第37話 異質な存在

 その日の夜遅くに帰ってきたルークは、帰るとすぐにエマの部屋にやってきた。部屋に入るなり、エマに宣言する。


「君、しばらく仕事は行かなくていい」


「は?」


 ルークはエマのベッドに腰掛けると、苛立ったように髪をかき上げた。

「あの男、危険だ。君なんて簡単に良いようにされてしまう」

「あの男って」


 エマにもわかる。ロビンのことだ。

「別にあれは社交辞令で、本当に私がすごいなんて思っていないわよ」

「君がすごいかどうかは、この際問題ではない」

 苦い顔をして首を左右に大きく振った。

「あれははっきりと君を狙っていた」

 言い捨てたルークの顔は見たことがないくらい、怒っていた。


 エマは戸惑った。

「だからって、いきなり休むわけにも」

「理由はなんとでもできる」

「でも、それでは王女が」

「王女は目的ではなくなった。だからいい」


 エマはソファから立ち上がると、ベッドに座るルークまで歩く。

「でも、それじゃ王女がかわいそう。今だって散々やられて」

「それはこっちでなんとかする。だから君はいい」

「そんな訳にはいかない、約束したの」

 昼間に王女とした約束を言うと、忌々しそうな顔でルークは舌打ちした。

「許可できない」

「でも、それじゃ」

 エマは昼間の王女を思い出す。

 一人で心細そうにするパトリシアを思うと胸が痛んだ。

「ルークの言いつけは守る。だから仕事はさせて。でないと王女がかわいそう」


 じっとルークを見つめると、しばらくしてルークが目を逸らせた。

「そうやって君はまた王女に使われて危険な目に遭うんだ」

「今回は大丈夫。気をつける」

「どうだか」

 大きなため息が聞こえた。


 以前も王女のお願いで面倒ごとに巻き込まれて、それをルークに助けてもらっているから、エマも自信を持って大丈夫とは言い難い。

 ルークは心底うんざりした顔をする。


「君はいつだって僕以外の人の意見ばかり大切にする」


 その口調に、エマも気持ちが沈む。

 ついに呆れられたと思うと、泣きたくなるくらいツライ。


 だけどため息をついたルークはエマの顔を見た。

「どうせ僕の忠告なんて聞かないんだから、働けばいいよ。だけど約束がある」

「何?」

 ルークはそっとエマの手を引いた。


「なるべく僕の近くにいること。何かあれば必ず報告すること……」

 行きと帰りは一緒に行くこと。一人でどこかに行かないこと。おかしいと思ったらルークと一緒に動くこと……まるで子供を初めて外出させる親が言うような注意事項を挙げて、その一つ一つにエマは頷いた。


 この人、奥さんや子供にはかなり過保護になるのだろうと思ったのは秘密にしておく。


 ルークが言い終わるのを待って、エマは頷いた。

「全部、守る」

「あと……」


 ルークは言いにくそうに俯いた。


「君を守るために僕はとても忙しくなるから、僕のこともちゃんと気遣ってよね。毎日、僕のために時間を作って」


 え?


 ルークは目元を赤くしてエマから顔を逸らす。

 それでも視線をエマに向けて、視線が合うと照れたように顔を赤くした。


「ちゃんと毎日疲れている僕を癒してよ……。その方法は君に任せるけど」


 それを聞いたエマの方が真っ赤になってしまった。

 だって、癒すって……。

 そして、私はどうしてこんなに赤くなるのだ。


「どうして君が赤くなるんだよ」

 焦ったようなルークの声に、エマも恥ずかしさが倍増して、つい目を逸らせた。

「ごめん。でも、なんとなく」

「いいよ。どうせ期待してないから」

 拗ねたような顔をするルークに、エマはそっと手を伸ばした。



 エマの指の隙間から、金の髪が溢れる。

 部屋の柔らかい光の中でも、その髪は光るように輝いた。


 櫛で梳かすようにその中に指を滑らせると、ルークはそっと目を閉じた。

 手をそっと引き寄せながら、エマも目を閉じる。


「約束は守るから」


 エマの言葉に返事はなかった。

 ただ、ルークのため息が腕の中から聞こえた。



 約束することは簡単だけど。

 それを守るのは、難しい。


 エマだって、それはよくわかっている。


 自分にとって誰が一番大切かも、本当はわかっている。



 ******


 自分を蔑ろにしているというレイチェルの苦情を受けて、まずは王宮の庭園で彼女を歓迎するお茶会を開くことにした。すぐに開催できるイベントがお茶会だから、それが選ばれた。

