第5話
私は紙に書かれた住所へと向かった。
晴天の青空から燦燦と降り注ぐ光と、その熱量を絶え間なく受け続けるアスファルト、そして蓄えた熱が外へと発散される、その際に陽炎が発生する。陽炎が発生すると目の前の景色が波打ち、まるで水面に映る月のように感じる。
そのような五感から得られる情報が揺らぐようなこともあると考えれば、目の前の事実なんて言うのは陳腐なものに思える。重要なのは、今見えているものの裏側にあるものと常々思うのだ。生物にせよ機械にせよ、外観を見るのではなくそれらを機能させる構造や仕組みというものが、最も重要なことであると思う。
今回の事件もそのようなもので、上辺だけを知った気になれば本質というものを理解することはできないのだろうと私は考えている。
「だけど、どうなんだろう。私は『助けて』に関する歴史を理解したとして、何ができるんだろう」
私の仮説が事実として、私にできることは何もないように思える。そうなると遊びの延長線に過ぎず、私は責任を取るどころか、無責任に当事者の傷口を抉っただけになってしまう。当事者が患った怨嗟という名の病を悪化させるだけだ。
ただ、私は心を決めたから、決めたからには責任を取らなければならないし、その為には…
「私は知らなければならないの」
柊先生からもらった紙に書いてある場所へ到着した。目の前の表札に『
私はインターホンを鳴らして、返事を待った。そして、聞こえたのは女性の声だった。
「はい、どちら様でしょうか?」
「私、白夜 雪奈と申します。早速ですが、『助けて』についてご存じですか?」
「…知りません。帰ってください」
逡巡の時間と、テンプレートのような切り返し。それでいて帰ってくださいという言葉に含まれる不快感と嫌悪感。それだけでも何か隠しているように思えてくる。何故なら、検討違いの事なら悩まずに即答できるだろうし、まして嫌悪感なんて出すだろうか?見知らぬ誰かが見知らぬ内容で問合せに来たのなら、妙だと感じたり恐怖感を感じる程度だと思う。
「私は、冷やかしに来たのではないですよ」
ぷつんという音を最後に、インターホンからは何も聞こえなくなった。私は内心でどうしようもない不安を感じたが、それでもしばらく待ってみようと体感1分ほどそこで立っていると、ガチャリと開錠の音が聞こえた。
そこに立つ女性は少し古風な出で立ちであり、雅さを感じさせた。美しさにも種類があるが、彼女の放つ魅力というのは女性的な美しさがあった。引目やおちょぼ口、鉤鼻、それらが瓜実顔の中で端正に纏められており、肩まで伸ばした黒髪は欠かさずに手入れされているのが分かるほどに艶やかであった。そして、歩く姿からは家柄の良さを感じさせる自然な気品があり、いざ正面で向き合うと彼女の嫋やかさがより鮮明に映った。
「汚いですが、家へおあがり下さい。外を歩いてきたのでしょう、冷たい飲み物くらいは振る舞えます」
「すみませんが、お邪魔します」
そうして、私は彼女の勧めるままに家へと案内された。彼女はリビングの食卓椅子へ手を向けながら、どうぞお座りくださいと告げて、お茶とお菓子の準備を始めた。
「白夜さんは、和菓子はお好き?」
「えぇ、食べられます」
「それは良かった。家にあるお菓子は和菓子しかなくて、最近の子はあまりそのようなもの食べないのでしょう?」
彼女はふふふと口に手を当てながら微笑み、私へお茶と羊羹を運び、正面の椅子へ座った。
「どうぞ、お召し上がりください。一息ついたら続きをお話ししましょう?」
「ありがとうございます。では、いただきます」
私はそう言い、ポケットから手拭を出して、卓上の右手に置いておいた。
羊羹と一緒に置かれている黒文字を使って一口サイズに切って口へ運んだ。様々な種類のある羊羹だが、私はこの煉羊羹が個人的には好きだ。口に入れ、舌の上へ乗せるとまったりとした甘さがじんわりと広がっていき、それが暫くの間口の中で留まって、またじんわりと消えていく。その味覚の移ろいが儚げに私には思えて、如何ともし難いように感じた。例えるならば、細雪が手の上へふわりと舞い落ちて溶けていくような、そのような無常観のようなものを感じる。
そして、お茶碗を手に取り相手へ正面を向けるように時計回りに回転させて、器へ口を付けた。水出しの煎茶なので日差しで干された私の身体に染み入る様に入ってきた。口の中に少し残る羊羹の甘味が煎茶の苦さと香ばしさで中和される。器の口を付けた部分を指先で拭い、右手に置いた手拭で指を拭いた。その後、お茶碗を再度回して自分のほうへ正面を向けて、卓上へそっと置いた。
