第22話 苦手分野
エマには苦手分野がある。
それは刺繍だった。
魔法学校にいるときは、ララに何度も教わった。
だから、ものすごくひいき目で見れば、見られないほど酷い出来ではないと思う。だけど反対に、進んで人に見せられるものではないこともわかっている。
だから、出来れば刺繍はやりたくない。
でも、やらないといけない。
エマは大きなため息をついた。
今回のことで、エマはかなりルークに迷惑をかけた。
それは間違いないし、エマにも十分すぎるほどよくわかっている。
仕事の邪魔もしたし、それから医者を手配してもらったり、家に住まわせてもらったり、身の回りのものだって、揃えてもらった。
このお礼をしろと言われても、正直エマの力では無理だ。
ルークはなんでも持っている。
手に入らないものなんて、ない。
何かお礼をしたいと思って、考えて悩んで……
エマはハンカチに刺繍をしてプレゼントすることにした。
いま自分がルークに感謝の気持ちを伝えるとしたら、それくらいしか思いつかなかったのだ。
そこまではよかった。
だけどそれを思いついた時は、まだ王宮に仕事復帰前で、ヘイルズ家に居候中で、怪我を理由に買い物にもいけない状態だった。
それとなくハンナに外出を伝えたら、眉をしかめられた。
「必要なものは揃えますし、どうしても外出希望ならおぼっちゃまと一緒にしてください」
どうしてルークにプレゼントをするのに、ヘイルズ家で材料を準備してもらったり、送られるはずのルークと買い物に行かねばいけないのだ。
結局、エマは仕事に復帰してから買い物に行くことにした。
だけど、そこからが大変だった。
「買い物?なに?一緒に行くよ」
そう言ってルークは一人で外出もさせてくれない。
この間外出中に事件に巻き込まれたことを、ルークは今でも気にしているようだった。外出、と言っただけで、顔色が変わるのを見て、エマは外出を諦めた。
困り果てたエマは、親友ララに手紙を出して、刺繍用の道具一式を送ってもらった。
詳しいことは何も書かずに刺繍をするためのものが欲しいと言ったら、何も聞かずに全部揃えてヘイルズ家まで送ってくれた。
しかも綺麗な青い色の刺繍糸をたくさん入れてある。。
異常に勘のいいララには感謝しかない。
……で、準備が整ったところで、ようやく刺繍を開始した。
だけど、初めて5分で、エマは自分に刺繍の才能がなかったことを思い出した。
「だめだ。恐ろしいほど下手だ」
エマは自分が完成させたものを二つ、比べてみる。
ルークの名前が入ったハンカチを二つ作ってみたものの、一つは文字が斜めになり、もう一つは字が歪んでいる。
「これ、渡せないわ」
また新しくやり直そうと心に決める。
だって、こんな不完全なものを渡したら、皮肉げに笑って嫌味の一つも言われてしまうかもしれない。
いや……絶対に言われる。間違いない。
エマはベッドサイドの机にハンカチを置くと、そのままベッドに座り込んだ。
「もっと練習しておけばよかった」
大きなため息をついたら、ロキがベッドに上がってきた。
「どうしたの?」
エマがロキを撫でながら声を掛けると
「ボフッ」
そう、ロキは大きく吠えて、エマの体を押し倒した。
「きゃあ!」
ロキはエマを押し倒すと、そのままエマの顔を舐めた。
その勢いがすごいから、エマは慌てて止めようとする。
「ちょっと待って!ロキ!ストップ」
だけど、エマの声は聞こえていないのか、ロキはそのままエマの体の上から動こうとしない。
「ちょっと!ロキッ!」
大声でロキの体を避けようとしたけれど、体の大きいロキはエマでは退かせない。
「ロキ、ごめん、どいて!」
大きな声を出して暴れていると、隣へ続くドアがノックされた。
「エマ?どうしたの?入るよ」
そんな声とともにドアが開いて、ルークが入ってきた。
