第6話

 藤沼社長を事務所に案内した宏樹は父親を呼ぶために厨房へと向かった。


「親父、藤沼社長が事務所で待ってるからすぐに行って」


「おう、分かった。コーヒー淹れて持ってきてくれ」


「今、淹れてるから後で持っていくよ」


 藤沼社長は県内を中心にデリシオッソカフェというカフェチェーン店を経営している若き事業家で、まだ少ないながらも着実に店舗数を増やしている注目の新興カフェチェーン店である。

 コジマベーカリーはデリシオッソカフェで販売しているパンを納品している。今日は何か仕事の用件で藤沼社長は訪れたのだろう。


『小島社長、例の件は考え直していただけましたか?』


 コーヒーを届けに来た宏樹が事務所の扉をノックしようとすると、少し開いた扉から二人の会話が聞こえてきた。本当ならここで扉をノックして入るところだが、宏樹は話の続きが気になり健治と藤沼の会話に耳を傾けた。


『藤沼社長、せっかくのお話ですが……妻との思い出の店でもありますし、私は考えを変える気はございません』


『そうですか……考えが変わったらいつでも仰ってください』


『藤沼社長、わざわざお越し頂いたのに申し訳ありません』


『いえいえ、店を手放す決断なんて簡単にできるものではありません。家族を交えてゆっくり考えてください』


 ――店を手放すだって⁉︎ 二人は一体なんの話をしているんだ……?


『それでは今日はもうこの話は終わりにして、納品して頂いているパンのレパートリーについてなんですが――』


 藤沼社長はその話は続けずに別の話を話し始めた。


 ――コーヒー冷めちゃうな。この件は後で親父に聞いてみるか。


 盗み聞きを中断した宏樹はコーヒーを事務所の二人に差し入れ店内に戻った。


「宏樹くん、何かあったの? なんか怖い顔してるよ」


 業務に戻った宏樹の固い表情を見てめぐみが心配そうに声を掛ける。


「いや、なんか難しい話をしてるなぁって思ってただけだよ」


 スタッフにこの店を手放すなんて話ができるわけも無く、宏樹は適当に誤魔化した。


「そう……でも、いずれ宏樹くんはこの店を継ぐんでしょう? だったら難しい経営の話も理解できるようにならないとね」


「俺は高校卒業したらすぐに継いでもいいと思ってるんだけど、親父は大学に行って自分の好きな事をやれって言うんだよな」


「お父さんの云うことには一理あると思う。すぐにお店を継がなくても大学で経営とか学べば今後、継いだ時に役に立つだろうし色々と宏樹くんのことを考えてくれてるんだよ」


「まあ、それは分かるんだけどね……あ、いらっしゃいませ!」


 めぐみとの会話はレジに客が来たため中断した。数組のお客を会計を終わらせ、客が途切れたタイミングで晶が宏樹のレジまでやって来た。


「ひろくん、今日はバイトは何時までなの?」


「今日は閉店までだから二十二時だよ」


「そっか……それじゃあ一緒に帰れないね」


 宏樹と一緒に帰るつもりだったようで晶はガッカリした様子で肩を落とした。


「晶は遅くなる前に帰った方がいいよ。転校初日から帰りが遅いと家族が心配するだろうし」


「うん、そうする。それじゃあ私は帰るね。ひろくんもお仕事頑張って」


「ああ、晶も気を付けて帰れよ」


 晶は席に戻り荷物をまとめ、レジにいる宏樹に手を振りめぐみに会釈をして店を出て行った。


 その後、仕事を終えたであろうサラリーマンやOLの来店が増えたため忙しくなり、その後はめぐみと話はできず閉店の時間となった。


「社長、お疲れさまでした。お先に失礼します」


「おう、めぐみちゃんお疲れさま。宏樹、ちゃんと送って行くんだぞ」


 めぐみと宏樹は十八歳未満であるため店が閉店時間の二十二時までしか働くことはできない。夜、遅い時間なので女性のめぐみを心配して、勤務が一緒の時は宏樹が家まで送っている。


