第15話 人生最大のピンチ

 気がついたら、エマとパトリシアの座るベンチは柄の悪そうな男性5人に囲まれていた。


 5人の男たちはみんな体が大きくて、着ている洋服は少し汚れていて、全員洋服をだらしなく着崩している。

 明らかに悪い匂いのする人たちだった。

 座る二人の上から覗くようにしてジロジロとこっちをみている。彼らのエマとパトリシアを見る目ははっきりと、獲物を見つめる目だった。

 その遠慮のない視線にスッと背中に寒気がした。


 隣のパトリシアが無意識に体を寄せて、エマの右手をぎゅっと握った。その手が少し震えている。その手を握り返しながら、エマの胃がぎゅうと締め付けられるように痛んだ。


 エマにだってわかる。この状況はとんでもなくまずい。

 どうしてこんなことになったのだと、心の中で舌打ちする。

 なんとかここを乗り切らないといけない。


 自分が恐怖を感じていることを知られまいと、エマはグッと顔を上げた。


 彼らの目は見ないようにしながら、エマははっきりと首を横に振った。そしてあまり冷たくならない程度に、キッパリと告げた。

「私たちはもう帰るところです」

 さりげなくパトリシアの手を掴むと立ち上がって、男たちの隙間を通り抜けようとした。


 だけど目の前に一人の男がスッと体を滑り込ませた。

 前へ進もうとしたエマは、足を止めないといけなくなる。

 思わず顔を向けると、じっとこっちを見るその男と視線があった。


 男たちの真ん中の、おそらくリーダー格と思われる一番体の大きい男がニヤリとエマに笑いかけた。

 その笑顔が笑っているのに、とても恐ろしく見える。


「もう帰るの?俺たちと遊んでいこうよ」

 ぐるりと囲む男たちを順番に見つめると、みんながエマとパトリシアをまるで品定めでもするように見ている。


「いえ、私たちは帰ります」

「じゃあ。そこまで送っていくよ」

 そう言ってエマの肩を掴んだ。

 その手をどうしようもなく気持ち悪く感じて、エマはその手を払い除ける。

「いえ、結構です」

「そんなにカリカリしないでよ」

 茶化すような声がした。それを聞いて、他の男たちも声をあげて笑う。


 でも、笑っているのにエマを見る目だけが笑っていない。

「送ってあげるって言っているのに」

 それが送るだけで終わらないことくらい、エマにだってわかる。


 街中におりれば、こうした悪い人がいるのは知識として知っている。だけどいざ目の前にくると、どうしていいかわからない。何人のも男性に遠慮のない視線を向けられて、足が震えた。