 レイチェルが満足するそれなりに盛大な会を可能な限り早く行う事にしたから、主催者の皇太子とパトリシアの側近として、エマもルークもしばらくその準備に追われた。


 だけどその甲斐もあって、茶会は大盛況だった。

 警備の面から招待は上級貴族だけにしたこともあって、順調に会は進んでいく。


 昼の茶会には派手な鮮やかな赤いドレスを着たレイチェルの周りには、常に人がたくさんいて、途中からお酒を飲んだのか、顔を赤くしたレイチェルはよくしゃべって上機嫌だった。

 これなら彼女の気も落ち着くだろうとエマもほっとした。


 パトリシアも参加はしたけれど、ずっと王妃の隣でレイチェルには近寄らないようにした。

 エマはルークの目の届く所にいた。

 とは言っても、今日は招待客側のルークは魔術師のローブではなく貴族スタイルで、ずっと人に囲まれていた。


 その話のほとんどはルークに縁談を勧めるものだった。

 貴族の作法なのか、性格なのか縁談の話にもルークはとても丁寧に対応する。興味がないならすぐに断ればいいのに、笑顔で話をするから相手も脈があると思って話を続けるし、早速面会を取り付けようとする人もいる。

 隣で聞いているエマはなんだか胸がざわついて、じっとしていられない。


「何?」

 さっきまで娘を紹介すると言っていた貴族と話し込んでいたルークをじっと見つめていると、ルークがエマをみた。

 エマは不満げに返事する。

「別に」

「別にって顔じゃないよね。言っておくけど、この場で断るとかありえないからね」

「よかったわね、いい話がたくさんあって」

 フイと顔を背けたエマを、訝しげに見ていたルークは急に笑顔になった。

「もしかして……君、やきもち妬いているの?」


 エマはルークを振り返った。

 よりによってなんてことを言うのだ、この人は。


「そ、そんなはずないでしょう。何言っているの?」

「いや、別に。君がやきもち妬いてくれるなら、悪くないなと思っただけ」

「だから違うって言っているでしょう」

 だけど嬉しそうにルークはエマの手をとって自分の指を絡めた。


「じゃあ、そう言うことにしておこうか」

 そう言ってエマを見上げた瞳が甘く光るから、エマは慌ててその手を自分へ引き寄せる。

「だから違うってば!」

「はいはい」

 その場を小走りで離れると、ルークの笑い声が追いかけてきた。


 なんだか腹が立って、エマは顔を赤くした。




 会が終わりに近づくと、まずは王妃が自室に下がった。レイチェルが帰れば後片付けも始められるけれど、まだその素振りはない。

 レイチェルが戻るのを待っていたパトリシアだったけれど、ついに待ちきれなくなって先に自室に戻ることにした。


 部屋に戻ったところで、パトリシアはエマを振り返った。

「あなたも疲れたでしょう?もう帰っていいわ」

 ルークはゲイリーと一緒に来ていたから、エマが二人と一緒に帰れるように気を遣ったのだろう。疲れていたし、それに甘えることにしてエマは部屋を出た。


 まだ会は終わっていないから、ルークもゲイリーも会場にいるだろうと、エマは会場に戻る。だいぶ日が陰って暗くなっているから、早く戻るために最短距離を行こうと、木立の中を進むことにした。



 小走りで進む途中、視界の端に鮮やかな赤が入り込んで、エマは足を止めた。



 緑の中に隠しきれない赤い色が、目立った。

 あんな鮮やかな色は今日の招待客で一人しかいない。

 レイチェルのドレスの色だ。


 目を凝らすと木陰に赤いドレスが見えた。

 どうしてこんな庭園の端に彼女がいるのか気になって、エマはその方向に足を進める。足音を立てないように気をつけながら前へ進んだ。


 木の幹に赤いドレスの裾がのぞいている。

 体を動かした拍子に見えた横顔は間違いなくレイチェルのもので、彼女は大きく背中を逸らすと、弾けるような笑顔を見せた。

 

