第4話

 鼎が職員室をノックし、「失礼します」と言って中に入る。事前に呼んでほしい人は伝えているので、問題はないだろう。


 開いたドアの隙間からその先生の姿が見えた。凛としたつり目、小さめの鼻と口、髪型はミディアムアンニュイのボブヘアー。背はそれほど高くはなく、以前当人に聞いたところでは、155程度と言っていた。


 名前は東雲しののめ 暁美あけみ。私たちの担任の先生で、一部男子からは暁美ちゃんと呼ばれており、本人もそれはさほど気にしておらず、大抵の事では取り乱さないクールな人だ。


 そんな人が、鼎の声を聴いてすぐに立ち上がり急ぎ足でこちらへ向かってきた。そして「あなた、早く出なさい」といつもより1トーンほど低い声で言った。鼎は言われた通り職員室を退室し、先生に連れられるままに女子トイレへと向かった。


 明らかに怒っている。人の気持ちを汲み取るのが苦手なほうである私ですらわかるほどに怒っていた。だが、鼎はそんな空気を気にも留めずに気さくに話しかけた。


「東雲先生。うちの学校を卒業した先生っています?」


 先生はその質問に答えずに、違う話題を切り出した。


「兵藤さん、あなたよくその姿で職員室に入れたわね」


 …何も言い返せないだろう。私もその視点では考えていなかったが、金と黒でプリンになった髪と隠しもしないピアス…いや、今日は銀でリング状のイヤリングを付けている。心做しかスカートも短い気がする。


 夏休み、久しぶりに会った日も気の緩みが見られたが日に日に悪化しているようだ。


「鼎、そろそろ自重したほうがいいんじゃない?ていうか、美術室のカギどう取ったのよ」


「雪奈、うちの顧問はどんな人?」


 私は苦笑いをし、東雲先生は頭を抱える。


 先生が頭を抱えるのも無理はない。美術部の顧問である柊先生は進路指導担当の先生でありながらこの手の問題児に明らかに甘い。曰く、「個性を尊重している」らしいが、教員としては間違っているだろう。


「…柊先生には後で時間を作ってもらうようにしましょう。で、なに?うちの卒業生の先生?あんたらほんとに知らないの?」


 私と鼎がきょとんとした顔をしていると、ため息交じりに意外な名前を口にした。


「柊先生、うちの学校の卒業生よ。私は忙しいから戻るけど、兵藤さん、明日からもその髪で学校くるなら職員室に来なさい。いいものをあげるわ」


 そう言って、相変わらずのクールさを見せて帰っていった。





ひいらぎ先生、居ますか?」


 私の声は少し強張っていた。進路指導室はそんなに先生はいないが、この時期になれば三年生の生徒が進路を決めるべくこの部屋を頻繁に訪れるため、人が多いのだ。部屋に入れば反射的にこちらへ振り向く生徒もいる…というよりよほど集中していなければこちらを一度見るのが普通のようにも思える。なんにせよ、注目を集めるのが嫌いな私にとって、入室するというのはそれなりに体力を使う作業なのだ。


 注目されているという意識を逸らすために私は必死に柊先生を探す。幸い狭い部屋なこともあり、すぐに見つかった。30歳前半の少し癖っ毛気味で黒縁の眼鏡をかけている、顔に特徴という特徴は無く、比較的顔のパーツが整ってはいるものの…大変失礼だがどこにでも居そうな顔立ちである。性格はどこまでも癖があるのに、その見た目はどこまでも平凡で、口を開かなければ清潔感を感じる見た目から誠実でしっかりとした印象を人に与える。かく言う私もその第一印象に騙された身で、今となっては見た目で人はわからないと言う教訓となっている。そんな彼は今、わざとらしく私の呼び出しを無視している。


