第十六話 意味がないなんて
【7月21日(火):現実世界】
人は一人では生きていけないと言うけれど、結局の所、それは誰かから必要とされていなければ生きていくことができないということだと思う。今まではそのことを理解していなくて、学生のうちは養ってもらっている身だから一人で生きていくことはできなくても、成人して自立すれば自分のこの二本の足だけでどこまでも歩いていけるような気がしていた。でも今ならはっきりと断言できる。私は一人では生きていけない。そんなに強い人間じゃない。だって、友人一人に拒絶されただけでこんなにも猛吹雪のように荒れ狂って、一歩も前に進めなくなってしまうのだから。
私は誰かに慰めてほしくなって、葉月と一緒の電車に乗るためにいつもと同じ時間に家をでる。葉月がダリンのように「辛かったね」と優しく慰めてくれる、そんな都合のいい妄想をする。夏祭りの夜、公衆トイレの中で聞いた言葉を忘れたわけじゃない。葉月が私のことを可哀想だと思っているのも分かっている。でも、葉月は優しいから、きっと私が望む言葉をかけてくれる。私は荒んだ心を奮い立たせ、、ぬくもりを求めて駅へと向かう。
しかし、駅のホームには葉月はいなかった。私はこそこそとネズミのようにホームの端から端まで見て回るけど、やっぱりいない。偶然別の時間にしたのだろうか。それとも、私に会いたくないから? 荒んだ私の心は多分後者だろうと告げる。だって昨日、私の方から拒絶したのだから、さすがの葉月でも気まずいと思ったのだろう。今日はもう、葉月に会えない気がする。昨日酷いことを言ったことを謝れないまま、決定的に関係が終わってしまう、そんな予感がする。本当に誰も私のことを必要としていないような気がして心細くなる。7月のホームは汗が吹き出るほど暑いのに、私の心は冷え切っていた。
昨日のようにおなかが痛いわけではないけど、体調の悪さは相変わらずで、駅から学校まで歩くだけでも結構な気力を消耗する。旗から見たらゾンビのように見えるかもしれない。このまま引き返して家に帰ってしまえば楽だろうけど、熱もないし、私は自分の体調ののしんどさに自身が持てなくて、それができない。今日は体育の授業があるけど、参加できないかもしれない。別に楽しみにしてるわけじゃないし、どちらかというとプレッシャーだからいいんだけど。
私はゾンビのような足取りのまま教室にたどり着いて自分の席に座ろうとすると、そこには沖春香が座っていた。私が来たことに気づいて舌打ちをする。最近、ますます私に対する沖の当たりが強くなっている。入学したときはどうだっただろうか。どこかで選択肢を間違えて、そこから仲が悪くなったわけではないような気がする。私の態度が気に入らなかったのか知らないけど、気づいたときにはもう手遅れだった。そう、希子のときと同じように。
沖は私の席を離れていったけど、私はその席にすぐに座る気になれなかった。今までなら何も考えずに座っていたんだろうけど、そんな私の気にしていないような態度が沖を苛つかせていたのだとしたら、避けたほうがいい気もする。私は沖と希子が重なって見えて、どう思われてもいいと切り捨てることはできなかった。
私は昨日と同じように、トイレに逃げ込もうと教室を出る。途中の廊下で、体育で同じチームの女子二人とすれ違う。二人ともクラスでは沖ほどは目立たないグループに属していて、大体二、三人で喋っている。それ以上の情報を私は知らない。それでもバレーの授業で少しだけ仲良くなって、たまに会話をするようになった。
「今日バレーの授業だね。長野さん強いから、今日も期待してるよ」
「そうそう。いっつもバシって鋭い角度でスパイク決めてね。すごいよね」
「あはは…」
私は曖昧な笑顔でごまかす。今日は体育は休もうと思っていたけど、私は期待されているのか。これは、私は必要とされているということ? バレーボール選手として生きている自分を想像して、私はその未来を即座に否定する。多分、そういうことじゃない。彼女たちはきっと体育の勝敗なんてどうでもいいと考えている。
「それにしてもさ、沖さん、なんかちょっと感じ悪いよね。長野さんに対して横柄というか、一方的にライバル視してるというか」
「長野さん全然気にしてなくて、飄々としてて格好いいよね。ああ、そういえば、沖さんって、バレー部でボール拾いばっかりやらされてるって噂、聞いたことがあるわ。長野さん上手いから、嫉妬してるんじゃない?」
「長野さんも、いい迷惑だよね」
二人は私を神輿の上に担ぎ上げて、勝手にヒートアップする。私は当事者にも関わらず同意する気になれなくて、曖昧に頷いて、ちょっと体調悪くてとトイレを指差す。そこで二人はようやく私の顔を見て、よっぽど悲惨な顔をしていたのだろうか、私の体調を慮るような言葉をかけて、バツが悪そうに教室へと戻っていく。
