鬱屈

知らない人

病み

 初夏、五月初旬の太陽は、突き抜けるように澄んだ空の真ん中で、僕の背中を激しく刺していた。衣替えを忘れて未だ着込んだままの冬用学生服が、アスファルトみたいに熱をため込むせいで汗が止まない。階段を上る足も重くなるし、ことあるごとに目元に汗が流れ込んできて鬱陶しい。肩にかけた学生カバンからタオルを取り出すのも億劫だから、目に入りそうになった汗を素手で拭う。

 僕は階段を上った。粗雑な石造りの階段は段の高さがまちまちで幅も狭く、運動慣れをしていない僕からすると、少し油断すれば簡単に転んでしまいそうな危険な場所だった。運動部の連中は部活と称して、この狂った階段を毎日何十回と行き来するらしいが、とても信じられる話ではなかった。現に今、半分にも到達していないのに僕は虫の息になっている。

 苦痛にあえぐ胸を抑え込みながら段に腰を掛けて、肩にかけた革製の学生カバンを下ろす。

 僕の左右には自然そのままの木々や雑草が好き勝手うねって繁殖していて、風が吹くたびに騒ぎ両耳を占拠する。植物の密度はきわめて高くて、日は通さず地面も薄暗く見通せない。しかし視線を正面に戻して、遠い地上を見下ろせば、倒れ込めば死んでしまいそうなほどの急斜面にそって階段が作られていることがわかる。僕はこれを上ってきたのだ。息も絶え絶えになりながら。

 荒い息で顔をあげた真正面には広く視界が開けていて、街を一望できた。空を仰げば、忌々しい太陽がさんさんと輝いている。僕は息が整うまでどこに焦点を合わせるでもなく、腰かけている石の段にも似た灰色の建物群の中に視線を漂わせていた。僕の通う高校は黒緑の木々に隠れて見えなかった。もちろん街中の歩道に真紀を見つけられるはずもなかった。彼女の家は山の反対側だし、そもそも仮にいたとしても米粒程度の大きさだ。個人を特定するには小さすぎる。

 それに、見つけたところで、何にもならない。

 僕は学生カバンのファスナーを引いて、中にホームセンターで買った白いロープが入っていることを確かめてから、立ち上がった。

 姿勢を崩して、背中から倒れてしまわないように一段一段慎重に上る。

 運動部に比べればミジンコくらいの体力しかないけど、幼いころの病気がちな僕からすれば、アームストロングが月の大地を踏みしめた時にも負けない進歩だと思う。  

 昔の僕は、父に手渡された、三島由紀夫だとか、太宰治だとか、ドストエフスキーだとか、そういう古めかしいものばかりを病院のベッドの上で一日中読んでいた。山登りなんて言語道断だったのだ。

 そういえば、真紀は薄暗い小説を好んでいた。部活で二人きりになった時、彼女は近代文学を諳んじることもあった。僕は真紀の近代文学の話にはついていけなかったけど、それでも一つだけ暗唱できる一節がある。


「ぼくは病んだ人間だ……ぼくは意地の悪い人間だ。およそ人好きのしない男だ」


 真紀が僕に真の意味で興味を抱いたのは、そのことがきっかけだったのだろう。しかしかりそめの興味は、僕の美貌が理由なのだと思う。平凡な容姿をしていたなら、負の気迫を隠さない僕に彼女は話しかけなかっただろうし、ましてや恋なんて論外だったはずだ。だから僕は僕の性格と同じくらい僕の容姿を憎んでいるし、同時にそれが僕の唯一の取り柄であることも認めている。せめて棺に入る僕の姿は、美しいままに留めておきたかった。綺麗なままでいた方が、葬式を訪れた人たちがより多く、そして長く、僕を見てくれる。


 この山の頂にはこじんまりとした無人の神社がある。あと十分もすれば気の狂った運動部が気の狂った階段を易々と踏み越えてそこを訪れる。日がどれほど強かろうと、十分未満では間違っても僕の目は飛び出さないし、体も溶けださない。たどり着いてすぐ縄を適当な木にかけ、踏み台代わりの学生カバンを蹴とばせば、僕は美しいまま一生を終えられるはずだ。

 しかしよくよく考えてみれば、僕の死体を見つけた運動部員たちや葬式を訪れた親族たちは、火葬場で僕の骨を拾う両親、そして僕を好いてくれた真紀は、如何なる気持ちで今後の人生を過ごしていくのだろうか。

 僕は、エゴの塊だ。人が自らを殺すほどの苦痛が、この世の至る場所に蔓延しているのだと誤解させてしまうかもしれない。悲観に溢れた人生観を与えてしまうかもしれない。ありもしない責任を背負わせてしまうかもしれない。実際には僕の精神性が僕を死に導いただけだというのに、僕はそのことを証明するための遺書さえ書き残していない。むしろ僕はみんながそうなることを望んでいるし、なにより自らの精神性の醜さを文章にしたためるのは、自らの忌々しい人生と徹底的に向き合うのとほとんど同義だから書けない。いい加減、僕は自分を恨むことに疲れてしまったのだ。究極の逃げを選んだ僕が今さら過去を思い出すはずもない。


 僕は息を切らしながら、もう五分ほどかけて頂の神社にたどり着いた。木陰の間を伸びる石畳の脇に神社名の彫られた石柱が佇んでいて、その少し奥に真っ白な鳥居が日を浴びて渡されていた。鳥居の向こうの木漏れ日のさらに向こう側に、薄暗い本殿が見えた。

 僕は左にそれて、神の領域を侵さない位置にある木を選んだ。学生カバンのファスナーを下ろして取り出した白いロープを、太い枝の根元に投げて掛ける。垂れ下がった一端と手元の一端を交差させてから固く結び、ちょうど僕の頭が入る程度の大きさに輪を作った。


 ――いつも輪の外にいた僕が、輪の内側で死ねるとは、なんと幸せなことだろう。


 僕は最期に笑顔を浮かべた。そのまま乗っては潰れてしまいそうだったので、体重に耐えかねて震える非力な両手で縄を掴んだまま、学生カバンの上に両足をそろえた。輪の中には鳥居が見えた。見下ろすと足元の近いところまで日が差していた。石階段を一瞥するも、真紀の姿はなかった。

 僕は首を前に曲げ、少し小さな輪に無理やり頭を押し込む。大きく息を吸い込んでから、疲労した腕の力を少しずつ緩めていった。僕の立つカバンは悲鳴を上げるようにきしみ、そのたび僕の心臓も跳ねあがった。

 いつ車にはねられるのか。いつ通り魔に殺されるのか。いつ死の病を患うのか。神社にまつられるような神様なら全てお見通しなのだろうけど、僕は知らない。今の僕にできることも、せいぜい。

 

 ――紙コップが潰れるみたいに、足元がひしゃげた。

 

 その瞬間を待つことだけだった。

 

 

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鬱屈 知らない人 @shiranaihito

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