第48話 理由

 エマは王宮の廊下を歩いていた。目指すはパトリシアの部屋で、そこ以外を目指すつもりはなかった。

 ついさっき、何度も念を押されたように、ルークがとても心配している事はエマにだってよくわかっていた。

 今まで何度も迷惑をかけてきた人間だけれど、もう揉め事は起こしたくないし、迷惑をかけたくはない。


 それよりも……

 さっきルークが言っていた、これからの話が気になっていた。


 自分とルークのこれからの話、と言われても何も思いつかない。

 だけど、心当たりといえば……そこでエマはぴたりと足を止めた。


 もしかして、ルークに縁談が来ている……とか。


 この間の舞踏会の時だって、ルークはたくさんの女性に声をかけられていたし、エマの目の前で縁談を持ちかけられていた。

 あの舞踏会でルークも女性と踊ることが知られてからは、夜会の誘いも一気に増えて、どう断るか悩んでいたくらいだ。

 社交界で人気のルークだから、縁談はたくさんあるのだろう。


 それはつまり、エマがヘイルズ家から出て行く日が来てしまった、と言うことだろう。縁談相手からしたら、同じ屋根の下に同じ歳の家族以外の女性がいるなんて、嫌に決まっている。


 ルークが、結婚。

 あの人の側に、いつも誰か他の女性がいる。


 その人が当たり前のようにルークの手をとって、あの笑顔はその人だけに向けられる。

 それを想像したら、なんだか胸に重石がのせられたように重くなった。

 気持ちが暗くなって、思わずため息がこぼれる。


 エマにできるのは、ルークの幸せを考えることだけ。

 だけど、知らない誰かと微笑みあっているルークに笑顔で幸せになんて、絶対に言えない気がした。


 少しぼんやりと立ち尽くしていて、エマは我に返って頭を振った。

 考えていても仕方ない。そう自分に言い聞かせる。



 気を取り直して歩き出そうとして人影を見て、エマはそっちに顔を向けた。

 それは王女の部屋まで後少し、という所だった。


 背の高い男性の後ろ姿を見て、エマは視線を止める。

 その長い前髪の見た目だけは爽やかな男性をエマは遠目からでも判別できる。

 ロビンだ。


 それはいい。別に声をかけるつもりもないけれど、

 なぜここにいるのか?


 気になって、その人の後を見つからないように追いかける。

 女性王族の部屋があるエリアに男性騎士が出入りするのは目立つ。

 レイチェルの部屋は客室だからエリアが異なる。しかも今レイチェルの部屋はルークたちが捜索していて、レイチェルもその部屋にはいないはず。

 つまり、全く関係のない場所をロビンは歩いている。


 どうしてここにいるの?

 もしかして、何かをしている?


 エマの頭の中に、あの時レイチェルが倒れた時のことが思い出された。

 レイチェルが倒れた時、一番に駆けつけたのはロビンだった。


 例えば、本当にもしも、だけど、レイチェルが隠し持っていたギエルの毒を、ロビンが受け取ったのではないか。だとしたら、ロビンはそれをここに隠している、もしくはそれをこれから処分する。

 もしくは……

 誰かに罪を被せるために、これから毒をどこかに隠す、とか。


 エマの頭の中に、パトリシアの顔が浮かんだ。

 狙われるとしたら、きっとパトリシアで、彼女のせいにするために、彼女の部屋の近くで毒を隠すかもしれない。

 思わず手をグッと握りしめた。


 そう思ったら、いてもたってもいられなくなって、エマはロビンを追った。

 だけど、ロビンはスタスタと廊下を進み、パトリシアの部屋へ向かう角を反対に曲がった。


 瞬間、エマの頭の中で迷いが生まれる。

 このまま一人でロビンを追いかけるか、それとも誰かを呼んで二人でロビンを追いかけるか。


 本当なら人を呼んだ方がいい。

 さっきの曲がり角を別の方向に曲がれば、急げば5分もしないで皇太子の部屋に行ける。そこにはルークがいるはずだ。ルークを連れて行くのが良いに決まっている。


 だけど迷っている間にロビンの歩くペースが上がって、後ろ姿が遠ざかっていく。人を呼んでいる間に、見失うかもしれない。

 ……それはつまり、大事な瞬間を見逃すことになるかもしれない。

 エマは慌ててロビンを追った。



 ロビンは迷うことなく歩いていく。

 ぐるぐると王宮の中をまるで自分の家のように進む。

 あまりにもたくさん角を曲がるから、途中でエマは自分が歩いているのがどこだかわからなくなった。

 だけど一つだけわかるのは、みんなが……いつもエマのいる場所からは、かなり離れてしまったということだ。

 それに気がついて、まずいと思って足を止めた。


 この先は多分、エマの記憶が確かなら、倉庫だ。

 食料や炭やさまざまな物品を置いてある倉庫は、王宮の人が住むエリアからは離れていて、場所によってはほとんど人が来ない。


 もしかして、誘いだされた……?


