第26話 舞踏会の準備と新しい秘密と約束
次の日の目覚めは最悪だった。
ほとんど眠れなかったし、泣いていたから目も腫れている。
見るなりハンナが眉をしかめたから、本当にひどい顔だったのだと思う。
ルークと会うのは気まずいと思っていたら、朝食の前に早速会ってしまった。
「エマ、昨日の話だけど……」
廊下の反対側からルークが歩いてくる。咄嗟に顔を逸らしたけれど、すぐに距離を縮められた。ルークはエマの手に自分の手を重ねると、反対の手でその行く手を阻んだ。
「話すこと、ない」
「君は誤解している。ちゃんと話をしたい」
そう言って掴んでいるエマの手を引き寄せた時だった。
「朝から何をしているの」
後ろから鋭い声がして、振り返るとそこにいたのはエレノアだった。怖い顔をしたエレノアはルークの手を睨むと、ため息をついた。
「朝から騒ぐのはやめて。お行儀が悪いわ」
「申し訳ありません」
エレノアはルークをじっと見つめた後でエマに視線を向けると、驚いた顔になった。
「エマ、具合悪いの?大丈夫?」
確かにひどい顔だけどお化粧で誤魔化したから、気が付かれると思わなかった。
「大丈夫です」
「ダメよ。こんな顔で大丈夫なわけないわ」
スッとエマの隣にやってくると、ルークから引き離すように肩を抱いた。
「今日は休みなさい」
「え?」
エレノアはそのままエマの体をくるりと反転させると、後ろにいたハンナに声をかけた。
「とりあえず一度休みなさい。ハンナ、お部屋を用意して」
「ちょっと待って。エマは仕事だ。勝手に休むわけには……」
そう言ってエマに伸ばしたルークの手を、エレノアはピシャリと叩いた。
「仕事は代わりにあなたがやりなさい」
「あ、あの私、大丈夫です」
「ダメよ。こんな人と一緒に王宮まで行ったら、もっと具合が悪くなるわ。今日は休みなさい」
エレノアはそう言った後で足を止めて、静かにルークを振り返った。
「あなたもそんな様子なら、家には帰ってこないで。仕事が終わるまで王宮に泊まらせてもらいなさい」
それにルークは目を丸くした。
「それは一体……」
エレノアはルークに冷たく言い放った。
「私がいいというまで、エマと会うのは禁止。それが守れないなら、……しばらく領地視察に行ってもらうから」
「領地視察って……」
ヘイルズ家くらいの貴族になれば領地も多いし、全部回るには半年以上かかるだろう。
ルークは反論しようとしたが、エレノアは首を振った。
「とりあえず、女性に無理を言う男性に育てたつもりはないわよ」
早く仕事に行きなさい、そう言ってエレノアはエマを連れてその場を離れた。
気になって振り返ったら、エマとルークの視線が合った。
何かを言いたそうに見つめるルークを見て、思わず声をかけようとして
……だけど、できなかった。
******
その日の午前中眠ったら、エマもだいぶ元気になった。
お昼過ぎにエレノアに挨拶に行くと、エレノアも安心したような顔をした。
「元気になった?お昼ご飯は食べられそう?」
「少しなら……」
「そう、じゃあ一緒に食べましょう」
エレノアは近くにいたハンナに指示を出すと、エマに向き直った。
「午後は忙しいから、頑張って」
何があるのかと思ったエマに、エレノアは笑った。
「あなた宛の招待状が来たのよ。もう日がないから急いで準備しましょう」
例の舞踏会のことだと理解して、エマはためらいがちにエレノアを見た。
「その会は、本当に私が行ってもいいのでしょうか?……本当は行ってはいけないのかもしれないと思って」
俯いたエマにエレノアは笑いかけた。
「そうね。あの子は行かせたくなかったはずよ」
「え?」
その言葉が気になって詳しく聞こうとしたら、エレノアは大きく息を吐いた。
「でも行くことになったなら、ヘイルズ家の名にかけてあなたを会場で一番素敵にしてみせるから。……どこかの変なお嬢様よりもずっと綺麗にして見せるわ」
エレノアは息巻いた。
「どこかの変なお嬢様って」
「この舞踏会のことは、エマとそしてヘイルズ家への挑戦状です。受けて立ちましょう」
「挑戦状って……」
もしかしたら、エレノアはダフネのことを知っているのかもしれないと思った。
でも、エレノアはエマの両肩を力強く掴んだ。
「とりあえず、時間がないから忙しいの。あなたにはやることがたくさんあるわ」
そのエレノアの勢いに負けて、エマは何もいえなくなってしまった。
確かにやることはたくさんあった。
その日の午後にはお抱えの仕立て屋が来て、エマは驚いた。
