第十八話 台風接近中
【7月22日(水):現実世界】
今日もあまりご飯を食べるような気分になれなくて、お母さんが用意してくれた朝ご飯もおかずのほうれん草の煮浸しだけつまんで、水を飲んで食事を終える。お母さんが心配そうな顔で私を見つめるけど、私はちょっとダイエット中でとごまかす。実際、体重はここ一ヶ月で5キロほど減っていた。「いってきます」と挨拶をして、重たい頭を抱えて家を出る。せっかく梅雨は明けたのに、台風が接近していて、朝から雨が降っている。今は九州に上陸していて、午後5時にはここらへんを襲う見通しだ。傘に当たって反響する雨音のリズムに乗って早足で駅へと向かう。
傘を閉じて改札を抜け、駅のホームに着くと、電車を待っている葉月の姿が目に入った。
「おはよう、葉月」
私から声をかける。
「あ、有朱! おはよ! 今日台風来るね。午後休みとかになったりしないかなぁ」
「期待しないほうがいいよ。ほとんどの場合台風は裏切ってくるから」
「あはは、たしかに。なんでだろ」
「ところで葉月は昨日は一本後の電車だった? この時間にいなかったよね」
「え? さみしかったの?」
「別に…」
「それはねぇ、有朱色々ありそうだったし、ギリギリの電車で来るという読みで私も一本遅い電車で行ったんだけど、外れてねぇ」
「ふぅん」
「ふぅんって… 有朱のせいで早蕨駅から学校まで走らなくちゃいけなかったんだから、その埋め合わせをだね」
「じゃあさ、昨日楓と帰りの電車で話してたんだけど、夏休みに三人でどこか行こうよ」
「え? 有朱と楓が? いいね! どこにする?」
葉月は一瞬驚いたような顔をしたあと、よっぽどその誘いが嬉しかったのか、今にも飛び跳ねそうなくらい喜色満面で返事をする。その問いに答える前に、黄色い線の内側に下がってくださいというアナウンスとともに電車がやってきて、私たちは電車に乗り込む。今日は台風だからか少し電車内は空いていて、二人揃って座ることができた。私たちはさっきまでしていた話を再開して、夏休みに行きたい場所を言い合う。楽しくてついつい声が大きくなっていることに気づかなかった。
電車を降りて学校までの道のりは、傘に打ち付ける雨音がうるさくて会話ができないのが恨めしかった。
葉月と別れて自分の教室に入って、席につく。さっきまでの楽しい気持ちが急激にしぼんで、頭痛がガンガンと主張する。低気圧のせいか、いつもよりひどい。休めばよかったと思ったのは先週くらいから毎日のことだけど、今日だけは学校に行かなければならないという義務感のみから来たわけではなかった。葉月と、少なくとも前みたいに自然に話せたわけで、それだけでも来た甲斐がある。
チャイムが鳴って始まった数学の授業はやっぱり退屈で、気を抜くと虚無感に襲われそうになってしまう。私は必死に授業についていこうと目を皿のようにして教科書を見つめるけど、字が滑って内容が一切頭の中に入ってこない。昨日の授業の内容がまるで白昼夢を見ていたみたいにはっきりとしない。ただ、帰りの電車で楓と話したこと、それから葉月がうちに来てくれたことだけがはっきりと現実味を帯びて私の心を満たしていた。まあ、まだ一年生の一学期だし、授業の遅れはこれからどれだけでも取り返せるだろう。最近上の空なのに加えて昨日一昨日と醜態を晒してしまったので、先生は昨日の午後から私を避けるように指名しなくなった。私は授業についていくことをあきらめて窓の外を見る。
見慣れた校庭には、今日は鹿、それもヘラジカが数頭群れをなして散歩している。でも、今更鹿くらいでは驚かない。なにせ、昨晩はドラゴンを倒したのだ。あれくらい、赤子の手をひねるように倒せる。私は小さく「ライトニング」と呟いたけど、魔法陣は展開せず、雲はどんよりとした姿のまま東へゆっくりと移動しているだけだった。そういえば、今はスイカがいないから、魔法が使えないんだ。私はそう納得して、また黒板に向き直る。ああ、頭が痛い。
昼休みになって、四日ぶりに、葉月と一緒にご飯を食べるべく空き教室へと移動する。途中、一年四組の前の廊下を歩いている最中に、廊下に面した窓が突然開いて、ニュッと楓が顔を突き出す。
「あれ、今日雨じゃん」
「空き教室で食べようと思うんだけど、来る?」
私は楓を自然に誘うことができた。
「えぇー、雨の日はてっきりお休みだと思ってたのに、なんだよ水臭いなぁ」
「いやぁ、言い出すタイミングがね」
「ちょっと待ってて」