私はクラスの様子に全然気を遣ってなかったので知らなかったけど、沖春香はどうやらあまり好かれていないようだった。でもそれはきっと私のせいだ。私がいたから、私が沖の事情を顧みずに無神経にバレーなんかしたから、沖は私にイライラして、クラス内での沖の評判が下がったのだ。
有朱のことが大嫌いだという希子の叫びが頭の中をリフレインする。トイレの個室でガンガンと痛む頭を抱えてうずくまる。自分自身を責めるのをやめられない。この胸の痛みが、私が居ない方がいいという考えが真実であると告げている。
私はこれからもずっと体育を休むことを決意した。私はただ路傍の石ころのように何もしない。それが沖にとって、あるいは世界にとって最もいい選択に違いない。
私は三時限目までの授業を真面目に受ける。しっかりと黒板を見据えて脇目も振らず、一方で全く手を挙げずに当てられたらわかりませんと答える。私の存在によって他の生徒が学ぶ機会を奪い取ってはいけない。それに頭痛のせいでろくに考えられないし。先生の怪訝な表情をみて、こんなことをして意味があるのか疑問が湧いてくるけど、私はそれを頭の隅に追いやる。
決意した通りに、四時限目の体育は休んで保健室に行く。あの二人には体調の悪いところを見せておいたから大丈夫だろう。体操服に着替えて体育館の隅で膝を抱えていることもできたけど、沖の邪魔になっては申し訳ない。保健室のドアを開けると養護の先生がまた? というような顔をしつつも休ませてくれる。二時間だけですからと心のなかで言い訳をして、横になった。
そのまま、何も考えずに時間だけが過ぎて、昼休みの終わり際になって私は教室に戻る。五、六時限目も同じように、石ころのように授業を受ける。こんなことに意味はあるのかという思いは段々と強くなっていく。
そんな思いを抱えたまま、いつの間にか授業は終わって家路につく。学校から駅まで、いつもは活気のある大通りの側道を歩くけど、今日は閑古鳥が鳴くような寂れた商店街の方を通って帰る。誰も客がいない本屋のレジで眼鏡をかけたおばさんが暇そうにしている。こっちの床屋では、辞め時を失った老夫婦が惰性で店を開いている。そんな無意味な風景の中をトボトボと歩く。今の私の姿は傍から見たら背景にさぞ馴染んでいることだろう。やがて閑散とした雰囲気も終わり、手入れの行き届いている駅に到着する。自動改札に定期券をタッチして駅構内へ入る。階段を下りて駅のホームで電車を待つ。私がここに存在することが場違いな気分になって、落ち着かない。早く家に帰りたい。夢の中だけが唯一の、私の存在が許される場所なんだ。
電車を待つ間、不意に前を見ると、ダリンが、サンナが、トシュデンが線路上に見えた。キャンプファイヤーを囲んで楽しそうにしている。椅子代わりの大きな石が4つ用意されていて、一つは空いている。あそこが私の座るべき場所だ。でも電車が来てしまう。電車に轢かれたら、ダイヤが乱れに乱れて世間にものすごい迷惑がかかってしまう。
「そこにいたあら危ないんじゃない?」
私が声をかけると、ダリンは私に気づいて、
「心配いらないさ。トシュデンがいるからね。アリスもこっちに来たらどうだい?」
さすがのトシュデンでも電車と相撲をとって勝てるかは分からない。でも、昨日考えていたことを思い出す。夢の中で死んだらどうなるのか? ということだ。私一人では怖くて勇気が出なかったけど、今この場所で試してみるのも悪くないかもしれない。きっと大丈夫だ。私はふらふらとホームの端へ近づく。恐怖心はなかった。だってみんながいるから。席を空けて、待っていてくれるから。
その時だった。何者かに右手首を掴まれ、みんなの方に行くのを邪魔される。すごい力でぐいっと引っ張られて、黄色い点字ブロックの内側へと引き戻される。
「貨物列車が来てるよ」
ハスキーな、聞き覚えのある声だった。振り返ると楓がいた。背後で轟々と音がして、貨物列車が流れていく。長い長い貨車が通り過ぎている間、私と楓は向き合ったまま、喋らない。私はダリンたち三人が心配で、気が気ではなかった。
貨物列車が過ぎ去った後、私は急いで線路の上を見る。三人は跡形もなく消えていて残骸もなく、普通の見慣れた線路がどこまでも続いている。
「何か落とした? 緊急ボタン押そうか?」
勘違いした楓が聞いてくる。私は我に返って、
「ああ、そうかもと思ったけど、勘違いだったみたい」
「それなら良かった。最近有朱調子悪そうだったしお昼も葉月と食べてないみたいで心配しててさ。今ももしかしたら飛び降りるんじゃないか… なんて思っちゃってね。結構手首強く握っちゃったけど、痛くなかった?」