そうしてロキに押し倒されているエマを見ると、ツカツカとベッドまでやってきて、ロキをベリっと引き剥がした。
ロキをベッドから下ろすと、エマに手を差し出した。
「ありがとう」
ルークの手を握ると、体を起こすのを手伝ってくれた。
エマはベッドに座り直すと、大きく息を吐いた。
「助かった……」
だけど、そんなエマをルークは苦い顔で見つめた。
「あのさ、何をしているんだよ」
エマが呼吸を整えていると、ルークはため息をついて、ベッドの端に座ってエマをじっと見つめた。
その目が冷たくて、エマは苦笑いした。
「ごめんね、仕事の邪魔しちゃった?」
ルークは部屋の隅に逃げたロキを睨みつける。
「あのさ、何回も言ったよね。ロキをベッドにあげるなって。君も女性なら夫以外の男性をベッドにあげたらダメだってことくらいわかるだろ?」
「ロキは犬だし」
「何度も言うけど、ロキはオス」
ルークはエマを見つめた。
「いい加減、覚えて」
その目が思いのほか鋭かったから、怒られたみたいでエマは少し面白くない気分になる。
思わず視線を落とした。
「じゃあ……」
「何?」
「今だって、ルークが座っているのはダメだってことになるよね」
エマのベッドに腰掛けているルークをじっと見つめると、ルークは、きまずそうに目を逸らせた。
「僕はいいの」
「どうして?」
それにルークは顔を逸らせた。
そこでふと、ルークと手が繋がれたままだったことに気がついた。
だけど、エマの表情を見て、ルークも気がついたのか、手をパッと離してしまった。
「別に理由はいいだろう。とりあえず、僕はいいんだよ」
誤魔化すように唇を歪めてルークが笑う。
だけど、エマは少し落ち込んでしまった。
あの夕日を一緒に見た日から、まるで今までが嘘のように、ルークはエマに触れない。
手を繋ぐことも、抱きしめることもない。
エマは時々それを思い出して、その度に、なんだか寂しいような、どうして手を繋いでくれないのかって怒りたくなるような、変な気持ちになった。
同じ馬車に乗っても、隣を歩いていても、ルークはエマに触れない。
ものすごく近くにいて、手を伸ばせばすぐに触れるのに、その少しの距離、手を伸ばしてくれない。
今だって、手をあっという間に離してしまう。
そしてエマは……それをほんの少しだけ、そう、本当に少しだけ。
物足りなく思っている。
繋がれた手を嫌がるような素振りをしているくせに、してくれないと怒るなんておかしい。
本当に私はどうかしている。
エマはため息をついた。
「ねえ、これ何?」
ぼんやり考えていると、そんな声が聞こえてきて、エマは顔を上げた。
ルークがベッドサイドテーブルに手を伸ばして、さっきエマが置いたばかりのハンカチを手にしていた。
「あ、それはダメ!」
奪い取ろうとしたら、それより先にルークが手を上に上げてエマが届かないようにしてしまう。
ルークはそれを見て……はっきりとわかるくらい、顔を赤くした。
「君…これ……」
そのハンカチの刺繍を何度も確かめるように見て、指で触れて、信じられないという顔をしてエマを見た。
「これ、君がやったの?」
あまりの下手さにきっと驚いているのだろうと思って、エマは恥ずかしくて泣きそうになる。誤魔化そうかと思ったけれど、目の前のルークを見て、それは無理だと悟る。
だって、名前が書いてあるのだ。わからないはずがない。
仕方なく、黙ってコクっと頷いた。
人に何かをプレゼントして、こんなに緊張したのも
嫌がられるかもしれないと思って、怖い思いをしたのも
全部初めてだった。
沈黙が耐えられなくて、エマは口を開く。
「い、一応、お世話になったから、お礼に何かしようと思ったの。だけど何をしたらいいのか浮かばなくて、それで刺繍がいいかなって思って」
ルークがそれをじっと見ているのを見て、エマは恥ずかしくて消えてしまいたくなる。
だって、きっと呆れている。