 一人がパトリシアに体を寄せてその顔を覗き込む。

 パトリシアが怯えたように体をすくめた。

「可愛い顔しているよね」

「ね。絶対に楽しくするよ」

 パトリシアが怯えたようにエマの背中を掴む。エマは咄嗟にパトリシアを庇って自分が前に出た。それを見て嬉しそうに笑う。

「あ、でも俺はこっちの方がタイプだな」

 そこに他の男の人が近寄ってきて、エマの体にぶつかった。彼から嫌な匂いがした。


 目の前の男たちは明らかに良くない人間の持つ匂いがした。



 このまま帰れなかったら……そんな考えが浮かんだ。

 こんなところで王女に何かあってはいけない。

 なんとしても、王女を無事に王宮に連れて戻らないと……。

 エマは手を握りしめる。


 エマとパトリシアがいないことに気がついて、誰か助けに来てくれないだろうか。そんな考えが浮かんだ。


 申請書に書いた帰る時間を過ぎているし、馬車の従者も戻らない私たちを不審に思って何か行動をしてくれるはずだ。

 そうしたら、誰かが……助けに来てくれるかもしれない。


 そう考えた時、エマの頭に一人の顔が浮かんだ。

 その人がエマを助けに来てくれるかもしれない、そう思ってすぐにその考えを振り払った。


 あの人がそんなことをするわけないよね。


 だって、私たち、恋人でも友人でも、仲がいいわけでもない。

 強いて言うなら元同級生。

 私のためにそんなことをする人ではない。


 そう思って、息を吐いた。

 今は私がなんとかするしかない。

 王女を守るのは、自分だけだとエマは心を決める。


 エマはグッとお腹に力をこめて、負けじとその男たちを見返した。本当は足が震えていたけれど、それを悟られないように力を込める。

 その中のリーダー格と思われる一番体の大きな男性が、エマに一歩近づいた。

「まあ、お行儀よく誘ってもダメなら仕方ないか」

「こんな上玉、逃すわけないですよね」

 そういうとパトリシアに向かって手を伸ばした。

「ほら、こっちにこいよ」


 だけどその手がパトリシアの腕を掴む前に、エマはパトリシアの腕を掴んだ。そしてその男の足を思い切り踏んづけた。

「いってえ!」

 大きな叫び声を上げて、男が体を折って呻き声をあげる。


 その瞬間を狙って、エマはその男に思い切り体当たりした。

「うわあ!」

 男が体制を崩したせいで出来た隙間を、エマはパトリシアの手を引いて走り抜けた。男たちが囲う円の中から飛び出すと、そのまま全速力で走り出した。

「追え!」

「絶対逃すな」

 振り返ると男たちが追いかけてくるのが見えた。

 エマはパトリシアへ顔を向けて声を張り上げた。

「走ってください!」


 エマは屋台街を通り抜けるようにして走った。途中追いかける男たちが、立ち並ぶ屋台や歩く人たちにぶつかっているのか、物が倒れる音や、怒鳴るような声が聞こえた。

 二人が走り抜けた後の場所がどんどん大騒ぎになっていく。


 あたりを見回して、馬車が走っていたら捕まえようとしたけれど、こんな時に限って見つからない。エマたちの乗ってきた馬車が待つ場所まではもう少しかかるけれど、それまで走って逃げられるかわからない。

 

 息が切れて呼吸が苦しくなって……だけど握っているパトリシアの腕だけは離してはいけないと必死で力をこめた。


「エマ!もうだめ!」

 後ろからの声にあわてて立ち止まる。

 振り返ったパトリシアは苦しそうに顔を歪めていた。とっさに小さな角を曲がった路地裏に身を隠す。


 身を潜めてエマたちの隠れている細い脇道から大通りを覗くと、大声を上げた男たちが駆け抜けていくのが見えた。それを息を止めて見送って、通り過ぎてしばらくしてから、二人で顔を見合わせると大きく息を吐いた。


「苦しい」

 パトリシアがそう、つぶやいた。

 顔を真っ赤にして、大きな息を繰り返した。

 肩で大きな息をしていて、苦しそうに咳き込んだ。エマはあわててその背中をさする。

「だ…大丈夫ですか?」

「あ、あなただって……そんなに息を切らせてるくせに」

 路地裏から屋台のある通りを振り返ると、まだ男たちが二人を探して道をうろうろしているのが見えた。

 諦めが悪い。エマはため息をついた。



「馬車までもう少しあるので、頑張れますか?」

「頑張るしかないでしょう?」

 エマの声にパトリシアは苦い顔で、でも即答した。だからエマはパトリシアの手を引いて、走り出そうとした。


 でも、次の瞬間、エマのはいていた靴が道路に引っかかって、エマは派手に転んでしまった。体を手足を思い切り道路に叩きつけて、体に鈍い痛みが走った。


「きゃああ」


 思い切り道路に体をぶつけたエマを、パトリシアが抱き起こした。

「大丈夫?」

「大丈夫です……いった」

 だけど立ちあがろうとしたら、足に鋭い痛みが走った。


 見れば右足の靴のヒールが折れて、道路の隙間にはまり込んでいる。急いで靴を脱いだけれど、もう靴は壊れて使えない。急いで立ち上がるけれど、右足に鋭い痛みが走った。

 足首が腫れていて、痛みが強い。


 小走りくらいはできるけれど、さっきまでのように全力で走ることはできない。


 エマは唇を噛み締めた。

 足を庇いながら路地裏の道の奥へ進む。この奥を抜ければ、ちょうど屋台通りの反対側の道路に出る。そこまでいけばきっとあの男たちから逃げ切れるはずだ。

 額に浮かぶ汗を手で拭って、パトリシアと二人肩を寄せて歩き出した。


 その時背後で物音がした。

 立ち止まって振り返ると、そこにネズミがいた。


 エマはネズミを見たことがある。決して驚くことはない。

 だけど、パトリシアは初めて見たネズミに驚いて、息をのんで……



 そして、大声を上げた。



 その大声はあたりに響き渡って……、

 結果としてエマとパトリシアがいる場所を、男達に教えてしまうことになった。


「あっちだ!」

「いたぞ!」

 その声をキッカケに、男たちが二人に気がついて路地裏へ入ってくるのが見えた。エマがパトリシアの手を引いて走る。走っているうちに足が痛んできて、走るペースが遅くなった。