 多少の苛立ちを覚えながらも顔には出さないように意識する。そのまま部屋の奥へ踏み入って直接質問した。


「柊先生、聞こえない距離ではないでしょう?なぜ無視するのでしょうか?」


「怖い、怖いよ?どうした?」


 微塵にも思ってなさそうにそんなことを言う。彼はいつもそうだ、飄々とした態度で真摯さを感じさせない。


「美術部の備品の石膏像が割れました。胸像なんですが…修復可能か確認いただけますか?」


「胸像か~、どれか知らないけど安くて5万超えくらいだね。前のGWの時のデッサン旅で費用かなり飛んだし…うん、美術室今から行こうか」


 そして、彼を部屋から出し、彼を連れて美術室へ向かった。






 部屋に入ったら部屋のカギを閉めて、彼に質問した。


「先生、この学校の卒業生だったんですね。知らなかったです」


「そうだけど?…で、割れた石膏像はどこ?」


 それを聞いた鼎はケタケタと笑いながら私に向けて質問した。


「何それ、なんて言ってこの人引きづりだしたの」


「胸像割った、修復可能か見てくれ。これだけよ」


「えぐいなぁ~、てか私たちが胸像割るわけないのにね」


「よく言うよ。兵藤さんその見た目なら竹刀とか部屋で振り回しててもおかしくはないだろう」


…スケバンのイメージで言えば、スカートはここまで短くないだろうけれど。内心でツッコミを入れた。


 近くの椅子に腰かけて、先生は珍しく不快感を顔に出しながら小言を言ってくる。彼が顔をしかめる事がまず珍しい上に小言を言うのも珍しい。生徒の悪ノリには率先して乗る人だから心底意外だと感じた。


「じゃあなんで僕を呼んだの?カギまでかけてるし、深い話?」


 さらに普段は見せない真剣な態度で私のほうへ視線を移し、向き直った。いつもと反応が違うだけでこうも違和感があるのかと驚いた。


「ええ、少し深い話です。先生が在学中、選択科目の『習字』はありましたか?あったならその時『助けて』という文字はありましたか?」


 先生はため息交じりにうつむき、考え込んだ。その反応は明らかに何かを知っているように思え、深く追求したくなる気持ちを抑えて先生が発言するのを待つことにした。


 十数秒ほど経ってから、彼はいつもの軽い雰囲気とは打って変わり、厳かに口を開いた。


「七不思議について調べてるのか。『助けて』って文字は当時からあったよ、それについて詳しい人も知ってる。でもね、教えられない。あと、これ以上の詮索もやめてほしいな」


「なんで?あれって遊びの一端じゃないってこと?」


 鼎の質問に先生はクスリと笑った。その笑い方は嘲るようで、続く言葉は子供をあやすように発せられた。


「そう、なんら遊びと変わらない。でも、本気と遊びの差なんて言うのは曖昧なものだから僕がなにか言うわけでもないし、何も言えないんだ」


「質問いいですか?」


「ものによるよ」


 一呼吸おいて、私は先生の立場について確認を行うようにした。


「当事者ですか?」


 彼はさぁ…とうつむき濁し気味で答えた。そして、おもむろに立ち上がりドアのカギを開けて部屋を出ていこうとする。


「どこいくの?話は終わってないよ?」


「これ以上兵藤さんに話すことはないよ。僕も仕事があるからね、そろそろ行かせてもらう。あぁ…あと白夜さん」


 私の名前を最後に呼んで、付け加えて帰っていった。


「人には嫌な思い出を忘れ去ることで心を守る能力がある。賢い君はこれだけで意味が分かるはずだよ」


 ──────ドアの閉まる音とともに部屋は夕日と静寂に包まれた。







「悪いな、待たせてしまって」


 渋い声音で東野先生は言った。


 私はほぼ初めてましてと言っていい東野先生を観察した。


 まず目についたのはまるで欧米からやってきたのではないかと疑いたくなるような彫りの深い顔であった。高い鼻やキリリとした奥目はハーフやクオーターを疑いたくなるようなもので、顎からもみあげにかけて繋がっている髭は手入れされている。髪の毛はツーブロックのウルフヘアをワックスで固めている。その顔立ちやきっちりとしたスーツ姿からくる厳格さが私には少し心地よく感じた。


 東野先生も私をまじまじと観察しており、その目線が左手付近に来た時、反射的に腕を隠した。それを不思議そうに眺めて一言呟いた。


「白夜さん、私とこのように対面して話すのは初めてだな。挨拶しておこう、東野 久志だ。何かの授業で担当になればその時はよろしく」


「はい、その時はよろしくお願いします」


 私は意識的に朗らかに見える笑みを顔に浮かべながら社交辞令じみた返事をした。このように互いの関係性を明確にして行われる会話は仮面越しに行われているようで気楽だ。


「先生~、さっきの件で話あるんですけど~」


 私の言葉より気さくで軽く、鼎は東野先生へ距離を詰めていった。彼女のパーソナルスペースは非常に狭く、フレンドリーを通り越してむしろ怖さすらある。初めて私が彼女に会った時もそうであったが、彼女は知っていてあのようなことをするから質が悪い。案の定、東野先生はたじろぎながら彼女の言葉へ応じた。


