第38話 皇太子のお願い
レイチェルとロビンはエマを脅した後、二人で寄り添うように歩いてその場を去った。
エマはその後ろ姿をじっと見ていて、そして慌てて立ち上がると茶会の会場を目指して走った。気がついたら陽が落ちて真っ暗になっていて、かなり時間が経ってしまったから、探されているかもしれないと焦った。
会場に着くと、エマを見たゲイリーがホッとした顔をした。
「よかった、いないから探していたんだ」
近くにルークがいないことがわかって、エマは辺りを見渡した。
「ルークは?」
ゲイリーは困った顔をした。
「いや、エマを探しに行った」
ちょうどそこにルークが戻ってきたのが見えた。
手を振って合図をしようとしたら、エマを見たルークが早足でこっちに向かってきた。エマの両肩を掴むと焦ったような声を出した。
「君、どこにいたの?」
少し大きい、ルークらしからぬ焦った声は、周りにいる人の注目を集めるのに十分だった。隣のゲイリーが苦笑いで、エマを探してルークがパトリシアの部屋や皇太子の部屋にまで行っていたことを教えてくれた。
「ご、ごめんなさい」
「いや、何もないならいいんだ」
そう言ったルークはエマの姿を見てホッとしたのも束の間、ドレスの裾が泥で汚れているのを見て、顔色を変えた。
「君、一体何があったの?」
その尖った声はその場の空気を凍らせて、周りのメイドたちが二人を振り返った。
「二人とも、もう帰ろう」
それを見たゲイリーが強めの口調で言って、エマとルークを連れて馬車に乗り込んだ。
「君、どうしたの?」
帰りの馬車の中に入るなり、ルークはエマを問い詰めた。
視線でエマの様子をじっと見ながら、立て続けに声をかけてくる。
「何があったの?」
「ちょっと、迷ってしまって」
「こんなにずっと働いている職場で迷うってなに?」
ルークはエマに詰め寄ると、じっとエマを見て、ドレスについたの泥を叩く。
「じゃあ、これは?何があったの?」
あまりにも鋭い追求に困っていると、ゲイリーが止めた。
「ルーク、やめなさい」
「危ない目に遭ってたんじゃないの?」
ルークを止めようとするゲイリーも、エマのことを心配そうに見るから、エマは急いでなんでもないふりをする。
「だから道に迷ってただけで。ほら、だいぶ暗くなってたから」
エマのわざとらしい笑い声が馬車に響くと、途端にルークが大きな息を吐いた。
エマの顔をじっと見つめる。
ほんの僅かな変化も見逃さないようにじっと見つめるから、嘘が見破られるかもしれないと怖くなる。
「ルーク、エマがそう言うのだから、信じなさい」
厳しい目でエマを見るルークを、ゲイリーがたしなめる。
納得いかないような顔のルークが、エマから距離を取ったから、エマは思わず息を吐いた。
不意にルークがエマの頭に触れた。
「ところで、君」
「は?」
ルークの目が探るように細められた。
「髪飾り、どこにやったの?」
それにエマは驚いて、一気に顔を青くする。
あれはロビンに取られてしまった。
誰かにレイチェルのことを話したら、エマの周りの人に何かすると脅されて……もし、誰にも言わなければ、返してくれると言われた。
あの時の恐怖が今更蘇ってきて、体が震えそうになる。
本当なら、ルークにさっきのことを話したいし、話すべきだと思う。
きっとルークはゲイリーや皇太子と相談して、うまく話をすすめてくれる。
その方がいいに決まっている。
レイチェルが言ったのはただの脅しで、ヘイルズ家の人も皇太子もパトリシアも、簡単に何かされるとは思えない。
だけど、もし、もし何かあったら……。
その証拠に、さっきのロビンはエマを傷つけてもいいと思っていた。
レイチェルが止めなかったら、怪我していたかもしれない。
きっとエマ一人をどうにかするなんて、彼にとっては簡単な事なのだろう。
そう考えたら、急に背筋が寒くなった。
ちら、と隣のルークを伺う。
もし、それがルークに向けられたら、と思う。
ルークだって、絶対に大丈夫とは言えない。
この人はなんでもできる。魔術だって、剣術だって人より上手くて、きっと誰にも負けない。……でも、絶対に大丈夫っていえる?
