第十話 何の用件?
【7月10日(金):現実世界】
いつもより一本早い電車で登校し、教室に入るとまだ始業まで30分ほどあったので、なんとなく物理の教科書を開いてパラパラとめくる。スイカが電気系統の魔法が使える理由が載ってはいないだろうか。
その答えは電気の章の最初の方の小さなコラムに載っていた。19世紀の科学者がカエルの肉を電池にして発電したことが書かれている。ああ、だからスイカは電気系の魔法が使えるのかと納得した。もっともオリミーティリの魔法は古代ギリシャの四大元素のように風火水土に大別されているし、現代の科学で正しいと思っていることが、そのまま当てはまるわけではないのだけど。
私が教科書に目を走らせていると、スッと教室の扉が開いた。教室の中に光が差し込んだような気がして、クラスの生徒たちが一斉に扉の方を振り返る。見ると永野有紗が私の方に向かって歩いてきていた。
あんな絶世の美少女に話しかけられるような心当たりがなかったので、少し身構える。永野有紗は私の机の前に立ち止まった。クラスの男子の羨望の眼差しが私に突き刺さる。
「あのぉ、長野さん、ですか?」
永野有紗が口を開き、鈴の音のような声がその口から溢れた。多くの男子生徒がそうなるように、私もどぎまぎしてしまったけどなんとか返事をする。
「あ、はい、私が長野です」
「私は…、そう、5組の永野有紗です。あなたとは漢字が異なるけど」
「あ、はい、存じてます」
お互いにややぎこちない挨拶がかわされる。永野有紗は何かを言いあぐねているようで、数秒の沈黙が流れる。こういうとき相手が葉月だったら気まずくならないんだろうなと思い、そういえば葉月といるときに葉月が黙っていたことなんてないなと回想する。教室は静寂に包まれていた。
何の用? と私が口を開きかけたとき、沈黙に耐えかねたようにスイカがぴょこんと私のポケットから飛び出し、普通の蛙ではありえないような跳躍力で永野有紗の肩に飛び乗った。
私はもう見慣れてしまったけど、スイカは見た目にも毒々しいヤドクガエルの妖精。例え非の打ち所のない絶世の美少女だったとしても顔を歪めるほかなかった。永野有紗は短い、そして可愛らしい悲鳴を上げ、肩に乗っかっているスイカを手で払った。教室内は、永野有紗の悲鳴を聞いてざわついた。私が彼女に対して粗相をしたのではないかと皆心配しているようだった。
「それで、謝りたいことがあるのだけど」
それでもすぐに冷静さを取り戻した彼女は一息ついてから、何事もなかったかのように永野有紗は喋り始める。
「私宛の手紙の幾つかがあなたの下駄箱に入ってしまっていなかったかしら」
「少しはそういうものもありましたけど、全部有紗さんの下駄箱に放り込んでいるので」
「ありがとうございます。ごめんなさいね。あまりよく確認していない方が多くて。私も少々困っているんですけどね」
「あ、いえ。お気になさらず」
ともすれば随分な自慢とも取れる台詞なのに、全然嫌味に感じないのは全て事実だからだろう。めちゃくちゃモテているのにそれを鼻にかけるようなこともなく、若干迷惑に思っているのに全ての手紙に返事を出す。そんな人物に頭を下げられては文句を挟む余地などないし、なんなら私のほうがわざわざ来ていただいて恐縮ですという気分になる。
しかし、用件はそれだけではなかったようだ。永野有紗はわざとらしく、思い出したように言った。
「そういえば、希子さんってご存知ないかしら。あなたの中学のバドミントン部で一緒だったと思うのだけど」
私はその言葉におぞましさを感じた。永野有紗の意図が読めなかった。さっきまで可愛らしく全てを許したくなるような声だと思っていたのが、急に恐ろしく震え上がらせるような声に変わったのは、単に私の感じ方の問題だ。多分、この質問にそんな深い意味はない。希子の自殺を止められなかった私を糾弾しようとしているのではない。そうであってほしかった。