楓はそう言い残して、窓を閉めた。教室の中から窓越しに楓とそのクラスメイトの声が聞こえる。何を言っているかはっきりとは聞こえなかったけど、最後に楓が陽気に「行ってきまーす」と言うのだけ聞こえた。楓を攫っていくことに対して、クラスメイトの人に申し訳ないと思う気持ちがありつつ、ほんの少しだけ優越感のような感情が芽生える。私は喜々として楓を先導し、空き教室へと向かう。
「それにしてもさ、楓ってクラスの人と仲良かったんだね。てっきり怖がられてるんじゃないかと思ってたよ」
「最初はそうだったんだけどね。髪色がこんなだし」
そう言って楓は金髪の毛先をいじくる。
「でも体育のバレーボールでさ、結構ハイタッチとかしてたら自然とね。有朱も見てた感じ、そうじゃない?」
「そうかなぁ。私はもっと清楚だし…」
「清楚ねぇ… つまり、私が下品だって?」
そう言って楓は私をギロリと睨む。威圧感がすごいけど、それが冗談だということはもう分かっている。それならば私もと応戦するように、
「んん、下品じゃなくて、お転婆かなぁ」
至って真面目な口調で、そう返事をした。
そうして到着した空き教室の扉を開けると、既に葉月がいた。私の後ろに楓がいることに気づいて、大げさに喜ぶ。私だけでは不満だったのかと少しだけ嫉妬心が疼くけど、顔には出さない。葉月のことだから、きっと今朝話していた夏休みの計画の続きを喋りたかったとかそんなことだろう。
案の定そうだったようで、私たちはその話で盛り上がった。私は久しぶりのお弁当を会話のリズムに乗せてパクパクと食べ進む。お母さんが作った卵焼きも、昨日の夜ご飯の肉じゃがも、冷凍食品のコロッケも全てたいらげる。ただ、昨日や一昨日と比べてもやもやは晴れて気分はよくなったのだけど、体調は相変わらずということをすっかり忘れていた。しばらくほとんど食べ物を受け付けていなかった私の胃腸は突然のお弁当にびっくりして、痛みという形で異常を知らせる。
「やばい。めっちゃお腹痛くなってきた」
私は机に突っ伏して呻く。二人は心配して、「大丈夫?保健室行く?」と口々に言う。私は行くとだけ答えると、楓が座っている私の背中と足に腕を通して、ぐいっと持ち上げる。まさか178センチ六十キロ台の私が、同年代の、それも女子にお姫様抱っこをされるとは思っていなかったけど、そこに突っ込む気力がなくて為すがままに運ばれていく。葉月はみんなのお弁当を片付けて後から来るようだ。夏祭りのときに楓が私を持ち上げるところは見ていただろう。あまり驚いた様子はなかった。
多くの生徒の注目を集めながら保健室にたどり着いて、ベッドに寝かされる。養護の先生はまた? と言っていたけど、今日は葉月と楓がついているから、さぼっているんじゃないかと怪しまれることはなかった。
布団をかぶって寝込むのも今日で三回目で、慣れたものだ。楓は五時限目に提出しないといけない課題がまだ終わっていないらしく、すぐに教室に戻ったので、カーテンで仕切られた空間には、ベッドに横たわる私とすぐ横の丸椅子に座る葉月の二人だけになる。私が昨日の夜のことを思い出して恥ずかしくなって押し黙っていると、葉月が口を開いた。
「あのさ、最近体調崩すこと多いけど、何かあったの? ほら、目の下のクマもここ一ヶ月くらいのことだよね」
「いや、ちょっと眠れないことが多くて。でも大丈夫だから、心配しないで」
「いくら有朱の頼みでも、それは無理な話だね。こちとら一年前からずっと心配してるんだから」
「そうだったね。私を心配することにかけては、葉月の右に出る人はいないよ」
「だから安心して心配かけてね」
そう言って葉月は小さい胸をどんと叩く。葉月なら、私が急に電波なことを言い出しても引かないだろうか。葉月なら、希子に立ち向かう勇気を私にくれるだろうか。
「で、眠れないって? 力になれればいいんだけど…」
葉月に引かれる覚悟で希子のことを相談すると決意を固めて、小声で話し出す。
「あの… 夢の話なんだけど」
「うんうん」
「最近希子と出会ったんだよね」
「はぁ。良かったね? で正しいのかな」
葉月が少し引いたような気がする。やっぱり、異世界に転移したということは伏せて話そう。
「まあ、結構前に話した明晰夢の中でなんだけど。それでその中で希子が私に私のことをずっと大嫌いだったって…」
私はそこであのときのことを思い出して涙が出そうになって、言葉の語尾が立ち消える。葉月は神妙な顔になって、
「それは… 私の夏祭りでの発言がトラウマになって夢に出てきたみたいな…」
「違う違う! それとは絶対に関係ないんだけど、すごいリアルな夢で…」