「白夜さん、茶道を嗜んでらっしゃるのですか?」
「昔、小学生の頃少しだけ習い事で…」
「やっぱり。習われてたのはどの流派?」
「裏千家です。長らくそのようなことをしていなかったので、うろ覚えでしたが…」
「いいのよ、気になさらないで。驚いたの、お茶もお菓子も丁寧に楽しんでらっしゃったから」
浮かぶ笑みは相変わらず気品があった。もてなし、喜んでもらい、その様子を喜々として見ている、その奉仕精神が私には彼女の本質のように思えた。だが、誰にでもそうであるようには見えず、私の印象では『尽くしたい人に尽くす』ことが喜びであるように思えた。
「佐伯さん、おいしいお茶とお菓子、ありがとうございます」
「ええ、お粗末様です。で、要件は『助けて』についてですか?」
彼女はそう聞いてきた。インターホン越しに聞いた声音より幾分柔らかだったが、その柔らかさの底に暗い何かが燻っているように思えたので、柊先生に言わせれば、彼女にとっては遊びではないということだろう。なおのこと、慎重に扱わなければいけない話題のようだ。
「そうです。柊先生の紹介でこの場所へ来ました。それ以外は何も知りません」
「そう、彼から聞いたのね。全く、彼はいつもそうなんだから。柊君は何もしないし知らんふりをする。でも、他人が主導になった時だけ知った風に関わる意気地なし」
柊先生が話に入ると急に言葉がきつくなった。彼女の口から意気地なしなんて言葉が出てくるとは思っていないため、心底驚いたが、柊先生は言う通りずるいところがあるし、人によってはそれを嫌がることもあるだろう。
「確かに、意気地なしなところはありますね。で、柊先生と佐伯さんの関係はどういうもので?」
「同級生、クラスメイトだったのよ。彼は昔から変わらずそういう性格なのよ」
「私が同世代なら仲良くできないかもしれないですね」
「そうかしら?私には似たり寄ったりに見えるけれど」
くすりと笑いながら彼女は私の発言に否定した。彼女にとっては柊先生と私にどこかしらの共通点があるように見えているのだろう。故に、仲良くできないという発言に否定をした。
「私の主観になりますが、あの人とは似ても似つかないので仲良くなれないと思いますよ」
「そんなことはないわ。妙に理屈っぽくて、人のことを考えないところとかそっくりよ。だって、家に押しかけて身に覚えありませんか?なんて聞く人が人の気持ちや都合を深く考えてる?」
その声音は親が子を諭すような口調で、私はそれ以上反論することができなかった。彼女の言葉はどれも事実であり、私が苦手なところを十分に理解していた。
「ふふ、ごめんなさい。少し遊びすぎたわ」
「いえ、からかわれるのは慣れてます」
「あらそう、このままじゃ話が逸れてしまいそう…白夜さんが気になっていることを話しましょう。私の代で起きたことを…」
先ほどよりも暗く、悲愴的な様子で語る様に話を始めた。
「佐伯さん、おはよう」
少し遠くから声が聞こえた。それは普段からよく聞き慣れた、耳に馴染んだ声音であった。声がするほうへ私は緩慢な調子で向き直り、挨拶をする。
「おはよう、妙」
日に照らされた彼女は、正しく日本人離れしていた。煌めくブロンドの髪とエメラルドのように透き通って輝く碧眼、背は私より幾分高く、170手前くらいはある。ただ、日本人離れしている容姿ではあるが、ちょんとした鼻や全体的に幼げな顔などからは日本人らしさも間違いなく感じさせる。
彼女の名前は『
さらに、背も高く髪色も瞳の色も周囲とは違う。それ故に昔から浮いていたらしく、虐められることも多かったらしい。
今まで過酷な生活をしていた妙だが、凛として力強く、周囲の目線を気にしない様子は私にとって尊敬に値するものであり、尊敬の対象でもある彼女と一緒にいられることが私は本当に喜ばしいことであった。
「相変わらず雅やかね~、忍ぶれどとか読んでそう!」
「残念ね。私は我慢苦手なの」
朝は、そのような簡単で何気ない日常が繰り広げられた。だけれど、私たちの周りには壁があるかのように感じた。周囲には誰も近寄らないし、関わらない。それが、私に不快感とほんの少しの苛立ちを与えた。
私には、周囲の反応がまるで美しい絵画をペンキで塗りつぶすように上塗りし、原形を留められなくなった絵画を嫌悪しているように感じて、なんとも言えない気持ちになった。