 路地裏を抜けて、反対側の通りに出たところで、エマはパトリシアに向き直った。


「王女、ここから先は一人でお願いします」

「え?」

 エマは自分の足を見下ろした。すでに靴を履いていない足は傷だらけで、右足は腫れていた。

 感覚がなくなっていて、これ以上は走れない。


「私がいては逃げきれません。王女はここから一人でお願いします」

 エマは通りの左側を指で指した。

「ここをまっすぐいくと馬車の停留所があります。誰でも乗れる馬車が止まっているので、そこから馬車に乗って王宮か……」

 そこで考え直してエマは言い直す。


 傷だらけの王女を一人で王宮まで帰すのは危険だ。

 まずはどこかで保護してもらった方がいい。

 少し考えて、エマは続けた。

「ここから馬車で10分ほど走れば魔法学校があります。そこにララという教員がいるので、彼女と一緒に王宮に戻ってください」

「ララって?誰?いきなり行っても、おかしな人だと思われるわよ」

 動揺するパトリシアにエマは笑いかける。

 髪に刺してあるかんざしを引き抜くとそれをパトリシアに渡した。

「これを見せて私の名前を言えば大丈夫です」


 パトリシアはパニックになったように首を振った。

「そんなことを言って、あなたはどうするのよ」

「……私はできる限りのことをします」

「その足で?」

 エマがその返事に困っていると、パトリシアは泣きそうな顔になった。



「やめてよ!あなたを一人置いていったら……私、ルークに何をされるかわかった物じゃないわ」


 どんな言われ方だと思って、こんな時なのにエマは笑ってしまった。

 どうして今、ルークが関係あるのだ。


「ルーク、関係ないですよね」

「大ありよ。あなたこそ、今更なにを言っているの。正気なの?」

 パトリシアは本気で顔を青くしていた。


「あなたに何かあったら、私、ルークに殺されるわよ!」


 大袈裟だな、と笑ってしまう。

 だけど、パトリシアは本気だった。その目が泣きそうに歪んでエマを見ている。

 いや、はっきりとは見えないけれど、いま王女は泣いているのかもしれない。



 エマは路地から通りに出ると、足を踏み出して歩き出そうとして……だけど、一度休んだせいで痛みの増した足は簡単には動かなくて、エマは足を止めて唇を噛み締める。


 すぐにパトリシアが戻ってきて、エマの肩を支えた。

「こうなったのは私のせいだから、あなたのそばを離れるわけにはいかないわ」

 その怒った顔を見て、エマも苦笑いした。パトリシアは気まずそうな顔をする。

「あなたに何かあったら、……本当にまずいのよ」



 二人で並んで肩を寄せ合った。

 実は本当は、もう二人とも逃げる元気は残っていなかったのだ。



 パトリシアは気まずそうな顔で呟く。

「私、王宮に戻ったら、しばらく大人しくするわ。絶対にお忍びはしない」

 その言葉にエマは大きく頷いた。


 しばらくわがままは封印だ。

「そうしてください」

「エマは?王宮に戻ったらどうする?」

 私はどうするだろうか、とエマはぼんやり考えた。



 その時、エマの頭の中に、またしても浮かんできた顔があった。


 こんな人生最大のピンチの時に、浮かんできたのは……


 その人に会いたいってことだった。



 まだとても小さい子供の頃から、とても嬉しい時や悲しい時や辛い時にエマの頭の中に浮かぶ顔は、いつも家族の顔で決まっていた。

 だけどいまエマの頭に浮かんだ顔は、家族でもない、友人とも言い難い人の顔だった。


 どちらかといえば、こんな時に思い出すのがふさわしくない人の顔。



 その人と笑顔で話した事は驚くほど少ないはずなのに

 いつも喧嘩ばかりだったはずなのに


 今、エマの頭に浮かぶのはその人の笑顔ばっかりだった。





 エマの耳に聞こえる男たちの声が少しずつ大きくなってきた。

 もう、あと少しで彼らに捕まってしまう。

 パトリシア王女と顔を見合わせて、エマは大きく息を吸った。







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