第8話

「なあ、本当に行かなくていいのか? みんなも瑠璃が来るって期待してたんじゃないか?」


 駅前の店に向かう途中も宏樹は、クラスメイトとカラオケに行かないのかと瑠璃を説得していた。


「今回は宮古さんの歓迎会なんでしょう? みんなの目当ては彼女なんだからいいのよ」


「まあ、そうだけど……」


「どうしても私をバイト先に連れて行きたくないのかしら?」


「い、いや、そんなわけないだろ? 前にも行ったことあるんだし」


 瑠璃の予想通り宏樹はバイト先であらぬ噂を立てられるのを嫌っての行動だった。


「ならいいじゃない。それとも……この前お店に行った時に見掛けた、宏樹の横にもう一人いたレジの女性に見られたくないから?」


 瑠璃が言っている女性はめぐみのことだろう。めぐみも昨日一緒に帰った時に瑠璃のことを覚えていたので、お互い印象に残っているようだ。


「なんでめぐみさんが出てくるんだよ」


「あの綺麗な子、めぐみさんっていうのね。ずっと私のこと見てたから覚えてるの」


 前回、瑠璃を連れて行った時はめぐみに会釈をしただけで、何か会話を交わしたような様子は無かった。


「瑠璃は美人だし目立つからな。それで見られてたんじゃないか?」


「び、美人⁉︎」


 宏樹に突然褒められた瑠璃は顔を赤く染め恥ずかしそうに俯いた。


「ひ、宏樹は……その……私のこと美人だと思ってるの?」


「まあ……瑠璃は可愛いし美人だとは思ってるよ」


「か、かわっ⁉︎」


 そこまで褒められると思っていなかったのか、瑠璃は口をパクパクさせている。


「……アンタあちこちで女子にそんなこと言って回ってるんじゃないでしょうね?」


「も、もちろんだよ。あはは……」


 昨日もめぐみに同じようなことを言われたことを思い出した宏樹は笑って誤魔化した。


「どうにも信用できないわね……」


 瑠璃は疑いの眼差しを向けたまま宏樹と一緒に店へと入って行った。


「いらっしゃいま――って宏樹くんお疲れさま」


「めぐみさんお疲れさまです。これから入ります」


 宏樹が瑠璃を連れて店内に入ると、昨日と同じくめぐみがパンの陳列をしていた。


「……今日もまた女の子と同伴出勤ですか? 良いご身分ですね」


 瑠璃を一瞥しためぐみは宏樹にジト目を向け、言い放ったその言葉は冷たく低い声だった。


「めぐみさんこんにちは。久宝瑠璃です。こうしてお話をするのは初めてですね。宏樹に同伴で出勤させてしまい失礼いたしました」


「……折原めぐみです。お気になさらずに。私もいつも夜遅く宏樹くんに送っていただいているので」


 その会話はさながらキャバ嬢の同伴とアフターみたいなことになり、変なところで二人は張り合っているようだ。


 瑠璃とめぐみ、二人の間にはバチバチと火花が散っているように宏樹には見えたことだろう。


「そ、それじゃ俺はバイトに入るからゆっくりしていってくれ」


 宏樹は店先で睨み合いをする二人を放置し、さっさと店内の奥へと消えていった。


「久宝さん、私も仕事に戻ります。ごゆっくりどうぞ」


 めぐみはプイッと瑠璃から顔を背け厨房へと入っていった。



「あれ? 親父、今日は本店の方じゃなかったっけ?」


 宏樹がタイムカードを押そうと事務所に入ると本店で働いているはずの健治がデスクで作業をしていた。


「おう、宏樹。今日はちょっと用事があってな。少ししたら向こうに戻るよ」


 今、事務所には宏樹と健治の二人しかいない。先日の聞いた手放すという話を聞くチャンスと思った宏樹は意を決して口を開いた。


「なあ親父……」


「宏樹なんだ?」


「昨日さ……藤沼社長と話してるの聞いちゃったんだけど……店を手放すとかどうとか言ってたのはどういうことなんだ?」


「……聞かれてしまったんじゃ仕方ないな。デリシオッソカフェから買収を持ち掛けてられているんだよ」


「うちのお店を?」


「そうだ。藤沼社長はうちの二号店のようなカフェベーカリー形態の店舗も展開を考えているようだ」