「…あぁ、習字の作品の話だろう?覚えているとも。つい数か月前まで君と話していたが、慣れがなくなるとやはり驚くな。人によって距離の取り方を考えなさい」


「ほんとお堅いね~。で、『助けて』の件なんだけど、私から言うまでもないから雪奈、お願い」


「東野先生に要件があるのは私だし、鼎は言うまでももなにも質問内容知らないでしょう…」


 彼女の時間関係なく放たれるこの手のユーモアは、私には理解できないので面白いとは思わないが、硬い雰囲気を程よく和ませられるので場合によっては効果的だ。今はどうなのか知らないが。


「先生、私たちは今『助けて』という作品について調査しています。早速質問ですが『助けて』という作品はいつからあるか覚えておられますか?」


 彼は顎に手を当てて考え始めた。


「…ここまで長いことあの作品を見てきたが、いつから始まったかはうろ覚えだな。はっきりとは思い出せないが、確か20年以上前だった気がする。私がここで働き始めたのが26の頃で4年後くらいから習字の担当を持つようになって…朧げな記憶で悪いが多分20年以上前なのは断言できる」


「…そうですか、先生はあの作品を見たときどう思いましたか?」


「綺麗だと素直に感心した。誰が書いたかかなり探したが結局見つからなかった。あれだけ探して見つからないのなら幽霊と思ったほうが正直妥当だとも思えてくるよ」


「先生意外とオカルト好きだねぇ~。学校の七不思議とか好きでしょ?」


 くすりと笑いながらそんなことを言う東野先生を鼎はイジった。私はその間、鼎と東野先生へ向ける目線をずっと行ったり来たりしていた。最後はこの違和感に気付かないのかと私は鼎へ視線を向け、それに気付いた彼女は私へ話を振った。


「なんかあったの?気になることが」


「なんにも、むしろ鼎が急に先生をイジり始めて驚いたってだけ」


 最悪の話の振り方に私は驚いたが、それをできるだけ隠し、平静を装いながら誤魔化した。


「先生、ありがとうございます。また何かあればお伺いしてもいいでしょうか?」


「好きにしてもらって構わないよ。君と話すのは不思議と面白いからね」


「先生、雪奈と話すときだけ声がやらかいんだけど…」


 そんな不満げな反応をする彼女を引きづるように私はその場を後にした。そして、校門を出てしばらくしてから彼女に質問をする。


「ねぇ、東野先生おかしくなかった?」


 彼女はうーんと思い返しながら私へ返事する。


「どこが?」


「…私の考えすぎかしらね。気にしないで」


 私はまだ確定したわけではない情報を早く繋ぎすぎて早とちりしてしまったようだ。然し、私の仮説が正しいのであれば、作品の初出は15年前かそこらになるはずだ。


 東野先生の嘘は、私に嫌な予感を与えた。


 …ここは突き詰める必要がある。明日、その情報を知っているであろう人と交渉してみる必要がありそうだ。


「じゃあね鼎、また明日」


「え!明日も来るんだ、意外…結構乗り気になってない?」


 ニマニマと私の肩を突っつきながらそんなことを言ってくる。それにため息まじりに返事した。


「ちょっと、乗り気になっているのかもね」


 それを最後に彼女はさようならと伝え、私は一人となった。


 いまだ喧噪鳴りやまない街を歩きながら家へと向かう途中、『助けて』という作品についてまた考えてみた。


 正直はじめの作品全部を片っ端に調べるのは、私のやる気の問題だった。あの方法をとれば、誰だって諦めようと考えてくれると思っていた。だけど、鼎が思ったより食いついてきて、仕方なく流れでここまで調査してしまった。私としてはここまで調べる気なんて更々なかったのだ。


 …嘘。私にやる気がなかったのは事実だが、それ以上に、『助けて』の字体から感じる作品への思いから生じる嫌な予感が、調べてはならない、深入りしてはならないと私に警鐘を鳴らしていた。更に私が東野先生の話を聞いた時に感じた違和感をきっかけに仮説にもならないストーリーを連想させ、嫌な予感が確信に変わった。そのストーリーは非常に大まかで、具体性の低い段階だが、これだけは間違いなく言える。


 それはということだ。


 恐らく、『助けて』という作品には十数年間続けられるだけの思いがこもっている。それは冷やかしなんていう生易しいものではなく、ずっとずっと変わらずに抱き続ける憎しみのように思えた。これは激しく燃えてすぐに消える怒りという感情ではない、ふつふつと沸き上がり、徐々に肥大化する恨みのようにも思える。そして、あの作品を毎年のように制作することにも作者にとって重大な意味があり、ある種の儀式のようなものとなっているように感じられた。