「親父、分かってるって。それじゃあお先に失礼します」


 店を出た宏樹とめぐみは店から出て駅と反対側方向の住宅街へと歩き始めた。めぐみは店から徒歩二十分ほどのところに住んでいる。


「宏樹くん、いつも送ってもらっちゃって悪いね」


 宏樹の隣を歩いているめぐみは申し訳なさそうにしている。


「途中まで同じ方向だし、めぐみさんが事件に巻き込まれたりしたら大変だからね」


 実のところ宏樹が住んでいるのは方向が違い遠回りになる。宏樹の住んでいるところを知らないめぐみにわざわざ言う必要も無いだろう。


「子供じゃ無いんだし大丈夫だよ」


「ほら、めぐみさん美人でお客さんにも人気だし、ストーカーとかいたら怖いじゃない?」


「び、美人⁉︎ そ、そんなことないと思うケド……」


 宏樹に突然美人と言われためぐみは恥ずかしそうに俯いた。


「あ、あれだよ。客観的に見て美人だなっていうだけで……その……」


 宏樹も自分で言った言葉に恥ずかしさを覚え口籠もってしまう。


「っていうか宏樹くんそんなことサラッと言ってるけど、学校でもそんな風に女の子を口説いてるの?」


「いやいや、口説いてるなんて人聞きが悪いな。学校じゃ女友達ホント少ないから」


「ウソばっかり。転校初日の宮古さんを店に連れてきちゃうし、久宝さんだっけ? 前に店に来てた同級生も凄いキレイな子だったし、どの口でそれを言うかな」


 晶と瑠璃以外に話をする女子はいない宏樹だが、ここで説明しても分かって貰えなそうだ。


「めぐみさん、なんか怒ってる?」


 めぐみの棘のある言い方に、瑠璃の時のように何か気に障ることを言ってしまったのではと宏樹は焦った。


「別に怒ってなんかいないよ」


 口ではそう言っているめぐみだが明らかに不機嫌そうだ。


「それよりさ……宏樹くんは宮古さんと久宝さんのどっちが本命なの?」


 めぐみが言っている本命とはどちらの方が好きかということなのだろう。


「本命って言われても……二人は同級生で幼馴染みなだけだよ」


「じゃあ質問を変えるね。宮古さんと久宝さんと……の誰が好み?」


 宏樹が曖昧な返事をするとめぐみは質問を変え、更に食い下がってくる。


「誰が好みと言われても……三人とも美人で可愛いし選べないよ」


 ――なら私にもチャンスはあるってことだね。


 めぐみは何かボソッと呟いたが宏樹は聞き取ることができなかった。


「めぐみさん、質問の意図が分からないんだけど……」


「気にしないで。意識調査みたいなものかな」


「そうですか……」


 その後、二人は暗い夜道を会話もせずゆっくりと進み、めぐみの家の前に到着した。


「宏樹くん、私の家に寄ってく? 今日は家に誰もいないから何をしても大丈夫だよ?」


 めぐみは真剣な面持ちで宏樹を上目遣いで見上げた。


「えっ⁉︎ な、何をしてもって……」


 誰もいない家に女子と二人きりの状況で“何をしても大丈夫“という意味を宏樹はつい想像してしまい、ゴクリと唾を飲み込んだ。


「なーんて冗談だって。ほら電気が灯いてるでしょ? 家にはみんないるから。それとも……宏樹くん変な想像して期待しちゃった? ひひ」


 めぐみは小悪魔のような笑みを浮かべ、してやったりと嬉しそうだ。


「か、揶揄わないでくださいよ」


「あはは、宏樹くん照れちゃってカワイイ」


 先ほどまでの真剣な表情とは打って変わり、めぐみは楽しそうにケラケラと笑っている。


「じゃあ、俺は帰りますからね!」


 一瞬、変なことを考えてしまった宏樹は恥ずかしさからばつが悪くなり、早くこの場から立ち去りたくなった。


「今日も送ってくれてありがとう。気を付けて帰ってね」


 そういってめぐみは踵を返し玄関へと向かった。


「めぐみさん、お疲れさまでした!」


 めぐみは振り返り宏樹に手を振って家の中へと消えていった。


 ――めぐみさん、あんな冗談言うんだ。


 バイト中とは違った一面に触れ、宏樹は不覚にも少しドキドキしてしまう。


「はあ……帰ろ……」


 何となく気疲れした宏樹はそのまま帰宅し、眠気で健治の帰りを待つことができずに眠ってしまった。

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