第8話 だれもいないところがいい

 夕姫ゆうきは、ショッピングモールの中のトイレの手洗い場で、自分のハンカチを濡らしていた。トイレのすぐ近くのベンチでは、奏雅そうがが横になっている。奏雅の顔は殴られた跡だらけだった。

 夕姫はハンカチを濡らしながら、やるせない気持ちに襲われた。


(まただ……。また私と一緒にいるから、あの人が……。こんな、つらいこと、ばっかりで……。……、でも、私にはなにも、できなくて……。)


 本来、一対五の状況であったとしても、奏雅は一方的に負けるような男ではなかった。しかし今回は、奏雅は夕姫のことを気にかけながら、不良たちに立ち向かわなければならなかった。それではさすがの奏雅も防戦一方だった。不良たちは、奏雅が倒れて動けなくなると、満足したように街中へ消えていった。

 夕姫は少し離れたところからその状況を見ていることしかできなかった。


(…………。)


 夕姫は一瞬考え込んでしまったが、奏雅の様子が気になり、急いでベンチのところに戻った。さっきまで横になっていたはずの奏雅は、上体を起こして座っていた。夕姫は奏雅の隣に座り、問いかけた。


「起きて、大丈夫……?」


 奏雅は無言で頷いて、大きくひとつ息を吐いた。夕姫には、奏雅の表情の意味が読み取れなかった。悔しいような、安心したような、そんな表情に見えた。夕姫は、一瞬忘れかけていたハンカチのことを思い出して、奏雅の顔の一番ひどく殴られたように見えるところに軽く押し当てた。そのまま軽く顔を拭っているうちに、夕姫の目にまた涙が浮かんできた。奏雅の痛々しい顔を拭くたびに、自分の心も痛むように感じた。


「ごめん……、なさい……」


 夕姫は小さくそう言った。奏雅はなにも答えなかった。顔を拭かれながら、じっと目をつぶっていた。夕姫は奏雅の顔をある程度拭き終わると、いつも持ち歩いている絆創膏を自分の鞄から取り出そうとした。そのとき、奏雅がおもむろに口を開いた。


「どこ行こうか」


 それは、ついさっきの出来事などまるでなかったかのような穏やかな物言いだった。安藤は悪くない、大丈夫。全然言葉は違うのに、奏雅がそう言っているように夕姫は感じた。あのとき体の中に感じた熱い夕陽と同じ感覚が、夕姫によみがえった。


(この気持ちは……、なんなんだろう。なんか……、ほっとする……。)


「…………で?」


 少しのあいだぼーっとしていた夕姫に、奏雅が問いかけた。我に返った夕姫は、なにを答えていいかわからず口ごもったが、そのとき、持っていたハンカチに少し血がついているのに気がついた。その瞬間、さっきの不良たちの顔と、前に自分を殴ったクラスの連中の顔が思い浮かんだ。


「……だれもいないところがいい」


 夕姫は、少し悲しげな顔をしながらそう言った。奏雅は、その表情を見ながら少し考えたようだった。そして、


「じゃあ、海に行こう。二時間ぐらいかかるけど」


 少しわざとらしいぐらいの明るい声でそう言った。夕姫は、また少しほっとして、頷いた。


    *  *  *


 電車を乗り継いで海に着いたころには、夕方に近くなっていた。もう秋だからだろうか、それとも曇っているからだろうか。砂浜には、本当にだれもいなかった。


「……寒いな」


 奏雅がそうつぶやいてパーカーのフードをかぶった。夕姫も、海から吹いてくる風に少し肌寒さを感じて、カーディガンの前ボタンを留めた。我慢できないほどの寒さではなかった。

 二人は少し海沿いを歩いたあと、砂浜の適当なところに座った。夕姫は新しい服で直接地面に座ることに少し抵抗があったけれど、奏雅がなにも気にしていないのを見て、自分も同じように座った。


(…………。)


 そのまま二人でしばらく海を眺めた。雲の切れ間から、少しだけ夕陽が顔をのぞかせていた。二人のあいだに会話はなかった。夕姫の耳には、波の音だけが聞こえていた。


 夕姫は、いま奏雅も同じ音を聞いているんだ、と思った。ほかにだれもいないところで、同じ場所で、同じものを感じている……。夕姫はふと、もっと奏雅に近づきたい、と思った。奏雅に、いま触れたい、と思った。急に居ても立ってもいられなくなった夕姫は、横目で奏雅のほうを見た。


 奏雅は海の向こうの夕陽を見ていた。その横顔に、夕姫の目は奪われてしまった。あの夕陽と同じ温かさを、奏雅にも感じた。とたんに波の音が消えてしまったようだった。


(…………!)


 そのとき、フードからのぞいていたピアスが、夕陽の光を反射して少し光った。夕姫の目は、今度はそのピアスに釘付けになった。思考もできないまま、ずっと見つめ続けていた。


(かっこいいな……。)



 曇り空の向こうで、夕陽が紅く染まっていた。


(つづく)

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