ちゃんとした騎士のロビンにも……勝てる?
急にエマの頭の中にルークが怪我をして倒れるところが浮かんで、
そんなのただのエマの勝手な想像なのに、あり得ないことだって自分に言い聞かせるのに、それだけで胸が詰まる。
エマは自分の手をぎゅっと握りしめた。
「君、聞いている?」
その声に我に帰って視線を上げると、ルークがじっと自分を見ていることに気が付く。エマは額に浮かんだ汗をごまかすように、首を振った。
何かあったら必ず報告すると約束したのは、ついこの間のことだ。
だけど、その約束を自分はもう破ろうとしている。
でも、言えるはずがない。
エマは視線を逸らせた。できるだけ自然に見えるように笑う。
「ええと…」
「なに?」
「落としてしまって」
我ながら下手な嘘だと思った。
その証拠にルークは片方の眉を上げてエマを見て、その目が胡散臭そうに細められる。
疑われている。
エマの額に冷や汗が浮かんだ。
ルークはそんなエマをじっと見つめて、
「ああ、そう。じゃあまたプレゼントするよ」
そう、全く信用していない顔で返事した。
その後、家に着くまでルークはこの話をしなかったから、エマは安心した。
だけどどうしても、ルークを危険に晒すようなことはできない。
それなら、自分が危険な方がまだ、いい。
絶対に話すのはやめようと決めた。
それからも忙しい日が続いた。
そのせいなのか、ルークがエマの髪飾りを買いに行くことはなかった。
エマはそれに少し、落ち込んだ。
色々言っていたけれど、エマはあの髪飾りをとても気に入っていたのだと
とられてしまってから、気がついた。
******
あの事件の後、レイチェルの標的はパトリシアからエマに移った。
パトリシアは最初こそレイチェルの嫌味に言い返していたけれど、最近は抵抗するのをやめた。
言い返すのをやめたせいか、それともターゲットをエマに変えたせいか、レイチェルは以前のようにパトリシアを攻撃するのをやめた。
レイチェルは誘ってもいないのに、パトリシアの部屋に毎日やってくる。
何をするでもなく、長い時間部屋に留まって、話をする。
その中にエマへの嫌味や嘲りを混ぜていく。
しかもやり方が巧妙で、絶妙に人がいないところでやってくる。
そのものすごく嫌らしい追い詰め方は、彼女がとても意地悪だと証明するものだった。
レイチェルのいる時に王女の部屋にいなければ良いと思うが、部屋を離れると護衛と称してロビンがついてくる。
剣で脅されたのは人生2回目だから、慣れているかと思ったけれど、やっぱり本当の騎士にピンポイントで首を狙われたのは大きかった。
ロビンがいるとまた何かされるかも、という恐怖を感じるし、目が笑っていない笑顔で近くにいられるのも、精神的に圧迫された。
そして、二人になるとロビンはエマにだけ聞こえる声で囁いてくる。
「お約束は守ってくれているようですね」
まるで偉いと子供を褒めるようなトーンで話しかけてくる。
イラっとしながら、エマも言い返す。
「じゃあ、約束通り返してもらっていい?」
髪飾りを返せとエマが言うと、ロビンは笑う。
「まだ、返す時ではないですよ」
エマはムッとして睨み返す。
そんなエマをロビンは楽しそうに笑って見返す。
「あなたを責めるには、あなたではなくて、周りを攻めるのが一番ですね」
「どういうこと?」
「あなたとルーク様は同じってことですよ」
そんな意味のわからないことを言って、満足したように笑う。
エマはロビンを睨みつけると、これ以上話したくないと、その場から離れていく。
結局、髪飾りは返してはくれないままだ。
そんなことが続いて、エマは確実に追い詰められた。
いつも気が抜けないし、夜は眠れない。
そのせいか、頭はいつもぼんやりするし、いろんな悪い想像をしてしまう。
周りの人に何かあってはいけないから、頑張らないといけない。
エマはそのために、疲れた体と頭に気合を入れて必死だった。