「うん。大丈夫。心配掛けてごめんね」
「いいよいいよ。何か困ったことがあったら頼ってよ。友達なんだからさ」
そうか、私は楓と友達だったのか。
私は一人で悩んでいたこと、私の存在に意味なんてないような気がすることを所々ぼやかしながら訥々と語りだし、やがて堰が切れたように感情を吐露する。こんな面白くない話をしてごめんね、迷惑だよねと思いながらも私の心から溢れ出す感情は止まらない。自分でも何を主張したいのかわからない。支離滅裂な言葉の濁流に楓はただ黙ってうなずくだけだった。しばらくして電車が来て、私の話は中断される。その電車に乗り込んで、四人がけのシートの斜向かいに座った。
「なんかよくわからなかったけどさ、要するに、クラスに自分の居場所がないってこと? でもバレーのときは結構楽しそうにやってたじゃん」
「それは… そのときだけだから」
私の遠大な悩みも、一言にまとめられるとすごいバカバカしく思えて、少し冷静になることができた。
「大丈夫だって。ノリと勢いがあれば居場所なんて向こうから空けてくれるって。それよりさ、もうすぐ夏休みだから、三人で遊びに行こうよ」
楓は強くて自身があるから、私の悩みなんて楓にとっては些細なことなんだろう。私もその考えにちょっとだけ感化されて、多少は気分が楽になる。
降車駅に着くまで快速列車の待ち合わせの時間も含めて15分ちょっとの短い時間だったけど、楓といろいろなことを話した。楓の実家のボクシングジムのこと、中学でのボクシングの大会のこと、そして私のバド部でのこと。楓とこれだけ個人的なことを話したのは初めてだった。私の心は大分軽くなって、過去のことばっかりではなくてこれからのことを考える余裕が出てきた。
これから、私はどうなるのだろう。とりあえず、夏休みが始まるまでに葉月と仲直りをしないといけない。
家について、リビングのソファーでテレビを見たりしてだらだらと過ごしていると、インターホンが鳴った。玄関を開けたお母さんが「葉月ちゃんが来たわよ」と私を呼ぶ。なんの用だろう。気まずいしあまり出たくなかったけど、そのまま帰すわけにもいかないので、少し緊張しながら玄関へ行く。葉月は制服に通学用の鞄を肩から下げていて、学校帰りだという事が分かる。、
「葉月、どうしたの?」
「えーと、今日家庭科部で作ったクッキーが美味しくできたから、持ってきたの」
そう言って葉月が鞄から取り出したクッキーは、白色と焦げ茶色の至ってシンプルなクッキーで、葉月が作ったお菓子の中にはもっと凝ったケーキなんかもあったはずで、それだけのために来たとは思えなかった。
「ありがとう」
私は素直に受け取って、靴箱の上のスペースに置く。それでも、葉月は居心地が悪そうにしながらも帰らない。
「…他にも、用事あったりする?」
「うん… あの、昨日言えなかったことなんだけど…」
「保健室で? あの時はごめん。ちょっと体調が悪くて、葉月に当たっちゃって」
「ううん。私が悪かったから。それで、その続きなんだけど、私は…」
葉月は少し言いよどんで、それから意を決したように口を開く。
「私は、今も昔も、有朱のことが一番の親友だと思ってるから! それだけ! じゃあね!」
葉月はやけになったように言って、逃げるように玄関から出ていこうとする。
「待って!」
私は葉月が玄関を締め切る直前に呼び止める。少し扉の隙間が大きくなって、葉月が上半身だけ覗かせる。私は恥ずかしくて葉月と目を合わせずに、
「私も、そう思ってる」
「知ってる!」
葉月はとびきりの笑顔でそう言って、自分の家へと帰っていった。私は熱くなった顔を手で仰いで冷まして、リビングに戻る。
「あら、早かったわね。何の用だったの?」
「クッキー貰った」
「良かったわね」
私はお母さんにそれだけを伝えて、またテレビの前に戻るけど、その内容は一切頭に入ってこなかった。
【7月21日(火):オリミーティリ】
目が覚めると私はちゃんと自分に割り当てられたベッドの上で寝ていた。きっとダリンが運んでくれたのだろう。昨日とは違ってもうみんな起きていて、これから朝食をとるようだ。私もすぐに着替えて、一緒に一階へと向かう。
昨日は非常食のような朝食だったけど、今日の朝食は肉と野菜の具がごろごろと入ったスープとパンで、しっかり美味しい。これからドラゴンと戦う、その壮行にということかもしれない。冒険者ギルドとしては、私たちが今からドラゴンと戦うということをどう捉えているのだろうか。倒せればそれでいいのか、あるいは希子の存在を脅威とみなしているのか。気になるけど、今はドラゴンを倒すことに集中しないと。
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