 彼女の背中に両手が回って、その体を引き寄せる。

 笑顔のまま、彼女は隣の黒い影に抱きついた。


 レイチェルの他に、もう一人、いる。


 それに気がついて、エマは自分の心臓が強く打ったのがわかった。


 そっと近づくと、木の影から二人が親しげに会話する様子が見えた。

 その体が抱き合うように触れ合っているところも。

 笑う彼女の声もはっきりと聞こえた。

 ふざけて離れようとするレイチェルを黒い上着の腕が引き止めた。



 今日、皇太子は白い服を着ていた。

 だから、相手は皇太子ではない。

 皇太子ではない人と、レイチェルは抱き合っている。

 とても親しげに。


 これ以上は見てはいけないと思っても、エマは目を逸らせなかった。



 親しい人なら、抱き合うことはある。

 でも二人の距離感は友人や家族ではあり得ない、とても親密なものだった。


 あんな風にごく自然に体を寄せるのは、相手が必ず受け止めてくれるという信頼がないとできない。


 逆に言えば、これは初めてではない。

 何度も抱き合って、お互いの事をよく知っていると言うことになる。

 そこにあるのは、−−−恋か愛しかない。

 そうでないと成り立たない距離だった。


 そんな風に、ごく自然に彼女に寄り添う影を、

 つい最近見たのをエマは思い出した。


 赤いドレスが、黒い影に重なる。

 レイチェルが顔を寄せて、その人とレイチェルの唇が重なった。

 その長い前髪と骨張った体つきから、それが彼女の護衛騎士のロビンだとわかった。


 でも顔を見る前から、エマにはそれが誰か予想できた。

 あんな風にレイチェルに触れるのは、たった一人。

 ロビンしかいなかった。


 レイチェルが髪を靡かせてロビンに向けて体を伸ばす。

 そしてロビンも彼女の腰を引き寄せる。

 同時に彼女の腕が、ロビンの首に絡まって、二人の影がさらに深く重なった。


 その姿は一枚の絵画のように美しくて、見惚れるほどだった。

 だけどその光景の衝撃に、エマは息を飲んだ。



 思わず足がふらついて、エマは体のバランスを取ろうとする。

 だけど後ろに伸ばした足が木の根に引っかかって……エマは音を立てて転んでしまった。


 芝生に腰をついて咄嗟に顔を上げると、こっちへ顔を向けたレイチェルと目があってしまった。


 まずい。


 急いで立ちあがろうとしたら、それより先にロビンが素早くエマに近づいて体を拘束すると、腰に下げていた剣を抜いて、エマの首に沿わせた。

 思わず目を見開いてロビンを見ると、ロビンは殺気だった目でエマを見ていた。


 その剣が本物であることは、見なくてもわかる。

 背筋が寒くなるのを感じると、レイチェルは優雅にエマに向かって歩いてきた。

「ダメよ、ロビン。殺したら」

 なんでもないことのように言った。

「この人がいなくなったら大騒ぎになるから、面倒よ」


 面倒でなければ殺されるのかと、エマは思わず睨みを深くした。

 レイチェルはエマをじっと見つめた。


「見たわよね」


 レイチェルはエマの前に腰を下ろして、にこりと優雅に微笑んだ。

「驚いた?」

 驚いたに決まっている。

 貴族社会なら、正式な相手の他に愛人がいることもある。一夫多妻制の国も多い。そんなことはエマだって知っている。


 だけど、婚約者との顔見せの場所に、その相手を連れてくるって……。


 我が国への、皇太子への侮辱だ。


 エマは思わずレイチェルを睨みつけた。

「何?ご不満なの?」

「……わざわざこの場に連れてこなくても」

 エマにできる最大の反論をしたら、レイチェルは鼻で笑った。

「この人が相手がどんな人か見たいって言うから。それに、皇太子が私と合わない人だったら、長い滞在中一人でつまらないじゃない」

 そのとんでもなく悪趣味な言い訳に気分が悪くなった。



 ロビンは無表情のまま、エマに剣を当て続ける。レイチェルはロビンの肩に手を載せた。

「この人はね、ずっと私の側にいるの」


 その目が伏せられて、感情が見えなくなった。

「子供の頃から今まで、辛い時も酷い事をされた時も、死にそうな時も、どんな時だって私のことを守ってくれたのよ。だからこの先もずっと一緒。私がこの国で王妃になっても、ずっと一緒よ」