「…うん」
絞り出すような声で答える。私の声色を聞いて、永野有紗は優しく微笑んだ。
「そんなに、重大な質問をしたつもりはなかったのだけど… 具体的なことは聞いていないのだけど、クラスの方が噂をしてらして気になったものですから」
そう言って永野有紗が教室の引き戸を静かに閉めて立ち去ったあと、教室はまたもとの騒がしさに戻った。一難去ってほっと胸をなでおろしたのもつかの間、クラスの沖春香のグループが私を取り囲んだ。
「長野さんってあの永野有紗さんの知り合いだった?」
前の席で固まっていた沖春香が後ろを振り向き、煽るような口調で喋りかけてきた。すぐ前に座っていたのだから、私達のぎこちいない会話も聞こえてただろうに。
「違うけど、名前が似てるから」
「だよねww」
その口調と表情から察するに、言外に「あんたみたいな根暗が」という意味が含まれているに違いない。
「それでさぁ、最後の方で希子について知らないかって言ってたよね。あたしもニュースで少し見たことあるんだけどさぁ、二中の方で自殺した生徒がいるって。それ、長野さん… あんたの知り合い?」
デリカシーがなさすぎるその発言に、私は愕然とした。もし私が親友だったよと答えたら、どう反応するつもりなのだろう。残念だったねとでも言うつもりなのだろうか。でも、希子のダブルスのペアだったのにも関わらず彼女を見殺しにしてしまった薄情な私には沖の発言を咎める資格はない。そして、そういう私の人間性を知っているからこそ沖や永野有紗はデリカシーのない発言をしてきたのだろう。
「あ〜 私も見たことあるわ」
沖の取り巻きが言った。
「近所の中学だったから覚えてるわ。学校の体育館で首吊ってたってやつでしょ」
「そうそうそれそれ。でも結局自殺の原因が分からんかったのよ。公式発表ではいじめだとかは無かったっていう結論になったんだけど。永野有紗が聞いたってことは、こいつが知ってるかもってことでしょ?」
「中学は間違いなく一緒だろ。それにしても、永野有紗でもそんな下世話な話に興味があんのね」
「ねぇ、意外」
沖達が内輪で喋っている間に私はこっそり席を立って、トイレに行こうとする。沖が「待ってよ」と私の手首を掴んできたけど、その手を無理やり振りほどいて、教室を出てトイレの個室へと逃げ込む。気分は最悪で、本当に少しお腹が痛く鳴ったような気がする。でもこの嫌な気持ちも、私の自業自得なんだ。
さすがにそれほど興味がなかったのだろう、沖はトイレの中まで追いかけてくることはなかった。チャイムが鳴って、ホームルームが始まるころに私は教室へ戻る。
「おー、長野か。もうホームルーム始まってるぞ」
担任が気怠げな声で注意する。私は頭を少し下げて、自分の席へと戻った。
その後特に沖に干渉されるようなことはなく、昼休みを迎えた。私は暗い気分のまま教室を出ていつもの中庭のベンチへと向かう。私が着いたときにはすでに葉月と楓がいた。
「来週の土曜日、暇じゃない?」
葉月が聞いてくる。なんだろう、だるいことだったら嫌だなとは思うものの、私は基本的に休日の予定はないし、それを葉月は知っている。
「何もないよ。葉月が何をいうかによっては、急に予定ができるかもしれないけど」
「ああ、よかった。楓と話していたんだけど、その日駅前の夏祭りに行かない? ほら、昔よく小学校の友達と行ったあの小規模な。たまには昔を思い出してさ」
「いいよ。行こう」
自分でも意外なほどすんなりと、承諾の返事が出た。たまには昔を思い出してという葉月の言葉に強いノスタルジックというか、そういう感情を抱いた。気分が落ち込んでいたことも関係するかもしれない。とにかく私は楽しみに感じた。