 カフェベーカリーとは店内で焼いたパンを販売し、それをイートインコーナーで食べることが出来るお店のことだ。


「ああ……なんとなく分かったよ。うちの二号店をデリシオッソカフェベーカリーの一号店にしたいんだろ?」


「そういうことだ。デリシオッソカフェにはパンを製造するノウハウが無いからな。コジマベーカリーごと買収すれば、ノウハウとパン製造の設備が手に入る」


 確かにコジマベーカリー二号店のパン製造設備がそのまま使えるので、内装の工事をするだけで済むから効率的だろう。


「まあ、それだけじゃないんだがな」


「まだ何かあるのか?」


「藤沼社長はカフェだけの店舗も今後、増やしていくと言ってるんだ。となると今のうちの設備ではデリシオッソカフェの店舗が増えると、全ての店で販売するパンを製造できないんだよ」


 今現在、本店と二号店のパン工房をフル稼働してコジマベーカリーで販売しているパンとデリシオッソカフェで販売しているパンを製造している。


「つまり製造するラインが足りないってこと?」


「そう、だからコジマベーカリー本店の小売を止め、製造ラインを増やしパンだけを製造する工房にするというのが買収後の計画だ」


「つまり、コジマベーカリーは消滅する? っていうこと?」


「簡単に言えばそうなる」


「そんな……親父や従業員はどうなるんだよ?」


「もちろん従業員はそのまま継続して雇ってもらう。パン製造は従業員を含めたノウハウだからな。で、俺はパン製造部門の責任者として新たに雇用契約を結ぶことになるな。経営権も譲ることになるから単なる雇われになる」


 健治から聞かされたのは思ってた以上に重大な話で、コジマベーカリーに関わる全ての人の人生に影響するような深刻な話であった。


「まあ、こういう話は事業をやっていればままある話だが、俺は店を売却する気は無いから安心しろ」


「でも、藤沼社長ゆっくり考えてくれて言ってたし諦めてはいない様子だったけど」


「交渉っていうのは何度も話し合うものだからな」


「俺はコジマベーカリーが無くなってしまうのは嫌だな……親父も母さんとの思い出の店だって……」


「売却しなくてもよい別の方法も藤沼社長と話し合う必要はあるとは思ってるから大丈夫だ。お前は気にするな」


 店の採算が悪いのであれば経営者的に売却も止む無しということもあるかもしれない。だが、ただの高校生である宏樹にそれを割り切ることは難しいだろう。


「俺には何もできないから親父の判断に任せるけど、相談だけはして欲しいと思う」


「ああ、分かった。本当は宏樹にもこの話はするべきだった。すまなかった」


 健治は黙っていたことを宏樹に頭を下げ謝罪した。


「うん、その時は綾香も交えて家族みんなで話をしよう」


「そうだな……」


 中学生の綾香には荷の重い話だが、家族全員で決めたことなら後悔はしないだろう。


「社長、入ります」


 事務所の扉がノックされ二号店の店長で工藤雅之くどうまさゆきが入ってきた。工藤はコジマベーカリー本店オープン当時からいる古株で二号店の店長として店を任されている。

 温厚で人当たりも良く健治からの信頼も厚い。コジマベーカリーに無くてならない人材だ。


「工藤店長、お疲れさまです」


「宏樹くんお疲れさま。今日もよろしく頼みますね」


「あ、工藤店長、ひとついいですか?」


「なんだい?」


「めぐみさんがもうすぐ辞めるじゃないですか。変わりはどうするんですか?」


 二号店の店長は工藤なので聞くにはちょうど良いタイミングだ。


「それならもう募集をかけてるから大丈夫ですよ」


「あ、そうなんですね。ありがとうございます。それじゃあ、そろそろ俺は仕事に入ります」


 工藤店長が事務所に来たことで健治との話は中断され、宏樹は業務に入るために店内へと戻った。

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