 レイチェルはロビンを見た。

「何があっても離れないわ」


 レイチェルはエマの顎を掴むと顔を自分へ向けさせる。

 エマは負けじとその目を見つめ返した。


「そんなに彼がいいなら、婚約破棄でも、二人で駆け落ちでもしたらいいじゃないですか」

 エマが吐き捨てるようにいうと、レイチェルは呆れたように笑った。

「そんなことできるはずないわ」

 レイチェルは息を吐いた。

「私は絶対にこの結婚を成立させないといけないの」

「だからといって、許されないことはあります」

「愛されている人間にはわからないわよ」

 その言い方は、まるで彼女が誰からも愛されていないように聞こえた。


「私はここで王妃になって、ようやく人間になれるのよ。そして今まで私を馬鹿にしてきた人達を見返してやるんだから」

 レイチェルの瞳に憎しみの炎が見えた。

 だけどその顔は苦しそうに歪んでいる。


 だけど、許せない。


「それはあなたの事情です。あなたがツライ目にあったからって、何をしてもいいと言うわけではないです」

「うるさいわね。そんな綺麗事で生きていけないのよ」


 美しいと思っていたレイチェルの顔が、今はじっとエマを睨む。

 その顔をとても恐ろしく感じた。


「いいじゃない。あの人だって私に興味がないみたいだし。お互い好きな人と仲良くすれば」

 そうしてエマの反応を楽しむように見つめた。

「いいわよ。あなたがあの人の愛人になっても。あの人、あなたのこと気に入っているみたいだし」

「そんなことしません」

 ムッとして、思わず言い返す。


「そうか、あんたの事はあっちが離さないか。あんた、二人と仲良くするってタイプじゃないもんね」

 レイチェルは呆れたように言い捨てた。いつの間にか言葉遣いが乱暴になっている。意味はわからないが、猛烈に酷いことを言われたことはわかってエマは大きな声を出した。

「バカにしないで」

 レイチェルはエマの顔から手を離すと、大きな息を吐いた。



 エマの頭に怒りが込み上げてくる。

 お見合いの場に恋人を連れてくる人が相手なんて、ひどすぎる。

 皇太子には幸せになる権利がある。

 その相手はこの人ではない。


 エマに背を向けたレイチェルをロビンが目で追いかけたのを見たエマは、剣をつかむロビンの手に噛み付いた。

「いてっ!」

 ロビンが剣を落とすと、その隙にエマは拘束を解いて立ち上がった。


 エマはレイチェルとロビンから距離をとると、二人を睨みつけた。

「私の成績、誰から聞いたんですか?」

「事前に身辺調査はするものだよ。特に君は身分の割に王族に近いから、とても目立った。異質な存在は調べない訳にはいかない」

「異質って……」

「その場にふさわしくない人間は目立つんだよ」

 皮肉げに笑うロビンに、エマは自分が最初から目をつけられていたことを知る。


「何が目的ですか?」

「さっきも言ったでしょう?私はここで王妃になる。そしてここで幸せになるの」

「本当に幸せになれると思いますか?」

 エマは思わず笑った。

 これが幸せだと思うなら、間違っている。


 レイチェルはエマを睨みつけた。

「このことを誰かに言ったら、許さないから」

「……約束できません」


 正直に言うと、皇太子には言いにくい。

 だけど自分の性格上、いつか言う気がした。

 言うとしたら、ルークに。


「それは困るわね。…ロビン」

 その言葉にロビンが体を動かした。


 そしてあっという間にエマの近くにくると、エマの頭から髪飾りを奪い取った。避けることができない、素早い身のこなしだった。


「何するんですか!」

 ロビンはそれを胸のポケットに入れる。

「あなたが誰にも言わなかったら、返します」


 レイチェルがエマの目の前にやってきた。

 その瞳がエマを刺すように強く見つめる。


「誰かに言ったら、絶対に許さないから」


 赤い口紅が光って弧を描くと不気味な笑顔になった。


 エマが睨み返すと、レイチェルはスッと真顔に戻った。


「あなただけじゃない。あなたの周りの人に、何かあっても知らないからね」




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