなかった。


「宏樹! 遅くなってごめん!」


 不意に声を掛けられた宏樹は驚きの表情を浮かべ、瑠璃に向き直る。


「いや……瑠璃の都合も考えずに呼び出したのは俺だし、謝るのは自分の方だよ」


「ううん、そんなことないよ。契約のこと気になっていたし、その……私も宏樹に会いたいと思ってたから連絡もらえて嬉しかった……よ?」


 気落ちしている宏樹が会いたい、と自分を頼ってきたことに嬉しさのあまりニヤけてしまいそうになるが、今はそういう状況ではないと瑠璃は冷静になるように努める。


「そっか……瑠璃は家族と同じくらい付き合いが長いから、つい甘えてしまったのかもな……」


 妹の綾香より長い付き合いの瑠璃は、宏樹にとって数少ない心許せる相手だった。

 母との思い出の店が無くなることに心を痛めていた宏樹は、慰めてもらいたくて無意識に瑠璃を頼っていた。


「か、家族!? わ、私たちまだ高校生だし、か、家族というのはまだ早いんじゃ……ないか、な?」


「……!? な、なに勘違いしてるんだよ!? そういう意味で言ったわけじゃないからな?」


「わ、私だってそういう意味で言ったわけじゃないから!」


 うっかり本音が出てしまった瑠璃は慌てて否定し、プイっとそっぽを向いてしまった。

 

「……瑠璃、何か飲む? そこの自販機で買ってくるよ」


 お互い少し気まずくなり、宏樹は気持ちを切り替えようとベンチを立った。


「そ、そうね……急いで来たから喉乾いちゃったし、一緒に買いに行こっか」


 宏樹に早く会いたいという思いから公園まで早足でやって来た瑠璃は、うっすらと汗をかいていた。


 公園内の自販機でドリンクを購入した宏樹と瑠璃は、再びベンチに腰掛けた。


「最近は来なくなっちゃったけど、昔はこの公園で瑠璃とよく遊んだな」


 幼少の頃は瑠璃も男子に交じって一緒に遊ぶことが多かったが、小学校の高学年の思春期の頃には男女という性差を気にするようになり、一緒に遊ぶことはほとんどなくなった。


「うん……最近は公園なんて来ることはなくなっちゃったけど……こうやって二人で話すのも楽しいね」


 しばらく懐かしい昔話で盛り上がっていた二人だが、会話が途切れ不意に沈黙が訪れる。


「そういえば……宮古さんと宏樹が知り合ったのってこの公園?」


 数秒続いた沈黙の中、瑠璃が何かを思い出したのか口を開いた。


「ああ、晶とはここで出会ったんだよ。母さんが亡くなった直後で俺が落ち込んでる姿を見兼ねたのかな? 『一緒に遊ぼう』って声を掛けてくれたんだ」


「そうだったんだ……私も宏樹に元気を出してもらいたかったけど、当時の私にはどうしていいか分からなくて……何もできなくてごめんなさい……」


「瑠璃が謝る必要なんてないだろ? デリケートな問題だし子供には難しい話だと思うぞ」


 大切な家族を亡くした人を元気付けることなど、大人でも難しいことだ。子供の頃の瑠璃にできなかったのは無理もないことだ。


「でも……宮古さんのお陰で宏樹は元気を取り戻した。そうでしょう?」


「まあ……そうかな? 当時の晶は男子と間違えるくらい活発で、色々なことを考える暇もなく引っ張りまわされたからなぁ」


 母親を亡くし、悲嘆にくれていた宏樹は晶と一緒に過ごすことで笑顔を取り戻した。


「今の宮古さんからは想像できないわね」


 子供の頃は男子のように活発に公園を走り回っていたとは思えないくらい、今の晶は控えめで可愛い女子へと変貌していた。


「当時も可愛い顔をしてる男子だなぁとは思っていたけど、まさか女子だったとは思わなかったよ……」


 宏樹は当時のことを思い出し懐かしそうにしている。


「宏樹……アンタ、まさかとは思うけど、小さい頃の宮古さんが可愛い顔してたからってパンツ脱がした訳じゃないでしょうね……?」


「そ、それは誤解だって! 前にも不可抗力だって話しただろ!? それに、子供だったからよこしまな気持ちなんて起こらないって言ったじゃん!」


「……それじゃあ今の宮古さんだったら、そういう気持ちになる?」


「そ、それは……」


 保健室での出来事を思い出した宏樹は答えに窮し黙ってしまう。

 女性らしく成長した晶の艶めかしい姿に、保健室で邪な気持ちを抱いてしまったことは否定できなかった。


「まあ……宮古さんが可愛くて魅力的なのは事実だし、私と比べたら……」


 瑠璃は自分の平坦な胸元に視線を落とした。


「そ、そういえば契約は無事終えたよ」


 フォローしにくい内容に話が逸れてきたので宏樹は慌てて話題を変えた。


「そ、そう! それでどうだったの?」


「どうだったの何も……契約内容を確認しただけだし、良い条件を出してくれた 藤沼社長には感謝しているよ。コジマベーカリーは無くなっちゃうけど、死んだ母さんにもきっと分かってもらえるよ……」


 宏樹は悲しそうにそう語った。

 宏樹は全てに納得はしているわけではない、本当は悲しくて仕方がない、瑠璃はそう感じた。瑠璃は宏樹を安心させるために、今すぐにでもTOBのことを話したかったが、それはできない。関係者が情報を漏らすわけにはいかないからだ。


「……本当はさ、高校を中退してでも親父に代わって店を引き継ぎたかったんだ。でも、そうすると親父を悲しませてしまう……俺がもっと大人だったらっ!」


 本音を語った宏樹は声が震えていた。その瞳から一筋の涙が溢れた。


 ――!?


 涙を流し項垂れた宏樹は突然、フワッと良い香りに鼻腔をくすぐられ、暖かくて柔らかい何かに包まれた。


「宏樹、泣かないで……大丈夫だから……お母さんが残したお店はきっと残せるから」


 隣に座っていた瑠璃が、宏樹の頭をその胸に引き寄せ抱き締めていた。


「瑠璃……それはどういう――」


「今は言えない……でも、大丈夫……私はずっと宏樹の味方だから」


 会話がなくなった二人は、無言で抱き合い続けた。

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