 エマがそう思い至った瞬間、前を歩いていたロビンが歩調を早めて角を曲がった。咄嗟にエマも小走りでそれを追いかけて、角を曲がる。


 だけど、その瞬間目の前にいたのは、追いかけていたはずのロビンだった。

 咄嗟にあとずさったエマの腕をロビンが掴む。

 ロビンが笑ったのを見た時、エマはようやく理解した。



 とてもいいタイミングでロビンがエマの前に現れたのも、

 エマがためらったのを見て、それとなく足を早めたのも

 全部、罠だった。


 エマは彼の罠にかかってしまったのだ。

 とても簡単に。



 ロビンがエマを連れて入ったのは、古い倉庫で、ずっと人が来ていないようなところだった。実際この間の牢屋の方がまだ綺麗で埃も少なくて、マシだった。

 逃げようと体を動かすエマを引きずるようにして中に入れると、ドアを閉めて鍵をかけるとそのまま腕を捻り上げた。


「いたっ」

 エマの悲鳴には全く反応しないで、ロビンはエマを睨みつけた。

「離して」

「最初に君をやっておけばよかった。本当にうっとおしい」

 エマはロビンを睨み返す。長い前髪から覗くロビンの目は、今までで一番殺気立っていて、この人が本気なのだと教えてくる。

 ロビンはエマを壁に強く押しつけて、エマの右半身に痛みが走った。

 あまりの痛みにしゃがみ込んで左手で摩る。

 エマは顔を上げてロビンを睨みつけた。


「あなたの目的はなに?」

「この間も言っただろう?レイチェルは皇太子と結婚して、ここで静かに暮らす。俺もここで安全な生活を送る」

「嘘。それが目的なら、もっと上手いやり方があったはずよ」

 即座に否定して、エマはロビンを見返す。

「婚約破棄を狙って、わざとやったのではないの?」


 ずっとエマは考えていた。

 パトリシアやエマに嫌がらせをしたり、周りにわがままを言ったり、レイチェルの行動は好かれようと思っている人間のものではなかった。


 前提として、レイチェルは王命で皇太子と結婚する必要があって、彼女の立場では断ることはできない。

 だけど、どうしてもそれが嫌だったとしたら……。

 わざと嫌われるような行動は、皇太子側からの婚約破棄を狙っていたと考えれば、納得できる。


 ロビンの顔が僅かに強張る。

 それを見て、予想通りだと確信する。

 少し怯んだようなロビンに、エマはたたみかける。


「それに……あなたとレイチェルは、どこかで逃げる予定だったでしょう?おそらく、この滞在の帰りに」


 たくさんの護衛や側仕えは監視目的だった。

 監視が必要と判断されたのは、二人が逃げようと本気で考えていたから。

 いつかはわからないけれど、絶対に逃亡すると思えたから監視を強化された。


 二人は苦しい生活から逃げて、誰も知らないところで、新しい人生を送ろうとしていた。

 隣国から離れている時、特に移動中は、逃亡しやすい。

 きっと、そのタイミングを狙っていたに違いない。


 予定では婚約を破棄させて、その帰り道に逃亡するつもりだったのではないだろうか。


 ロビンの目が見開かれた。

 表情で彼はそれが正解だと教えてくれた。


「あのギエルの事件はあなたが考えたの?それとも…彼女?」

「どうしてそんなことを聞く?」

「……ちょっと今までと違う気がして」


