舞踏会編

第23話 疲れている男性の励まし方

 エマはついに恋愛小説に手を出した。


 読もうと思ったきっかけは、ルークだ。

 ルークに『あの小説で勉強した方がいい』と言われたから。


 恋愛小説で何を学んだらいいのかはわからない。

 そもそも恋愛のことなどエマにはよくわからないし、恋愛小説に興味もなかったから、本を読む気もなかった。

 だけど『勉強』と言われたことで、エマの中でその小説を読むことの意味が変化した。



 勉強と言われると、急に読む気になる。

 なんと言っても、ルークは(それを読んだのかは知らないけれど)その内容について、エマより詳しいと言うことなのだから。


 ルークが知っていて、私が知らないなんて。


 変なところで負けず嫌いが刺激されて、エマは勉強をすることにした。



 パトリシアに恋愛小説を貸してほしいと言ったら、王女は目を輝かせて喜んでくれた。

「エマと本の感想を話し合えるなんて素敵!」

 そして本棚にずらりと並んだ本の中から、王女厳選の本をいくつか貸してくれた。

 で、本を借りて早速読んでみた。


 その日の午後に二人でソファに寄りかかりながら本を読む。

 パトリシアはとてもくつろいでいたけれど、エマは本を読みながら、あまりの刺激に気絶するかと思った。

 読みながら顔が赤くなって、手が震えてきた。


 だって、主人公は恋愛対象を相手に、好きだと囁いたり、恥ずかしげもなく抱き合ったり、それから……情熱的に口付けたりする。

 時にはもっと……踏み込んだ事をすることもある。


 こ、こんなことって……。


 エマは思わず本を閉じた。

 だけどその様子を見て、パトリシアが心配そうに近寄ってきた。

「あれ?どうした?この話、だめ?」

 パトリシアがエマを覗き込む。


 手を伸ばすとエマがちょうど読んでいたページを開いた。そして顔を輝かせる。

「ああ、ここ、いいわよね。戦い終わって二人がお互いの思いを伝え合って、それから夜空の下で抱き合ってキスするのよ。この物語の最大のヤマ場よ。このシーンがとても素敵なのよね」

 パトリシアが胸に手を当てて、そのシーンの良さについて熱弁する。


 だけどエマは呆然としていた。


 だって、抱き合ったり、キスしたり……。

 そんなことはエマにとっては

「刺激が強い……」


 ボソリと呟くとパトリシアが訝しげな顔をする。

「どのあたりが?」

「その……こんな人目も憚らずに抱き合ったりとか、ちょっとすごいというか……私には想像できないです」

 エマは苦い顔をした。

 だけどその返事にパトリシアはもっと苦い顔をした。



「は?それ、あなたが言うわけ?」

「え?」

 パトリシアが呆れた顔でエマを見る。



「あの日、私の目の前で堂々とルークと抱き合ってたの、あなた、まさか忘れたの?」

「え?」

「あの時間は絶対この小説よりも長かったし、内容も濃厚だった気が……」

「やめてください!」

 言われてエマの顔はさらに赤くなった。


 王女の言っているのは、この間のことだ。

 暴漢に襲われてルークに助けてもらって、思わず感極まって抱き合ってしまった時のことだ。


 あの時は気が付かなかったけれど、でも、言われてみればそうだ。

 私たちは人目も憚らず抱き合ったし、

 目の前にはパトリシアがいたわけだし、

 全部、ばっちり見られていた。


「しかもあいつ、あなたのこと抱き締めて、馬車まで連れて行って……、重いだろうから途中でお兄様が変わるって言ったけど、絶対に変わらなかったわよ。そのくせ私には歩ける人は歩けって言ったのよ」

