第26話

「健治、生きてるか?」


 宏樹が病室を後にしてから三十分ほど経った頃、病室のドアを叩き顔を出したのは、健治の友人で久宝パンの現社長である久宝政光くぼうまさみつであった。

 政光は妻の真純ますみと娘の瑠璃を連れて健治の見舞いにやって来た。


「当たり前だ、生きてるに決まってるだろ? お前より先に死ぬつもりはないよ」


 政光の憎まれ口に対して、健治は軽口でそれを返した。


「そうか、奇遇だな。俺も健治より早く死ぬつもりはないから、お互い永遠に生きていられるな」


 健治と政光はお互いに軽口を叩き合う間柄で、倒れて救急車で運ばれたというのに、そこに悲壮感といったものはなかった。

 政光が変に気を使わないことで、健治に余計な負担を掛けないようにしてることは健治にも分かっていた。


「あなた、おふざけも大概にしなさい。健治さんに失礼ですよ」


「真純さん、政光は俺が元気だったのが本当は嬉しかったんだけど、素直になれないから照れ隠しでこんな事を言ってるんで勘弁してやってください」


「お、おい、俺は別にお前のことなんて、はなから心配なんてしてないからな?」


「政光、知ってるか? そういうのを“ツンデレ”って言うんだぞ」


「健治おじさんってば、そういう冗談が言えるならもう大丈夫そうですね。でも、心配したんですよ? 教室でおじさんが救急車で運ばれたって聞いた時は」


 政光と健治のやりとりを見ていた瑠璃は呆れた様子だ。


「瑠璃ちゃん、心配を掛けさせて申し訳ない。今はもう元気だから大丈夫だ」


「本当に大丈夫ですか? もう無理しちゃダメですよ?」


「め、面目ない。さっきも宏樹に怒られたばかりだよ」


 本気で心配している瑠璃の前で健治はタジタジであった。


「綾香ちゃん久しぶりだね。大きくなってお母さんののぞみさんに似てきたよ」


 政光は亡くなった綾香の母親のことを思い出したようで、懐かしそうにしている。


「政光おじさんお久しぶりです。お忙しいところをお見舞いに来ていただきありがとうございます」


 綾香はぺこりとお辞儀をした。


「礼儀正しいし、望さんに似て美人だ。うちの嫁に来てほしいくらいだ……と、思ったがうちは一人娘だったか。まあ、宏樹くんが瑠璃の婿に来てくれれば安泰だな」


「ちょ、ちょっとお父さん⁉︎ なんの話をしてるのよ!」


 突然、宏樹の話を持ち出され顔を赤くして瑠璃は慌てている。


「なんだ? 瑠璃は宏樹くんに不満でもあるのか?」


「そ、そういう問題じゃなくて! 今日はお見舞いに来たんでしょう⁉︎」


「分かった、分かった、宏樹くんの事を聞かれて恥ずかしいんだな」 


「あなた、デリカシーがないですよ? 瑠璃もお年頃なんですから、気になる男子の話をされたら恥ずかしいに決まっているでしょう?」


「お母さんまで!」


 瑠璃の両親は昔からこんな感じで、宏樹と瑠璃が生まれた時もこのような調子で許嫁というものが決まったのである。


「それで、どうなんだ? 結局、救急車で運ばれた原因はなんだったんだ?」


 今まで軽口を叩いていた政光だが、今は真剣な表情で健治に向き合っている。


「ひと通り検査をしたんだが、過労による貧血で倒れただけで他に深刻な病気とかはなかったよ」


「そうか……なら今後は無理をしなければ大丈夫だな」


 異常がないという健治の話を聞き政光は安堵の表情を見せた。


「まあ身体はな……」


 だが、異常がなければ喜ぶべきところだが、当の健治の表情は暗かった。


「店、厳しいのか?」


 その表情から政光は健治が店の経営に懸念を抱えている事を察する。


「今すぐどうこうってわけじゃないが……原材料費も光熱費も値上げしているし、いずれ厳しくなるだろうな」


 良心的な値段で営業しているコジマベーカリーの営業利益は驚くほど低い。


「原材料と燃料費高騰の影響はコスト削減で吸収できる限界を超えてきたから、うちでも値上げせざるを得ない状況だからな」


 久宝パンのような規模の大きい企業なら、なおさらコスト高の影響は大きいだろう。


「俺はお前みたいに経営の才能はないからな……このまま続けていると、今回みたいに宏樹に迷惑をかけちまう。俺の手伝いをするために、留年どころか高校を辞めるとか言い出してるからな」