ヘイルズ家くらいなら、余っているドレスの1着や2着あるだろうから、それを貸してください、と言ったら、エレノアに怒られた。
「あなたに一番似合うドレスを選ぶのは当然でしょう」
どうやらエレノアはエマを飾り立てることに決めたようで、エアよりも熱心にドレスを選び出した。
1日がかりでドレスの採寸をして、元気になったはずのエマはまた疲れてしまった。
でもそれだけでは済まなかった。
エレノアはエマに行儀作法やダンスも指導した。
最後には分厚い貴族名鑑を取り出して、これを覚えるように言った。
これが必要なのかと、疑問に思っていたら、エレノアは厳しい顔をした。
「ヘイルズ家の人間として恥ずかしくないようにしないと」
ヘイルズ家の人間ではないけれど……。
そう思ったけれど、エレノアの勢いに否定することはできなかった。
「どこかのおかしな貴族の娘に負けていられないわ」
ことあるごとにエレノアはそう呟いた。
誰と戦っているのかはわからないが、今度の舞踏会はエレノア、というかヘイルズ家にとっても負けられない戦いのようだった。
そしてその日はルークには会わなかった。
本当に泊まりがけで仕事をしたみたいだけど、エレノアは全く気にしていなかった。
「いいのよ。あの子が悪いのだから。あの子がもっとしっかりやっていたら、こんなことにはならなかったわ」
エレノアはルークに対して怒っているらしい。
「私はエマの味方だからね」
そう、力強く言ってくれた。
ありがたいが、わからないことが多くてもどかしい。
2日仕事を休んでから復帰したら、昼に皇太子がこっそりパトリシアの部屋に顔を出した。
今日は昼前に出勤したから朝のお茶会も出ていないし、ルークにも皇太子にも会っていない。
なんだか久しぶりに感じた。
「エマ、体調を崩したんだって?大丈夫?」
エマは慌てて立ち上がった。
ちょうどその時、パトリシアは部屋を留守にしていてエマしかいなかった。
「王女は今、席を外していて」
そう言ったエマに、皇太子はにっこり笑った。
「パティには会ったからいいよ。エマに会いにきたんだ」
ソファにゆったりと座って、皇太子は笑った。
「え?」
聞き間違いかと思ってエマは戸惑った。
そんなエマの様子を見ながら、皇太子は話し続ける。
「もう具合はいいの?」
「はい。ご心配おかけしました」
「そう」
大きく息を吐いて皇太子はじっとエマを見た。
「ルーク、ずっと仕事をしているよ」
「そ、そうですか」
「かなり機嫌が悪いから、エマと何かあったと思って……違う?」
クスクスと笑う皇太子を見て、猛烈に気まずくなった。
「喧嘩というか……、舞踏会のことなどありまして」
どうせルークから話を聞いているだろうと思っていると、皇太子がエマを見た。
「エマは今回は参加しないくていいと思って、声をかけなかったんだ」
「……本当ですか?」
「そうだよ。嘘じゃない」
ルークも同じことを言っていたけれど、素直に頷けなかった。
だけど、皇太子に言われると、簡単に信じてしまう。
「とりあえず、ルークのことは信じて欲しい。ルークがとても落ち込んでいて、気の毒だ」
責めるように見つめられて、エマは仕方なく頷いた。
「じゃあ、少しだけ信じます」
皇太子は声を上げて笑った。
だけど、次に視線があった時は、真剣な目でエマを見た。
「ルークとダフネ・ハントの事……どうして知っているの?」
「……え?」
「誰がエマに教えたの?噂で聞いたの?…それとも本人?」
本当のことは言いにくいから、エマは答えに迷う。
だけどそれで答えがわかったらしい。
「そう、嫌な思いをしたね」
皇太子はそう言って大きなため息をついた。
それきり皇太子が黙ったから、エマは何か言わないといけないと焦る。
だけどエマより先に皇太子が口を開いた。
「自分以外の人と、踊ってほしくなかった?」
皇太子はそっとエマの顔を覗き込んだ。
青い瞳が細められて、ふっと優しい顔になる。
エマが黙ったままでいると、皇太子は笑った。
「そう、やっぱり嫌なんだね」
そんなことない。
そう言いたいのに、できなかった。
エマは舞踏会のことよりも、ルークがダフネとダンスをする事が気になっている。
エマはぎゅっと手を握りしめた。
皇太子は大きく息を吐いた。
「でも、あれは仕事みたいなものだから、ルークのことを許してあげて」
「それって、どういう……?」
皇太子は立ち上がると、エマを振り返った。
「時には仕事で踊る時もある。男にはそういう時もたくさんあるんだ」
困ったような顔から、皇太子が面倒だと思っているのがわかった。