「じゃあ良かった。有朱の中に希子への罪悪感があって、その結果夢に出てきたんだとしたら、全然気にしなくていいよ」
軽々しく言うので私は少しむっとして、早くも相談したことを後悔する。私は真剣なのに。
「どうしてそんなことが言えるの? 昔、希子に実際に言われた、私自身忘れた記憶がフラッシュバックしてるかもしれないのに」
「もし、そうだったとしても、それは希子の嘘だよ。だってさ、私は中一のとき希子と同じクラスだったんだけど」
「え? そうだっけ」
私はその事実を知らなかった。葉月のことだから、私よりも希子と仲良くなっていたに違いない。
「それで希子と喋る機会も結構あって、必然的に共通点の有朱のことが話題に上がることが多かったんだけど。希子はずっと、有朱はすごいから早く追いつきたいってずっと言ってたから。そうでないと有朱の隣にいる資格がないって。それで、私は何もしてないのに誇らしげになったりしてね。もっとも、二年生に上がってからのことは知らないけど、少なくともずっと嫌いだったというのはありえない」
「そう… だったんだ」
希子のことを色眼鏡で見ていたのは私の方だったのかもしれない。そうだ。ダブルスを組もうと提案してきたのは、希子の方からだった。私の知っている希子は、真面目でストイックで、一方で周りの事はしっかりと見ていて、決してドラゴンを操って街を壊滅させるような人物ではなかった。
「有朱はさ、優しいから、色々と忘れられなくてそんな夢を見ちゃうと思うんだけど、全然誰も有朱を責めてなんかいないよ」
「私は優しくなんか…」
「私は、こんな性格だから、八方美人とか媚を売ってるとか陰で言われることもあって、たまに偶然耳に入ったりするんだけど、言わせておけばいいやって思ってて。でも有朱は優しいから色々抱えこんじゃうし、私もその優しさにつけこんでややしょうもない話もするし、希子も、きっと有朱が優しいということを分かってると思う。有朱はさ、希子の憧れだったんだから、もっと自信を持ってよ」
「でも、仮に私が葉月の言うような人間だったとしても、結果として希子は自殺しちゃったから…」
「それは有朱のせいじゃない」
「それでも、今でも私が葉月みたいだったらって思う。私は変わらなきゃいけないんだ」
私は希子を責めるつもりも、許しを請うつもりもなかった。ただ、私は昔のように、一緒にお買い物に行きたいと思った。エルタ村の、妖精店なんかいいと思う。今度こそ、希子に楽しいと思わせてみせるから。
「だから、行ってくるよ」
「え? どこに?」
葉月は不思議そうな顔をする。
「オリミーティリに、希子に会いに」
昨晩は初めて眠る以外の方法で転移をした。今なら日中でもオリミーティリに行ける気がする。私は頭の中を空っぽにして、全身の筋肉を弛緩させる。
はぁ? という葉月の疑問符が遠くに聞こえた。戻ってきたら、説明しないと。
【7月22日(水):オリミーティリ】
目を開けると目の前には希子がいて、私の右腕をダリンが掴んでいる。希子の後ろには動かないドラゴンが横たわっていた。周りを見回すと背の高い木が少なくなっていて、どうやら随分と高い場所に移動してきたようだ。岩肌が見える山の斜面の向こうには噴煙が立ち上っている。火山があるのだろうか。
「結構遠かったな。まあ、火山の中にテレポートしちゃっても大変だし、仕方がないか。それにしてもその男、エーテルを全部吸い取っても動けるなんてね。初めて見たよ」
「ダリン… この人はエーテルを全く貯めない体質らしいよ」
「へぇ。詳しく調べてみたいなぁ」
希子はダリンを興味深そうに見つめる。ダリンはまだ状況が飲み込めないようだが、今にも飛び掛かりそうな目つきで希子を睨んでいる。
「…お前は」
「めんどうだなぁ」
希子はそう言うと、何らかの魔法を発動した。木の根っこのような硬そうな蔓が地面から伸びて、ダリンの下半身をがっちりとホールドする。
「解けよ!」とダリンが叫ぶけど、希子は聞く耳を持たない。
「私はちょっとこのドラゴンを捨ててくるから、待ってて」
そう言うと希子はドラゴンとともにテレポートをした。そのために、火山のあるここまでやってきたのだろう。取り残された私たちはその場に立ち尽くす。希子がいなければサールロイまで帰ることすら叶わない。この状況で私がまずやるべきことは、ダリンを宥めることに違いない。
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