「梃子でも動かない有朱をどうやって連れて行こうか楓と画策していたんだけど、有朱がこういうことに前向きなの意外だね」
「そう? 小学校のころは結構色々なとこ行ったよね」
「そうだね。中学に入るとあんまり遊ばなくなっちゃったのはあれかな、どっかに移動するのに親に頼るのが恥ずかしくなっちゃったからかな」
葉月とは家族ぐるみの付き合いがあって、小学校のころはよく葉月の親のミニバンで、自然公園とか水族館とか、遊びに連れて行ってもらった。私は口を開いて同意する。
「そうかもね」
でも、実際にそれだけが遊ばなくなった理由じゃないことは分かっている。中学に入ってからバドミントン部の活動が増えたこと、そして部活を辞めてからは私が塞ぎ込んでしまったこと、それが主な原因だ。
「私だけ小学校違うからなぁ。幼馴染なのいいな」
楓がため息混じりに言った。
「で、集合場所とか時間は、後で連絡する感じでいいかな」
暗くなってきた雰囲気を察して、葉月が話題を変える。こういうところ、葉月のとても良いところだと思ってる。
「お祭りって5時からだったよね」
「そうだね。じゃあ、来週楽しみにしてるよ」
というわけで、来週近所の小さなお祭りに行くことが決まった。私の落ち込んでいた心はすっかり回復して、うきうきで午後の授業を受けた。
授業が終わって5時くらいに家に着く。玄関を開けると醤油とみりんのいい匂いがする。キッチンでは母が夜ご飯の準備をしていた。中学生の弟は部活動でまだ帰ってきていないらしい。
「来週駅前のお祭りにいく事になった」
私は母に報告する。
「へぇ、あんたが休日に出かけるなんて珍しいわね。誰に誘われたの?」
「葉月と、中学が同じで高校も同じだった楓っていう子と行くよ」
「あんたは不器用だから、高校でうまくやってるか心配だったけど良かったわ。葉月ちゃんに感謝しないとね。あ、お小遣いいるかしら?」
「いらないよ。小学生じゃないんだから」
私は母の棘のある言い回しに若干苛立って、お祭りにいくと報告したことを後悔しつつ二階の自分の部屋に入った。
【7月10日(金):オリミーティリ】
なにか温かいものに揺られている感覚で意識を取り戻す。目を開けると、ダリンの後頭部が目の前にあった。私はダリンに背負われながら、両腕でしっかりとダリンの体をホールドしていた。
私は昨日熊の魔獣と戦って気絶したことを思い出し、それからダリンに背負われてサールロイまで来たんだと理解して恥ずかしさがこみ上げてくる。
私が急に意識を取り戻したせいでダリンはバランスを崩し、よろけながらも私を地面に降ろした。
「目が覚めたみたいだな。ここからは自分の足で歩けよ」
ダリンが言った。
「…ありがと」
私はそう言って、立ち上がる。もう山間部は抜けて、目と鼻の先には冒険者の街、サールロイの立派な防壁が見える。太陽は東の山から少し上がっている。10時くらいだろうか。昨晩はあの焚き火を作った場所を野営地として休んだのだろう。
あの野営地からここまで何キロメートルあるか知らないが、私は私の体重は60キロと少しある。ダリンがいくら鍛えているとはいえ、重かったに違いない。私は恥ずかしくなったけどダリンが気にしていないようだったのでほっとする。いつもぶっきらぼうな物言いをするけど、やっぱり優しいのだ。
「そういえば、トシュデンさんは?」
トシュデンがいないことに気づいて、私は尋ねる。
「ああ、旦那なら君たちが倒した熊を担いでサールロイに先に向かってるってさ」
「え? あの魔獣、めちゃくちゃ大きかったですよね?」
「さすがに人間のままだったら持ち上げるだけで精一杯だったからね。獣化の魔法を使ったから、エーテルが切れる前にサールロイまで運ばなくちゃならないんだ」