 そういえばそんなことはハンナにも言われた。


 エマは慌てて首を振った。

「え、いや……あれは生きててよかったって安心感で抱き合ったわけで、そんな深い意味は」

「安心感であんなに抱き合う必要ある?なら、ルークじゃなくて一緒に逃げた私と抱き合うのが普通でしょう?」

 パトリシアは大きなため息をつく。

「本当にそういう方面は苦手なのね、あなた」


 そうして机の上の小説を見つめた。

「確かに、こういう本を読んだ方がいいわ」

 王女が怒ったかもしれないと焦って、エマは付け加える。

「え、と。実はルークにも同じようなことを言われて」

 それに王女はもっと嫌な顔をした。

「は?あいつ、そんなこと言ったの?」

「そうです。だから、こうやって小説で勉強しようって思って」



 パトリシアは少し考えた後で、とても嬉しそうに笑った。

「じゃあ。いい参考書を貸してあげるわよ」

 そうしてパトリシアは彼女のコレクションの中から選りすぐりの良い作品を選んでくれた。

「これであなたも勉強するといいわ」


 その大量の本にエマは驚いた。

 こんなに渡されると思わなかった。


 エマの周りは勉強熱心な人が多くて困る。



 ******


 その日の夜、ベッドに座って本を読んでいると隣からドアがノックされた。


「エマ?いい?」

 そう言ってルークが顔を覗かせた。そしてソファの近くに座っているロキを見て声をかけた。

「ロキを連れていくよ」

 最近、ルークは夜になるとエマの部屋からロキを回収していく。

 ロキはその習慣を覚えたのか、ルークのくる時間が近づくと、自然にベッドから降りて床に座るようになった。


 ロキがベッドの上にいるとルークが異常に不機嫌になることを、エマもロキもついでに言えばハンナも知っている。


 ルークが部屋に入ると、ロキはそそっと部屋から出て行った。

「ところで、君、何をしているの?」

 そう言ってルークがエマのところに近寄ってきた。

 ルークはそのままベッドの上に散らばった恋愛小説に手を伸ばす。

「あ、これは……」

「君、これを読んでいるの?」

 借りてきた本をルークが手にして、パラパラと中身をチェックする。

 なんだか居た堪れなくて、エマは俯いた。


「これは、王女が自分の持っているものでいい本を選んで貸してくれて……だから、別に読みたいってわけじゃ」

 本を捲るルークの手はピシリと止まった。

「それに、あなたも言っていたじゃない。少し勉強しろって。だから私もそうかもと思って……勉強のために借りたのよ」


 本をチェックするルークの顔がみるみるうちに険しくなる。

 その様子にエマは驚いてルークの顔を覗き込む。

「え?なに?どうしたの?」

 だけどルークは勢いよく本を閉じると、満面の笑みを浮かべてエマを見た。

 その胡散臭い笑顔にエマはちょっと驚く。


「この本は没収。君は読まなくていい」

「は?困る。明日感想を教えてって言われているのに」

 だけどルークはベッドの上の本を集める。


「ここにあるような王子との身分違いの恋なんて、今後絶対に、何があっても君には起こらないから参考にならない。だから読む必要はない。君はもっと現実的な恋の話を読んだ方がいい。……そうだな、例えば仲のいい幼馴染と結婚する話とか、いつもそばにいた同級生と結婚する話とか」