 ロビンは忌々しそうに舌打ちした。

「あれは、レイチェルが勝手にやった」

 その返事を聞いて納得できた。


 あれはあまりにも雑な事件だった。

 すぐに自作自演とバレるもので、見つかった時に立場が悪くなる。

 どこか突発的ですぐにダメになる犯罪はロビンらしからぬ気がした。

 ロビンがいたら、もっと違う……もっと確実なやり方をすると思った。


「どうしてあんなことを?」

「あんたが邪魔だったんだよ。殺したいほど」



 あっさりと返ってきた重い返事に、エマは息を呑んだ。


 ロビンはエマの首に手をかけた。反射的に息を飲む。

 少し前に同じことをされて、息が詰まった恐怖が蘇る。


「あんたがいたら、レイチェルはきっと、またここで死んだように生きていくしかない」

「死んだように?」

「今までと同じだよ。生きているのに、存在が無視される。生きているのに、死んでいるのと同じだ」

「そんな……」


「そうだろ?皇太子には愛されない。誰もあいつに見向きもしない。愛されない王妃って周りに馬鹿にされながら生きていくんだ」

 そんなことない、そう言い終わる前に、ロビンの手がグッと締め付けられた。


「違うなんて、お前が軽々しく言うな」

 苦しそうに顔を歪めて、ロビンが続ける。

「俺たちはずっとそうだった。だから俺たちにはわかるんだよ」

 その瞬間首にかかる手に力が入る。


「俺たちがどんなふうに生きてきたか、教えてやろうか」

 ロビンはそう言ってニヤッと笑った。

 仄暗い笑顔に、どれだけロビンが苦しい生活をしてきたか、予想できる気がした。



 その後聞かされた話は、事前に皇太子が教えてくれたもの以上にひどい話だった。

 お腹を空かせて過ごした子供の頃、空腹に耐えきれず、キッチンから食事を盗んで食べるようになって、何かを失ったことに気がついた。

 でも、失ったものが何か、あっという間にわからなくなった。


 国王の生誕祭で、レイチェルだけ呼ばれなかった。

 忘れられた子供は、破れたドレスと靴で、父親と腹違いの兄弟が着飾った姿を遠くから見つめていた。

 もう、その時にはレイチェルは泣くことさえしなくなっていた。


 何度も心が折れて、たくさん泣いて、

 そしてレイチェルにも、ロビンにも優しい気持ちなんて無くなってしまった。


 いろんなことを諦めた。

 振り返ってもらうことも、優しい言葉をかけてもらうことも、

 愛されることも全部、諦めた。



 思わず顔を歪めたエマを、ロビンは嘲るように笑った。

「どうした?現実はこんなもんじゃない」

 ロビンは指に力を込める。呼吸できないほどではない力が、でもしっかりとエマを追い詰める。


「多分、あいつはあんたが羨ましくなったんだ」

「私が?」


 ロビンはエマを見た。

 その目には怒りはなくて、静かな瞳だった。


「あんたは身分も低いし、美人でもないのに、みんなに愛されて大切にされて、いいことばっかりだ」

 ロビンはじっとエマを見て息を吐いた。

「お前はきっとあいつとうまくいくだろうし、うまくいかなくても、待ち構えたように皇太子が側妃にするだろう。そして側妃だけど、正妃より愛されるんだ。だけどレイチェルはいつまでも、誰にも愛されない」