それにしても、あの魔獣はトシュデンが熊に変身した状態と同じくらいの大きさがあったはずだ。大きなクマに大きな熊が乗っかってるところを想像して可笑しくなる。
しばらく歩いた後、サールロイの門扉に着いた。オプリ村から丸々一日と少しかかっての到着である。オプリ村は簡素な木の柵で囲われていただけだったが、サールロイの防壁は石を積み上げてできた無骨な灰色で、そしてさらに水で満たされた堀が周囲に備わっている。
私達は門番に各々のブローチを見せ、冒険者であることを示した。セーデルマン夫妻と門番は知り合いだったようで、親しげに世間話をしていた。
町中に入るとここが山の中だと忘れるほど栄えていた。端から端まで歩いて10分くらいかかりそうだ。私達三人は石畳の道を横一列に並んで歩いていた。
「意外とでかい街だろ? 西に行けば首都ルーマンに繋がっていて、エーテルをよく吸収した強い魔物ほど毛皮や肉が高く売れるからね。結構儲かってるのさ」
「俺も初めて来たが、面白い街だな。立ち並ぶ家が、思い思いの方向を向いて独特な形をしている」
「それは家の持ち主が魔獣を討伐して儲かるたびに増築をするからだな。冒険者による自治都市だけあって、色んなことが自由なんだ」
私は奇妙な町並みに目を取られ、キョロキョロしながら歩いた。ごちゃごちゃした建築物の中には人の営みの気配が感じられ、活気が伝わってくる。
「なんか、いいところですね。ここ」
私が呟くようにそういうと、サンナは「そうだろ?」と言ってニンマリと笑った。
私たちはその足で冒険者ギルドへと向かう。トシュデンが待っているはずだ。
冒険者ギルドは赤いレンガづくりで他の建物と比べてもひときわ大きい、中学の修学旅行で行った東京駅に少し似た雰囲気のある建物だった。標高が高く空気が澄んでおり、赤と青のコントラストが映える。冒険者ギルドが自治している街なのだから、ここが街の中枢であるに違いない。鉄製の大きな両開きの門からは老若男女さまざまな冒険者、商人、職員やなんかが頻繁に出入りしている。
中に入ると漆喰の壁に板張りの床で華美な装飾はされていなかった。入って左側のベンチでトシュデンが待っていた。縦にも横にもやたらとでかいのでよく目立つ。
「例の魔獣を丸ごと売っぱらったんだが、だいぶ質が良くて新鮮でな。金貨3枚になったぞ。倒したのは君たちだが、まあ、仮にアリスが気絶していなかったとしてもあの巨体は運べなかっただろう。というわけで、1枚金貨をもらってもいいかね」
そう言って、有無を言わせず私とダリンに一枚ずつ寄越した。
「悪いね。だけど、私らも稼がなくちゃいけないんだ」
サンナが補足的に謝ってくる。
「いえいえ、私とダリンだけだったらあのまま腐ってカラスの餌になってましたし、思いがけずこんな大金もらえて、嬉しいですね」
私はそう答えた。金貨なんて手にしたのは初めての経験だったので、素直に嬉しい。中央には両面ともに髭面のおじさんの横顔が刻印されている。金貨は価値が安定していないので正確にはわからないが、およそ銀貨8枚分ほどの価値がある。こんなに稼いでしまうと、オプリ村でひょろっこいハイエナを狩ってこつこつと小金を稼いでいたのが馬鹿らしくなってしまう。いつかこの金貨にも大した価値を感じなくなって、削って料理にかけるような日が来るかもしれないけれど、今のところはなでなでして感触を楽しんで、大切に巾着袋にしまった。ダリンの方を見ると、さすが坊っちゃんである。金貨なんて見慣れた様子でよく確認することもなく、尻ポケットに無造作に入れていた。
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