そんな中、また問題が起きた。
変わらずパトリシアの部屋に押しかけたレイチェルが、庭へ続くテラスでお茶が飲みたいと言い出したから、大急ぎで準備した。
そのお茶会で問題が起きた。
テラスでパトリシアとレイチェルがお茶を飲んでいたら、本来庭園にいるはずのない猫が庭で大騒ぎを始めた。猫を捕まえようとした庭師が猫を追いかけて走り回り、それに驚いた鳥の群れが庭園から一斉に飛び立った。
逃げ場を求めた鳥は庭からテーブルに向かって、そのまま王宮の屋根を目がけて高く飛んだ。
テーブルの周りを鳥が羽音を立てて飛んで、それに驚いた女官たちが大声で騒ぎ立てた。少しの混乱の後に、鳥が空高く飛んで落ち着いたと思った時、レイチェルが大きな声を上げた。
振り向いたらレイチェルのドレスが濡れていた。
近くには紅茶の入っていたカップやお皿、ポットなどが散らばっていて、おそらく慌てた誰かがテーブルにぶつかるか、もしくはレイチェルがカップを取り落としてお茶をこぼしたのだとわかった。
だけどその時、レイチェルの一番近くにいたのはエマだった。
レイチェルはエマがドレスにお茶をかけたと言い張った。
思いもかけないことに、エマは驚いた。
エマは何もしていない。
誰もエマがやったとは思っていない。
どうせ、レイチェルが自分でやったのだろうと思うけれど、混乱の中で、それを証明できる人がいない。
身分が上のレイチェルがいう以上、誰も否定はできない。
確かにレイチェルは隣国の王女で、大切な客だ。
そのドレスにお茶をかけて、万が一火傷でもしていたら……。
だから、大騒ぎになった。
エマの失態ということになって王妃から呼び出しを受け、直々にお叱りを受けた。ドレス事件に続く呼び出しに、エマも落ち込んだ。
次に皇太子の執務室に呼ばれた時、二度目のお叱りが来たかと、もっと落ち込んだ。
そして皇太子の執務室に入って、厳しい目つきをしているルークを見た時に、回れ右して帰りたくなった。
こんな姿をルークに見られるのだけは嫌だったのに。
本当に泣きたくなった。
「しばらく配置換えをしようか」
そう皇太子に言われて、エマは俯いた。
エマが答えるより先に、ルークが答えた。
「エマはレイチェルが隣国に戻るまで自宅謹慎とします」
ルークの返事に皇太子は苦笑いした。
ルークを見て、それからエマに視線を移す。
「エマは、それでいい?」
エマは返事に困る。
正直なことを言えば自分は何もしていないのに謹慎するなんて、嫌だ。
だけどこれ以上エマが頑張っても、いいことはないかもしれない。
あの二人が何かして大問題が起きれば、ルークやゲイリーにも迷惑がかかるかもしれない。
黙っていると、皇太子はテーブルに頬杖をついて、じっとエマを見つめた。
目がきらりと光って、エマを見る。
「エマにお願いがあってね」
「お願い?ですか?」
うん、と小さく皇太子は頷いた。
「エマにしかできないし、頼めない。……私のお願いを聞いてくれないか」
「王子」
皇太子の隣にいるルークが、その会話を遮るようにルークを見ると、皇太子は笑った。
そしてそのままエマを見て、口を開いた。
「私はね。彼女との婚約を破棄したいと思っている」
とてもなんでもないことのように言われた言葉に、エマは目を丸くした。
思わず隣のルークを見たら、ルークは顔色ひとつ変えていない。
おそらく事前に二人で話していて、皇太子の考えを知っていたのだろう。
だけど、それって……。
婚約破棄なんて、簡単にできるものなのだろうか?
信じられない思いで、エマは皇太子を見つめ返した。
皇太子はエマをじっと見つめながら、もう一度口を開いた。
「私はね、彼女との婚約を破棄したい」
そしてエマを見た。
「だから、エマにも力を貸して欲しいんだ」
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