話す前から固定観念による決めつけを行い、この人間はきっとこうだと思い込んだらそこから連想ゲームで悪評を重ねていき、根も葉もない噂話だけが独り歩きする。結果として表面に飾られた批判だけを事実として共有する大衆という存在があまりにも馬鹿らしくなり、心底うんざりする。
胸中で巡り続ける不快感がやがては苛立ちになり、そして憎悪へと腐敗する。
内心が顔に出ていたのか、彼女は困り顔で質問してきた。
「そんなに怒らなくていいのよ。だって嫌なことなんてまだないでしょ?」
彼女の顔を見ると、何故か私は慰められたようになり、吐き出したい言葉はすっと溶けるように消えていった。
「いこっか」
そういって彼女は校門をくぐった。
「妙はすごく字が綺麗ね、習い事でもしていたの?」
「まぁね、お母さんが書道の先生でね、教えてもらってたから字が綺麗なんだと思うなー」
まるで他人事のように、別の誰かの話をするように彼女は答えた。私も家柄で茶道や華道などの日本の作法的な習い事をやらされていてその中の一つに書道があった。小学3年生のころから6年ほど続けていて、もうやめてしまったが、それなりの期間習っていた私よりも圧倒的に字が綺麗だった。
なにが違うのだろうか、続けていた期間?それとも字を書くこととの向き合い方だろうか、私にはわからないが彼女は字を書くことが好きなのだろう。きっとそうに違いない。
「そう、字を書くのが好きなのね」
「そうだね」
彼女はそんなに楽しくなさそうに呟いた。
妙の字を見るのが私は好きになった。毎週のこの時間が楽しくてたまらなかった。だけど、それに対するように月日が経つにつれて彼女は習字の時間をさぼり始めた。それが何故かは私にはわからなかった。
彼女の作品は普段距離を置き、腫物に触る様に接するクラスの人たちですら感嘆するような出来であった。だから、その時間だけは彼女の扱いもいつもとは違った。ただ、距離を置くことは変わらなかった。
彼女は多分天才だった。その字体には綺麗と感じるだけではなく表現し難い魅力があった。例えるならば、美術館にある絵が上手いことは理解できるが、それだけでは言い表せない独特な美しさを感じるような、そのような感覚があった。
人はあまりにも自分より優れたものを見ると、称賛ではなく畏怖するようになる。自分たちとは全く違う存在なのだと線引きし、はみ出し者として排斥してしまう。同じように初めのうちは歎美していた周囲も時間が経つにつれて別格の作品を作り出す彼女に、そこはかとない恐怖心を抱くようになった。
結果として妙は認められることはなく、むしろ避けられるようになった。
初めて妙が習字の授業を受けたときから6カ月ほどが経った。もう彼女に声をかける人は誰一人としていない。然し、皮肉なことに彼女の書く作品というのは美しさを保ち続けていた。
「今日も綺麗ね、妙」
私は笑みを浮かべて彼女に伝えた。3週間ぶりの授業参加に私は浮足立っていたのか興奮気味にそういった。
「…そう」
うざったそうに呟いた。表情からわかる苛立ちの理由が私にはわからず、理不尽な感情の発散に使われたように感じた。それに対して私は憤りを覚えて妙に確認する。
「私、妙に何かした?」
「別に、いつも通りじゃない?」
「じゃあ何に怒っているの?」
それから彼女は私を意図的に無視した。
私には妙が何を考えているのか全く分からず、『妙』という存在がものすごく不気味なものに思えてきて、気味が悪くなって距離を置くようになった。あんなにも仲良く話をしていたのに、途端に気が置けるようになってしまい、私はどうしていいか分からなくなって、とりあえず距離を置くようにした。
その後の一週間を皮切りに、彼女が学校に姿を見せることはなくなった。そして、その次の年から『助けて』という作品が生まれることとなった。
「それだけよ。核心に迫るものではないかもしれないけれど、参考にはなったかしら?」
「ええ、あなたと峯岸さんの関係性についてはわかりました。ただ、あなたの話と『助けて』との関連性がわからないですね」
佐伯さんは確かにねと慎ましく笑いながら彼女が考える仮説を話し始めた。
「『助けて』は妙が今も書き続けてるんじゃないかって私は思ってる。一人きりで誰にも理解されない彼女がすがるように書いているのがこの作品なんじゃないかって、私は思うの」
「詩的ですね。確かにそういう見解もありそうに思えますね…ところで今、峯岸さんが何をしてられるかご存じですか?」
「知らないわ。言った通り、次の週から学校に来なかったから、それ以降は彼女と話したことはないの」
「そうですか…参考になりました。最後に、柊先生とはどういうご関係で?あの話では一切出てこなかったので」