こんなに下手な刺繍は初めてだと思う。
だから、話すこともできないくらい驚いているのだと思った。
「ど、どうせ下手だって思ってるんでしょ?そ、そうよ……。私、あんまり刺繍は上手じゃないの。だから笑ってもいいのよ」
エマは手を伸ばしてハンカチを奪おうとした。だけど、ルークの手がそれをぎゅっと握っていて、渡してくれない。
「こんなの、どうせ使えないわよね。だから……これはナシ。もっと練習したら、ちゃんとしたのを渡すから」
なんだか泣きそうになってしまって、エマは俯いた。
こういう時、自分が嫌になる。
本当は刺繍なんてもっと上手に、しかも簡単にこなして、ものすごく綺麗なものを渡したかった。
そういう完璧なプレゼントが、ルークには似合っていると思う。
ふさわしいものを渡せない自分のダメさ加減が悲しい。
うまく使える魔法より、自分の魔力より
今はルークに自信を持って渡せる刺繍の能力が欲しかったと思う。
だけど、ルークは首を振った。
「いや、嬉しい」
ものすごく大事そうにそのハンカチを握りしめて、もう一度言った。
「すごく、嬉しいよ」
エマへ顔を上げて、微笑んだ。
「ありがとう」
その返事に緊張が解けて、今度こそエマは泣きそうになってしまった。
「ねえ」
「何?」
「抱きしめて、いい?」
顔を上げたらルークと視線があって、少しだけ、瞬きするくらいの短い時間迷ってから、頷いた。
そうしたらルークが手を伸ばしてそっとエマを抱きしめた。
「ありがとう。本当に嬉しい」
いつも手放しで褒めることなんてないのに、こんなふうに言われたら、じんわり嬉しさが込みあげてくる。
「下手だから、もっと練習してちゃんとしたのを送り直すから」
「でも、これはこれでもらう。……だって僕のために作ってくれたんだろ?」
頷くことで返事をしたら、ルークはぎゅっとエマを抱きしめた。
「ありがとう。こんな嬉しいことないよ」
何を言ったらいいかわからなくて、エマはそっとルークの胸に自分の頬を寄せた。後頭部にルークの手が添えられて、そのまま引き寄せられた。
持てる勇気を全部動員して、エマは両手を伸ばすとルークの背中にそっと手をあてた。
だけど、思い切ってそうしたら、物足りなく思っていた気持ちが満たされていくのがわかった。
あ、私、ずっとこうしたかったかも。
ふと、そんな気持ちが浮かんできた。
あの時から、ルークはエマに全く触れることがなくなってしまって、
自分が思っている以上に、それを寂しく思っていたことをエマはようやく理解した。
その証拠に、エマの気持ちは今、さっきまでのギスギスした気持ちが嘘のように落ち着いている。
エマはルークの背中を手でつついた。
「本当にちゃんと、練習するから……。そうしたらもっといいのを渡すから」
念を押す用に言ったら、頭の上でルークがクスッと笑った。
「期待してるよ」
「だけど……下手だから、あんまり期待しないで」
そうしたら、ルークが少し考えたようにうーんと呟いて、エマを見下ろした。
「じゃあ、いい先生を紹介するよ」
「刺繍の先生?」
うん、とルークは頷いた。
「いい先生についたら、すぐにうまくなるから」
そう言ってエマを安心させるように、微笑んだ。
気の早いルークは、その翌日には刺繍の先生をエマに紹介してきた。
だけど、その刺繍の先生が、ルークの母親であるエレノア・ヘイルズであることを知って、エマは卒倒しそうなほど、驚いた。
ルークの両親には居候として挨拶に行かないといけないと思っていたものの、予想よりもずいぶん早く会うことになってしまった。
そして、それを聞いたパトリシア王女は、大きなため息をついた。
「あなたの外堀は完全に埋まったわね」
その視線がとても、痛かった。
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