「えっ……? 宏樹がそんな事を言っているんですか……?」


「瑠璃ちゃんはあいつの性格を知っているから分かるだろうが、言い出したら聞かないからな」


 瑠璃は黙って頷いた。


「瑠璃ちゃん、俺がそんなことはさせないから安心してくれ。宏樹は絶対に大学まで卒業させるから」


「はい、私にも協力できることがあれば言ってください」


 瑠璃も宏樹と高校を一緒に卒業して、大学も一緒に通いたいと思っている。その為にはどんなことでも瑠璃は協力する覚悟でいた。


「今、うちと取引があるデリシオッソカフェに、コジマベーカリーの売却を検討しているんだ」


 健治は政光に目を向け再び話し始める。


「最近、店を増やしている新興のカフェチェーン店だな」


 会社を経営している政光は当然そういった情報には詳しい。


「ああ、カフェベーカリー事業の展開も考えているようで、コジマベーカリーのパン製造のノウハウが欲しいみたいなんだ。デリシオッソカフェの藤沼社長はやり手だし、このまま店を任せた方がいいのかなって最近は思うんだよ」


 このまま健治が経営を続けて今回のようなことにならないように、才能のある人間に任せた方が、従業員にも宏樹にも迷惑が掛からないのではないだろうかと考えていた。


「経営判断としては間違ってはいないだろうな。売却したとしても従業員は再雇用で健治はそれなりの役職を与えられるのだろう?」


「ああ、売却の条件にスタッフの再雇用は当然入れてるよ。それに藤沼社長はパン製造の責任者として俺を迎え入れると言っていたな」


「そうか……悪い条件ではないな。一度経営から離れて、サラリーマンとなるのもひとつの選択肢ではあるな」


 厳しいようだが大企業の経営者である政光は私情を挟まず、あくまで事実のみを述べている。


「コジマベーカリーはなくなるが、家族と従業員が一番大事だからな……」


 店の名前が残るのが理想ではあるが、ビジネスというものはそういった感傷とは無縁のものだ。いかにして利益を出して儲かるかという結果が最も重要である。


「店のオーナーの健治がそこまで考えているのなら、俺からは何も言うことはないよ」


 そのことを誰よりも分かっている政光は、健治の考えを尊重する姿勢だ。


「せっかく来てくれたんだ、辛気臭い話はここまでにしようか。瑠璃ちゃんには学校での宏樹のことでも聞かせて貰いたいな」


 ビジネスの話になってから瑠璃や綾香、ある程度経営の知識のある真純も会話に一切参加していない。政光が締め括ったところで健治が重苦しい話は止め、気を利かせて瑠璃に話を振った。


「宏樹の学校でのことですか?」


「そうそう、あいつは学校のことを家では一切話さないからな」


 瑠璃は晶が転校してきた日の出来事を話すと、健治は大喜びして笑っていた。


「じゃあ、そろそろ俺は仕事に戻るよ。健治が元気そうで安心したよ」


「ああ、今日は忙しいところわざわざ見舞いに来てくれてありがとな」


 最後に政光は本音で心配していたことを言葉にし、真純と瑠璃を連れて病室を後にした。




「家で真純と瑠璃を降ろしてから、会社に戻ってくれ」


 病院の駐車場で社用車に乗り込んだ政光は、運転手に行き先を告げる。


「ねえ、お父さん……なんとかならないの?」


 車が病院の駐車場を出てから、少し走ったところで瑠璃が口を開いた。


「コジマベーカーリーのことか?」


「うん……」


「瑠璃はどうして欲しいんだ?」


 政光は瑠璃が何を言いたいのか分かってはいるが、敢えて質問で返した。


「その……久宝パンで業務提携するとか……いっそのこと買収するとか……」


 瑠璃は自分が無理を言っているということが分かっているのか、俯き遠慮がちに意見を述べた。


「それは無理な相談だな。久宝パンにとってコジマベーカリーは取引相手としては価値がない……しかし、コジマベーカリーを立ち上げた時に関わった一人として、健治の友人として個人的にはどうにかしたいとは思う」


「だったら――」


「が、それとこれとは別の話だ。私情で会社の利益を損なうことは、久宝パンで働いている従業員を裏切る行為となる。従業員の生活を支えているのだから、私たちには責任があるんだよ」


 政光の言っていることは正論であり、瑠璃が反論する余地は一切なかった。


「まあ、健治が売却先として検討しているデリシオッソカフェの規模なら、カフェチェーン店事業の展開を考えている久宝パンには利するところがあるけどな」


 そう言って政光は車の後部座席で隣に座っている瑠璃に目配せした。


「瑠璃、これからは自分で考えて行動する必要も出てくるわ。お父さんの言葉の意味をよく考えなさい」


 ここまで一切口を挟まなかった真純がようやくここで口を開いた。


「お母さん……分かった」


 それ以降、瑠璃は車が家に到着するまで黙ったまま、何かを考えているようであった。

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