佐伯さんはふふっと笑いながらはにかむように言った。
「彼は直接彼女とは関わってないけれど、妙のことを差別せずに見ていたのよ。だから、私は同じクラスの人間の中で最も信用できる人だったの」
そうですか、と私は答えて佐伯さんに帰る旨を伝えた。玄関まで丁寧に先導し、気を付けてねと最初と比べればフランクな言い回しで帰りの挨拶をしてくれた。
家を出て、私は佐伯さんの発言の中で気になったことを調べるために再度学校へと私は向かった。
胸に入れている携帯に着信がかかる。取り出して着信元を見てみると珍しい人からであったが、ちょうど今朝話題になった人だったのでさほど驚きはしなかった。
「もしもし、君から電話がかかってくるとは驚いたね」
「何も驚いていないくせして白々しい。貴方でしょう?白夜さんに住所を教えたのは」
「その様子なら彼女と仲良くやれたみたいじゃないか、安心したよ」
「相変わらず鬱陶しい人ね。何が目的?」
彼女の声からは苛立ちを感じた。おそらく、土足で踏み込んだ白夜さんよりも、それなりに事情を知っている僕が彼女を止めなかったことが原因だろう。だから、彼女ではなく、私が責められている。
「目的って言われたら困るけどなぁ…ちょっと、僕のほうでも気になることがあったからさ。本人も気になってるみたいだし、調べてもらおうと思ってね」
電話しながら僕は屋上へ向かった。理由は二つでお気に入りの景色で寛ぎながら小言でも聞こうというのが一つ、もう一つは他の誰にも話を聞かれたくないから。
「何が気になるの?」
「さぁ、なんだと思う?」
電話越しに聞こえたため息は、多分な怒りを感じた。だが、僕はその態度はやめない。
どうせ、彼女にはわからない。僕が何を気にしているのかなんてわかるはずがない。何故なら、彼女の時間はあの時から何も進んでいない。口調や服装などが年相応へ変化していても、彼女の精神的なところはまだ16年前と大差ないどころか全く変化していない。そんな現実を逃避し続ける彼女には僕の気にしていることなんてわからないのだ。
何故、今の今まで無事に毎年新しい作品が飾られているのか?作る人間は何を考えているのか?飾る人間は何を考えているのか?この件は学校の七不思議というにはあまりにもブラックボックスが大きすぎる。犯人に検討はつけられど、その真意までは誰にもわからない。当事者であり、傍観者である僕ですら客観視してもわからない。
だからこそ、僕は白夜 雪奈という人間に賭けてみたのだ。彼女の持つ徹底した論理性と特有の価値観があれば、この事件の真相と各々がもつ思惑を審らかにしてくれると僕は予感している。
「白夜さんと話してみてどうだった?楽しかったかい?」
「えぇ、楽しかったわ…ただね、怖いの」
「何が?」
「彼女はね、普段は礼儀正しくてね、普通に話していると楽しいの。だけれど、昔の話をし始めた途端に、人じゃなくなったみたいになるの。反応は冷たくて、機械みたいに感じるし、目はずっと胡乱なままでね…怖かったの」
彼女の声からは先ほどまでの活気はなくなり、細く、弱々しくなっていった。それはそうだ、白夜さんは真実を明らかにするために調査している。真実と向き合おうとしない彼女が白夜さんを見れば、見たくないものを見せられるから恐怖する。目を背けてしまいたくなるが、白夜さんはそれを許さない。だから、怖がるのだ。
「そうか、それでも話したのならすごいじゃないか。てっきり話さずに濁して終わりだとばかり思っていたよ」
「………そうね」
間をおいて回答を聞いた僕は、じゃあ切るよと言って電話を切った。
人は、深く心を傷つけられると防衛反応として忘れてしまう場合がある。然し、逆の反応をしてしまう人も中には存在する。自分が忘れたい、忘れてしまいたいと心の底から願うシーンを鮮明に、鮮烈に繰り返しリピートする。忘れようと努力するほど当時の映像が想像以上のリアリティをもって再生されるのだ。
あの二人は似た者同士だ、片や完全になかったこととして現実と虚構の間で日々を送る人間、片や常にリピートされ続けるものを見ぬよう思い出さぬように蹲って前へ歩けなくなった人間、傍から見ればどちらも現実を直視できない卑屈な人間だ。
真相と一緒に、白夜 雪奈という人間がどのような選択を取るのか、考えるだけで楽しくなる。
────僕は屋上から校舎内へ戻った。次に扉が開くのは彼女が質問をしに来たときだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます