第40話 たくさんの理由
「知っていたんですか?」
エマが驚くと、皇太子は肩をすくめた。
「そうだね」
なんでもないことのように頷くから、エマはつい口を滑らせてしまった。
「それで…良いのですか?」
「政略結婚なんて、そんなこともたくさんあるよ。たまたま巡り合った人と気持ちが通じるなんて、奇跡だろうね」
確かにそんなものかもしれない。だけど、それを当たり前のように受け止めている姿に、胸が苦しくなった。
そんなエマを見て、皇太子はにっこり笑う。
「私のことを心配してくれるなんて、嬉しいね」
「あ、いや……」
エマが言葉を選んでいると皇太子がルークとエマを交互に見て、息を吐いた。
「実は彼女がくる前はこの結婚をどうするかずっと悩んでいてね。もしかして直接会って話したら、彼女のことも許せるかなと思ったのだけど……、あの二人の姿を見たら、やっぱり無理だった」
その顔には苦悩が刻まれていて、皇太子がどのくらい悩んだのか想像できた。
ロビンを過去のこととして、新しく皇太子と歩んでいこうとしていたら、
もし、レイチェルが一人でこの国に来て、皇太子としっかり向き合っていたら
この人は、全てを許したのではないかと思った。
きっと、とても悩んで、それでも信じようとして……そしてそれが裏切られたことを知って苦しんだのだろう。
そんなエマを見て、皇太子は気遣うように話しかけた。
「私も立場的に結婚に自由がないのはわかるけれど、だからと言って誰でもいいとは思えないんだ」
とても軽く言われたけれど、それは重い言葉だった。
その目はどことなく寂しそうだったから、エマはまたかける言葉を見失ってしまう。
息を吐くと皇太子はエマに尋ねた。
「レイチェルとの間に起きたことを教えてもらってもいいかな」
エマはレイチェルとの間にあったことを全て話した。
剣で脅された話をした時は、隣から周りが凍るような殺気が漂ってきて、それから怖くてルークへ顔を向けられない。
だけど、おそらく予想できる範囲だったのか、皇太子もルークもエマの話は黙って聞いていた。
「そうか、危ない目にあったね」
皇太子がそういうと同時に、隣のルークが手をグッと握ったのがわかった。
大きく息を吐いた後で、苦い顔をして皇太子が口を開いた。
「レイチェルは子供の頃、かなり厳しい環境で育ったんだ」
皇太子はぽつりと話し始めた。
レイチェルは隣国の国王の身分の低い側室の子供で、そのため、非常に辛い子供時代を送ったという。
生まれてすぐに母親と引き離されて正妃の元で育てられた。だけど身分の低い側妃の子をよく思わない正妃や正妃の子供たちに、いじめられた。
そのいじめは壮絶なものだったという。
レイチェルに興味のない国王は、正妃のやることを見て見ぬふりをした。
だから周りにレイチェルを助ける大人は誰一人、いなかった。
「そんなことってありますか?」
信じられない思いで尋ねると、皇太子は苦笑いした。
「残念ながら、ないとは言えない。その王妃や国王にもよるけれど、側妃の子供が簡単に殺されることだってある。子供の頃のレイチェルの生活は満足にものを与えられず、食べものにも困る、ひどいものだった。……国王はレイチェルが生まれた時に私との婚約の話を決めたけれど、実際はある程度の年齢になったら、何か理由をつけてレイチェルを婚約者からおろして、王妃の親戚筋の娘を婚約者にする予定だったらしい」
「そんな……」
「予定が変わってレイチェルが婚約者になった理由はわかる?」
「わかりません」
エマが首を振ると皇太子は苦笑いした。
「隣国の国王は10年以上レイチェルに会っていなかった。だけど彼女が18になった時に、彼女がとても美しく育ったことを知って、これだけ美人なら国の自慢になるからいいだろうと予定を変えて彼女を差し出すとこにしたらしい」
「ひどい」
思わず大きな声で文句を言ってしまった。
皇太子はそんなエマを見て笑った
「簡単な礼儀作法はここ数年で必死に身につけたようだけど、彼女は王妃教育なんて満足に受けていないからわからないだろうね。ただ彼女だけを責めるのは良くないかもしれない。……今がどうであれ、彼女が辛い目にあったのは事実だから」
そこで言葉を切ると、とても苦い顔になった。
「あの護衛騎士は、レイチェルの乳母の子供でね。子供の頃から彼女と一緒に育った。辛い時もいつもそばにいたらしい」
ああそうかとエマは全てを納得した。
あの時のレイチェルの言葉が思い出される。
この結婚でようやく人間になれる、と。
子供の時から、どんな時もロビンが私を守ってくれたと。
だからこれから先もずっと、一緒だと。
食事も衣類も生活する場所も満足に与えられない。
ただ生きることに必死で、助けてくれる人も、守ってくれる大人もいない。
過酷な環境で育つ彼女を守ったのが、同じ歳のロビンだった。
彼女は……彼女とロビンは辛い生活を二人で生き抜いてきた。
この結婚で、今の生活から抜け出して、今まで自分達に冷たくしてきた人を見返そうと……きっと彼女たちは必死だったのだ。
彼女は……彼女たちは理由も手段もなんでもよくて、ただ国を出たかっただけなのだろう。
この国ではなくても、皇太子が相手ではなくても、結婚でなくてもよかったのだ。
「レイチェルとあの護衛騎士の関係はとても長くて、その絆も深い。おそらく家族よりも強いだろう」
ずっと影のように寄り添うロビンを思い出した。
彼はこの結婚をどう思っているのだろう。
あの色素の薄い瞳を思い出して、なんだか胸が詰まった。
それが家族愛なのか、恋愛なのかわからない。
でも、ものすごく暗く深い愛情は、とても怖い。
その人を守るために、簡単に他人を殺そうとするような感情は
……エマには愛情とは思えなかった。
皇太子はエマを見た。
「レイチェルには10歳下の妹がいるんだけど、正妃の子なんだ」
皇太子は視線を窓の外に移した。
「正妃には他にも子供がいるけど、レイチェルより歳が下なのはその子だけでね。だけど子供の中では一番レイチェルにきつくあたったそうだ。正妃と一緒にね。それも……かなり意地悪なものだったらしい」
エマと視線があって、皇太子は苦しそうに首を振った。
「私は彼女と会ったことはないけど、きっと正妃の子だから愛情いっぱい……といえば聞こえはいいけれど、とても甘やかされて育ったのだと思う。気が強くて、少しワガママなところもあって、そしておそらく……どこかパティに似ているのではないかと思っている」
だからレイチェルはパトリシアにキツくあたったのだと、理解できた。
パトリシアにはみんなからもてはやされてきた人間だけが持つ、ワガママと紙一重の自由奔放さがあって、それがレイチェルには許せなかったのだろう。
許せなかったのか、虐められた恐怖からくる自己防衛なのかは本人しかわからない。
だけど、結果として彼女はパトリシアを攻撃したのだ。
皇太子は大きく息を吐くと、椅子から立ち上がった。その顔をルークに向ける。
「ルークは怒っているけど、エマは手伝ってくれるってことで本当に大丈夫?」
エマは視線をそっとルークに移す。
はっきりと怒りのオーラが見えて、この後のことを考えるとエマも気持ちが暗くなる。
今日はきっとお叱りを受けるだろう。
約束を破ったこと、報告をしていないこと、それから……考えるだけ罪状が増える。
黙ったままのルークに皇太子は笑いかけた。
「エマの安全を確保したいから、エマをしばらく王宮で預かると言ったら……怒るかな?」
「エマは連れて帰ります」
被せるように戻ってきた返事に、エマと皇太子は顔を見合わせた。
「王宮の方が安全という考え方もある」
ルークが何か言う前にエマは大きな声を出した。
「……いや、ヘイルズ家の方が安心します。私はヘイルズ家にいます」
その返事に皇太子は目を丸くして、少しして声を出して笑った。
「本当?」
「本当です。ヘイルズ家の方が良いです」
念を押すように言われて、エマは大きく頷いた。
ここで王宮の方がいいとか言ったら、考えるだけで怖い。
皇太子は笑いながらエマとルークを見た。
「わかっているよ。私だってエマのことは守りたいからね。一番確実な人間に任せておきたい」
皇太子はルークを見た。その肩に手を乗せると、顔を覗き込んだ。
「じゃあ、お願いするよ。ルーク」
眉間の皺を深くしながら、ルークが頷いた。
それにホッとしながら、エマは息を吐いてこれからのことを考える。
みんなが守ってくれるからと言って、それに甘えていてはダメだ。
自分でできることをしていかないと。
まずは何をするか考えていると、隣でルークの声がした。
「帰るよ、エマ」
******
家に帰ったら、早速エマはルークの部屋に連行された。
ソファに座ると、目の前で腕を組んでルークが仁王立ちする。
その顔は怒ったままだから、じっと睨まれて圧がすごい。
「あ、あの、約束を破ったことは謝る、でも仕方ないというか」
エマは誤魔化すように笑った。
「こ、これで隠し事はないから、もう大丈夫」
ルークの顔がこわばったままなのを見て、エマは慌てた。
「あ、それから、勝手に仕事を引き受けてごめん。でもよく考えたら私しか、できないと思って。みんなのためにもできることをしたかったの。……それから自分の身の安全は自分でなんとかする。私、この間思い出したけど魔術師だったし、攻撃魔法、苦手だったけどこれから練習するわ」
怒った顔のルークが音を立ててエマの隣に座ったから、エマは今度こそ、慌てる。
いつも教科書に出てくるようにお行儀の良いルークが、こんなことをするなんて信じられない。
つまり、それだけ怒っているってことだ。
「髪飾りは、その……いつかあの人から取り返すから。だから…」
早口で喋り続けていると、隣に座ったルークがいきなりエマを抱き寄せた。
「ちょっと…え?」
強く抱き寄せられて、エマは思わず体を逃そうとして……そしてルークの腕に捕まった。
「ど、どうしたの?」
何も言わずに抱きしめるルークに、エマはただ驚くことしかできない。
「え?ルーク?」
そっとルークの腕に触れると、体がびくりと反応した。
「僕は猛烈に怒っている」
エマの心臓がドクンと大きく打った。
ルークは自分の額をエマの肩につける。
ものすごく思い詰めた様子に、エマは口をつぐんだ。
「僕は君の親でも兄弟でもない」
「……うん」
「ましてや夫でも恋人でも婚約者でもない。だから、僕には君の行動を制限することもできないし、そんな権利もない」
ルークが大きな、とても大きなため息をついた。
「そして家族でも恋人でもない僕は、君のことを友達としてしか助けられない」
胸が詰まる思いがした。
だって、それは変えようのない事実だ。
所詮エマは中級貴族の一人で、王族でも上級貴族でもないから
その存在はとても軽い。
何かあったら、あっという間に消されてしまうくらいに、軽い。
曲がりなりにもレイチェルは他国の王女で、エマとは身分が違う。
そんなレイチェルに、中級貴族のエマが立ち向かう、なんて
……普通はありえない。圧倒的にエマが不利だ。
例え皇太子の密命があると言っても、その時の状況や周りの環境で
エマを守りきれなくなる可能性は、十分ある。
「ごめん……」
「いいよ。どうせ君は僕の言うことなんて聞かないんだ」
もう一度大きなため息をついて、ルークがエマの肩に額を擦り付ける。
そして本当に後悔しているような声で呟いた。
「やっぱりあの時、君に魔法をかければよかった」
グッと腕に力がこもる。
「君をこの家に閉じ込めてしまえば……こんなことにならなかった」
自分の軽はずみな言葉がルークをとても傷つけたことを、エマはようやく理解した。
その背中にそっと手を添える。
「ごめん……」
「もう、いいよ」
聞こえてきたルークの声は、なんだか泣きそうだった。
「そんなことをしたら、君のいいところがなくなることもわかっているし、君のそんなところも、僕はずっと好きだったわけだし、それが君らしいって言えばそうだし……」
「ごめん」
「それに、そんなことをしたら君が僕のことを嫌いになるって、僕はちゃんとわかっているんだ」
エマは腕を伸ばすとルークを抱きしめた。
「ごめん」
「もう、いい」
これ以上ないくらい大きなため息をついた。
「君が今回のことに協力するのも嫌だし、危険な目に遭うのも絶対にやめてほしいし、君は僕のいうことを何一つ聞かないし、本当に腹立たしい」
視線を落とすと、腕の中からルークが見上げていた。
エマと目があって、それをスッと逸らせた。
「だけど、その時が来たら、きっと僕は君のことを守らずにはいられない」
手を伸ばすとそっとエマの頬に触れた。
「悔しいけど、僕は君を見捨てることなんてできないし。もし君に何かあったら、それこそ死ぬほど後悔する」
ルークは苦しそうに、目を閉じた。
「きっと、僕は君のことを守るんだ。……命がけで」
かける言葉が見つからなくて、エマはただ、ルークを抱きしめる腕に力を込めた。
「それが全部わかっていても、嫌なんだ」
こんな風に怒りをむき出しにしたルーク・ヘイルズを
エマはこの夜、初めて見た。
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