 そこでロビンは顔を上げた。

 エマを見て、目を細める。


「俺たちは、そういう運命なんだ」


 その顔が寂しそうに見えた。

「お前だって俺たちと同じ、ここにふさわしくない、いるはずのない人間なのに……そんなお前がレイチェルは羨ましくて、そして邪魔だったんだ」

 以前ロビンに言われた言葉を思い出した。


 異質な存在。

 それはきっと自分達に向けた言葉だった。



「あんたのせいで全部おしまいだ」

 ロビンは舌打ちした。

「国に戻ったら、俺は騎士団の最下層で死ぬ運命だ。レイチェルも元の生活に逆戻りで、殺されるのと同じくらい、ひどい生活になる」

「ま、まって!」

 エマは慌てて言い返した。

 ロビンの目が暗く、まるで機械と話しているような気がして、エマは急いでそこからロビンを戻そうとする。

 何か話して時間を稼ごうと、慌てて口を開いた。


「まだわからない。婚約は破棄されるけど、きっと皇太子様はうまい言い訳を考えてくれる。あなたたちの生活だってなんとかできるような理由を作ってもらう」

「わかってないな。うちの国王はあんたの大好きな皇太子と違って残酷なんだ。失敗作には容赦しない。レイチェルは失敗作だ。捨てても後悔しない」


 エマの首にグッと力が入った。

 今度こそ苦しくなって力が抜けたエマを、ロビンは床に押し倒した。


 エマが両手を伸ばして距離を取ろうとして、だけどロビンの力に負けて、ロビンの体はびくとも動かない。

 だって、うまく呼吸ができないエマは、もう手を伸ばすことだけで精一杯だ。

 そんなエマをロビンは楽しそうに笑う。


「お前を傷物にしたら、ルークも皇太子も青ざめるだろうな」

「なに…を」

「最後に全員を絶望させてもいいだろう」

 ロビンの顔が歪む。

「お前も、皇太子も、ルーク・ヘイルズも、全員絶望すればいい。……俺たちみたいに」



 その時になって、ようやくエマは心の底から恐怖を感じた。

 自分をなんとかされてしまうかもしれない、恐怖。

 そのせいで、自分がたくさんのものを失うことへの恐怖。


 もしかしたら、それが自分ではない誰かを傷つけてしまうかもしれない、恐怖。


 頭の中にたった一人、浮かんだ顔があって

 心の中でその名前を呼んだ。



「やめて!」

 エマは腕を無茶苦茶に伸ばして暴れる。それが運よくロビンの顔に当たって、だけどすぐにその手を取られて拘束される。

 エマはパニックになりながら体を捩った。

「やめてよ……あなた、レイチェルを愛しているんでしょう?だったら彼女のためにもやめて」

 ロビンの顔がぐしゃりと歪んで、だけどすぐに元に戻った。


「あの毒をどうして俺たちが持っていたか、わかるか?」

 苦しそうな顔で、ロビンは嘲るように笑った。


「自分で使うためだよ」


 驚いた顔のエマを見て、鼻で笑う。


「あれは計画がうまくいかなかった時に、自分達が使うために用意した。逃げ損ねたら、間違いなく死刑か、それに近い状態だからな、それなら死んだ方がマシだ」

 そこまで言って、ロビンはエマを見る。

「お前に、そんな気持ちが理解できるか?」



 そんな気持ち、エマにはきっと理解できない。

 今までひどい目にあったからといって、レイチェルとロビンのやったことの全てが許されるわけじゃない。


 だけど二人がそこまで追い詰められていたってことは、わかる。

 たくさんの悲しみがそうさせたことも、わかる。


 そんな二人が、悲しくて仕方なかった。


 エマの頬を涙が伝った。それを見たロビンが驚いた顔になる。

「どうして泣く?」

「……だって、当たり前じゃない」

「くだらない同情は止せ」

「くだらなくない」


 エマは目を見開いた。

 そのままロビンの顔をじっと見つめる。


「あなたたちが大変だったことも、辛かったことも、わかった。あっちの国王が、王室がそんなにひどいところだなんて思わなかった」

「お前に関係ないだろ」

「関係ない。関係ないよ。だけど……」


 エマは目を開けてロビンを見た。

 手を伸ばすと、拘束されていたはずの手は、思いがけずあっさりと離れた。

 ロビンの頬にそっと手を添えた。


「子供の時のあなたたちに会いたかった。生きていたら楽しいことがあるって……悪い人ばかりじゃないって教えてあげたかった」

 手で頬に触れたら、ロビンはびくりと震えた。



「たくさん、愛してあげたかった」



 もし二人がただの婚約者とその護衛騎士として、ここに来たら私たちはそれをそのまま受け止めたと思う。

 そうしたら、きっとここで二人は新しい人生を始めることができた。


 もっと幸せになれる方法が、たくさんあった。



 エマはロビンの首に手を寄せて、それを引き寄せた。

 思っていたよりも素直に、ロビンの頭はエマの肩に寄せられた。

 その頭を、エマは撫でた。


「大丈夫。今度こそ幸せになれる」


 少し大きくて筋肉質の体を、エマはそっと引き寄せた。

「今まで、よく頑張ったね」

 これが正しいことかはわからない。

 だけど、エマはその体を抱きしめた。



 本当は子供の頃のロビンとレイチェルを抱きしめたかった。

 そうして、彼らの未来に悲しいことがないように

 ちゃんと守ってあげたかった。


 それだけは、本当だ。




 ロビンがそっとその手をエマの体に回した時、ドアを叩く大きな音がした。


「エマ?そこにいるのか?」


 聞き慣れた声と、その後ろから犬が派手に吠えているのもわかった。

 エマは大きな声を出した。


「助けて!」


 ロビンの手のひらが、エマの口を塞ごうとする。

 それを避けて、エマは大声を上げた。



「助けて!ルーク!」







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