その顔はいつもの礼儀正しい皇太子の顔ではなくて、気取らない年相応の男の人の顔に見えた。
うんざりした、と言う顔に思わずエマが笑ってしまうと、皇太子は苦笑いした。
「女性の前で言うことではなかったかな」
「秘密にしておきます」
エマの返事に、今度は皇太子が笑った。
「エマとの秘密がまた、増えたね」
そういえば、以前も秘密の話をしたのを思い出して、二人で顔を見合わせて笑った。
皇太子との秘密はもうたくさんだと思っていたのに、うまく皇太子のペースに巻き込まれている気がする。
皇太子は息を吐いて、独り言のように呟いた。
「私にとってはルークもエマも大切な人だからね。仲良くしてほしい」
それからからかうように、エマを見た。
時間だと言って立ち上がった皇太子はエマを見て笑った。
もうすっかりいつもの皇太子だった。
「舞踏会はきてくれるよね?」
「はい」
「エマは踊りたい?」
「え?」
突然聞かれてエマは驚いた。
踊る予定はなかった。
だって、相手もいないし。
練習はしているけど、きっと踊らないと思っていた。
だけど、今、皇太子がエマをじっと見つめていた。
そしてエマは皇太子から目が離せなかった。
「今度の舞踏会。私がエマと踊ろうかな」
少し迷って、エマは口を開いた。
「……それも、仕事ですか?」
もし仕事だったら嫌だな、と思って聞いたら、皇太子は目を丸くして、それから声を出して笑った。
エマと目線を合わせると、首を傾げた。
「仕事じゃないよ。本当にエマと踊りたいと思っている」
「私、ダンスは下手ですから、皇太子様と踊る自信がないです」
皇太子と踊るなんて、絶対にみんなからの注目を集めてしまう。
そんなところで、ステップを踏み間違えたりはできない。
緊張するし、エマには無理だ。
恥ずかしさを堪えて言ったら、皇太子はまた声を出して笑った。
ずいっと顔をエマの目の前にして、励ますように笑う。
「それは男性が努力することだよ。エマが気にするところじゃない」
その神々しいほど美しい笑顔に驚いていると、皇太子はエマの頭をひと撫でしてドアに向かって歩いていった。
そのまま出て行くかと思ったら、立ち止まってエマを振り返った。
視線があって、なんだろうと思っていると、皇太子は笑った。
「私と踊りたくなったら、いつでも言って」
思わず、息を飲んだ。
ルークよりも少し色の濃い深い青の瞳が、エマをしっかり見ていた。
とても真剣な目でエマを見るから、目を逸らすことができなかった。
「エマが私と踊るなら、その日は他の誰とも踊らないことにするよ」
まるで魔法にかかったみたいに動けないエマに、皇太子は笑いかけた。
「約束するよ。エマが踊ってくれるなら、他の人とは絶対に踊らない」
そうして、皇太子は今度こそ振り返らずに出ていった。
******
それから舞踏会までは忙しかった。
パトリシアの準備のお手伝いもあったし、家に帰ればエレノアと勉強しないといけなかった。
エレノアは教育熱心で、正直、魔法学校の試験前より忙しくて大変だった。
結局、皇太子には返事をしていない。
勉強で忙しくて、考えられなかった。
もしかしたら……それは言い訳かもしれないけど。
そのうちに、舞踏会の日がやってきた。
その日まで、ルークには会わなかった。
ルークは毎日遅くまで仕事をして帰りも遅いし、朝のお茶会はエマが休んでいる。
会う機会がなかった、と言う方が正しい。
学生の時から、ルークの顔を3日以上見ないことはなかった。
そのせいなのか、しばらくするとルークのことが気になり始めた。
どうしているのか、とか。元気なのか、とか。
そのうちに舞踏会のダンスの事はどうでも良くなって、ただ会いたいような気がしてしまった。
でもその時間はなかった。
ルークの帰りはいつも遅かった。
エマが寝る前に部屋でくつろいでいると、隣の部屋にルークが入ってくる音がする。
あまり物音がしないから、部屋に戻るなり、疲れて眠っているのかもしれない。
ルークの様子が気になって、隣へ続くドアの前まで行ってしまったこともある。
いつもエマは目の前に立って、ドアを見つめる。
そのドアに鍵がついていないことは知っている。
だから、その気になればいつだって、エマはルークに会うことができる。
それなのに、そのドアをノックする勇気はない。
ドア一枚分の距離。
それがとても遠く感じられた。
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