「ちょ、ちょっと待ってよ」

「前も言ったけど、君には王子は似合わないからね」

 そう言ってルークは本をまとめて自分の手元に置いた。

「こんな非現実的な話ばかり貸すなんて、王女の嫌がらせだな」

「そ、そんな」

「もう勉強はいい。間違った知識をつけるだけだ」

 そう言って本を持つとルークは立ち上がった。



 だけどその顔がいつもと違って見えて、それが気になったエマは思わず体を起こして、体を翻そうとするルークの服の袖を引っ張った。

 ルークは振り返ると訝しげな瞳でエマを見た。


 エマを見て、それからエマの手を見て、戸惑ったような顔をした。

「なに?」

 そのそっけない様子に、気を悪くしたかもしれないとエマは驚いてパッと手を離した。

「あ、ごめんなさい」

 振り返ったルークは、もういつものように見えた。

 なんだか疲れて見えたのは、エマの気のせいだったのかもしれない。


「どうしたの?」

「あ、なんでもない。あなたが……ちょっと疲れているのかなって。元気がないように見えたから……」

 エマは苦笑いした。

 自分の勘違いだったことに安心しながらも、エマはごまかすように笑った。ベッドの上に膝立ちになったせいで、ルークと目線が近くなった。

 ルークの青い瞳がじっとエマを見るから、途端に落ち着かなくなる。


「ごめん。変なこと言って。疲れてないよね」

 エマは笑って手を振ったけれど、ルークは笑わなかった。

 そして、手を伸ばすとそのままエマの手を握った。


「そうだね、ちょっと疲れているかもしれない」

「……え?」

 ルークは目を細めてエマを見た。

「君のいう通りかもしれない」

 エマの目をじっと見て、ルークはつぶやいた。

「色々あって、ちょっと疲れたんだ」



 夜の暗い部屋の中のせいか、それとも伏せた目に影が漂うせいか、その時のルークは、見慣れているはずのエマでも思わず目を奪われてしまうくらい、色気があった。



 ルークはエマの手を掬うように触れて、自分の指を絡めた。

 エマの心臓がどくんと大きく音をたてた。



「じゃあ、エマに問題」

「も、問題?」

 そう、ルークはそう言って、口角を上げた。

「疲れている男性を元気づけるには、どうするのがいいかわかる?」

 繋いだ手にぎゅっと力を込める。

「も、問題って……」

「勉強しているんでしょう?」

 クスッとルークは笑った。

 その笑顔にエマの心が波立つ。


 ルークは両手でエマの両手を握りしめた。

「その恋愛小説には、いい答えが書いてないの?」

「え、だって、これはまだ読み途中で……」

「わからない?」

 エマは視線を彷徨わせて、そして本当に困って思わず顔を俯けて、だけどそれを拒むようにルークはエマの手を引いた。

「エマ、顔を見せて」

「……無理」

「どうして?」

 少し考えて、エマは小さな声で答えた。

「………答えがわからない」


 チラッと顔を上げたら、こっちを見ていたルークと視線があった。おかしそうにエマを見ている。

「答え、教えてあげようか」

「いや、いい」

「答えがわからなくていいの?」

 思わず答えに詰まったエマを見て、ルークは声を上げて笑った。


「じゃあ、教えてあげる」


 そうしてエマを見た。

 まだ色気が漂う瞳でエマを覗き込んで、動けなくさせる。

「そういう時は、優しく抱きしめればいいんだよ」

「だっ……抱きしめる?」

「そう。そうすると、すごく、元気が出る」

 ルークはエマの手を放すと、両手を広げた。

「試しに僕で練習してみなよ」


 ほら、そう言ってルークは目を瞑った。


 エマは断ろうとした。

 だけど、気持ちと反対に、まるで魔法にかけられたように、体はルークに近づいていく。

 ためらいがちに、ルークの洋服の前を掴んだ。


「ほっ……本当に、いいの?」

「もちろん」

「い、いくわよ」

「どうぞ」

 余裕たっぷりにルークが返すから、エマは負けたみたいに悔しくなって、だけどここまできて断ることもできないから、困ってしまう。


 何回か深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着かせる。

「まだ?」

「い、いまやるわよ」

 エマはそっと手を伸ばすと、ルークの体を囲って、数秒間そのまま固まって……。

 最後に、思い切り勇気を出して、ルークの体を抱きしめた。


 抱きしめた体はとても大きくて硬くて、やっぱり自分と全然違うとエマは思った。薄い洋服越しにルークの体温が伝わって、これが現実だと実感させる。


 私、ルークを抱きしめてる。


 そう考えたら、恥ずかしくて、恥ずかしくて、思わずルークの胸に顔を押し当てる。すると耳に触れたルークの胸が、エマと同じくらい早く打っているのに気がついた。


 抱きしめられたことはあったけれど、自分で抱きしめるのは初めてだった。

 言われた通り、なんだか今までと違った。

 とてつもなく恥ずかしいのに、なんだか気持ちが落ち着いてくる気がする。


 励ましているはずの自分が元気になる気がした。



 ルークの腕がそっと動いて、エマの頭をそっと撫でた。

「まあまあうまくできてるんじゃない?」

 頭の上から、からかうような声がした。

「そ、そう?……ならいいんだけど」

 ルークはエマの体に自分の腕を回すと、そっとエマの顔を覗き込んだ。


「もっと元気になる方法があるけど……知りたい?」

「まだあるの?」

 エマが驚くと、ルークは頷いた。


 小さく笑うとエマの耳に唇を寄せた。

「それはね……」

 エマの耳にルークの息がかかってくすぐったくなる。

「もっと元気になるには、キ……」



 だけど、そこまで言った時、部屋のドアが早く、そして強くノックされた。

 誰か来る、そう思って慌てて体を離した瞬間、

 返事をするより先に、勢いよくドアが開いてハンナが入ってきた。


「ロキが廊下でウロウロしているので来てみたら……」

 そうしてルークを見て、厳しい目になった。

「おぼっちゃまが変なことをしそうになったら、しっかり止めるように言われておりますので」

「だ、誰がそんなことを」

 ルークの声にハンナはキッパリと言い返した。

「奥様です」

 それにルークは頭を抱えた。ハンナは大きく息を吐く。


「場合によってはお嬢様のお部屋を変えるようにも言われていますけれど…、もう今すぐにでも変えた方がいいでしょうか?奥様から自分の隣のお部屋を準備するように言われておりますので」

「いや、それは勘弁してくれ」

 顔に手を当てたルークはこれ以上ない苦い顔をして、肩をすくめるとドアへ体を向けた。


「ハンナがうるさいから僕は寝るよ。おやすみ」

「あ……うん」

 エマがじっとルークを見つめると、ルークは苦笑いした。

 そうしてもう一度エマの方へ歩いてきて、エマの耳に唇を寄せた。

「あと、一つだけ注意しておく」

「え?」

 ルークはにこりと笑った。

「……さっきのは、僕限定の方法だから。他の人には効かないから、注意してね」

 それにエマは驚いてがばっと顔を上げた。

 本当に目の前にあるルークの顔がいたずらっぽく笑って、エマの頭を撫でた。


「え?これルークだけなの?」

 思わず声を上げると、その目の前の青い瞳が怪しく煌めいた。


「そうだよ。だから、絶対に僕以外の人にはやらないで」


 その顔と声にドキッとして、あっという間にエマの顔が真っ赤になった。

 それを見て満足したようにルークは笑って、そしてもう一度エマの頭を撫でた。


 だけどエマが何かを言う前に、ハンナの大きな咳払いが聞こえた。


「じゃあ、ハンナがうるさいから今度こそ、おやすみ」


 

 そうして今度こそ、振り返らずに部屋を出ていった。




 だけど、最後のルークの顔が頭にこびりついて離れなくて……

 その夜、なかなかエマは眠ることができなかった。





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