 だからこそ、深入りするのならそれ相応の覚悟がいる。遊び半分で行っていいようなものではない。それを証明するように柊先生は鼎へ「これ以上話すことはない」と告げた。


「らしくない、私らしくないな」


 ────そんなことはないよ、お姉ちゃんは優しいもんね。


 疲れからか、そんな声が聞こえた気がした。






「おはようございます、柊先生」


 次の日、私は誰よりも早く登校して柊先生がくるのを待った。校門が開くのは大体朝の7:30かそこらなので、それより少し早いくらいに着くようにし、その間はずっと昨日の内容について思い出し、反復するように確認していた。そうするうちに、目的の人物である柊先生が来られたので、挨拶をした。


「おはよう…昨日の事かな?」


「えぇ、それ以外に先生と話すことなんてないでしょう?」


 彼は表情を変えずに私のすぐ横を通りながら、小声で屋上へ行こうと勧めてきた。多分、誰にも聞かれたくないのだろう。彼がそれを勧めなければ私はまた美術室へ向かうところだったが、よく考えれば美術室には鼎が来る。それを避ける目的でも屋上のほうが都合がいい。


「わかりました。行きましょうか」


 そうして、4階へと階段で上り、滅多に開くことのない屋上へ繋がる扉を柊先生が開錠した。


 見える景色に感動することはなかった。校舎の屋上から見えるものなんて、結局はビルばかりだ。車通りの激しい道からは距離があるからうるさくはない、そこだけは嬉しいところだが、なんにせよ私は都会というものが好きではないからいい印象はない。


「何を考えてるの?」


「相変わらず、都会は好きになれないなと」


「何故?便利なことは悪い事ではないと思うんだけどな」


「便利なことが悪い事でないのは当然です。ただ、利便性の対価として減っていくものが私は好きだから、それが排斥された世界である『都会』が好きになれないんですよ」


「言いたいことはわかるけどね。僕にはそんな無駄に塗れた世界で生きていくことなんてできないよ」


 柊先生が珍しく哲学的なことを私に伝えてきた。私にとって理想的なモデルを『無駄に塗れた世界』と称した彼の論理を知りたいと心の底から思った。


「そうですか?では、柊先生は今ここから見ることができる世界をどのように認識しているのですか?」


「僕には可能性に満ちているように思えるよ。僕は様々な可能性が考えられるものが好きだ。だからこそ、君の望む閉塞的な完結された世界には共感することはないし、そんな発展のない世界は莫大な時間を浪費する無駄でしかない。どう?白夜さんはこの考えに共感できないでしょ?」


 彼は嘲るように笑いながらそう言った。


 確かに、共感できない。彼のその論理は私には世迷言のようにしか思えなかった。


 変化する理由は、不完全だからだ。完璧でないものはなんであろうと完璧であるように、安定するように変化する。それは元素や原子のような極小の世界ですら見られる普遍的なものだ。安定するように化学変化や化学反応が発生する、ヘリウムやアルゴンなどが他の元素と結びつきづらいのはその存在が既に安定的であるからだ。


 彼が私にとっての理想的なモデルを『閉塞的な完結された世界』と称していたが、それは間違いなく正しい。ただ、それに対する認識が私の対極にあるものであった。その差は何も大きなものではない。本質的には何も違いがないともいえると思う。だからこそ、彼の言う『可能性に満ちた世界』というものが理解できるしその多種多様に開かれた扉についても容易に想像がつく。だけれど、それに私が胸躍ることはない。


「えぇ、理解できませんね。私にはその世界が楽しいとは思えない」


「そうだろう?だから君は面白くないんだ。面白いのは作品だけだね」


 心底つまらなさそうにそう言った。そして、昨日の話題について切り出してきた。


「で、昨日の事でしょ?兵藤さんに話すつもりはないけど、白夜さんならいいよ」


「えぇ、先生も昨日そう言ってましたからね」


「言ってないよ。兵藤さんには話さないだけでね、君には話すと一言も言ってない。まぁ、気付くとは思っていたけどね」


 彼は屋上に設置されたベンチに付着する汚れを手で払い、腰を掛けた。そうして少し目を泳がせて、説明を始めた。


「僕が高校1年生の頃、『助けて』と言う作品が生まれた。僕が教育実習生としてこの学校に来た時、未だにそれが存在していることに心底驚いたよ…それと同時に、まだ忘れられないんだなと心から憐れんだ。そう、僕は憐れんでしまったんだ。憐憫を抱いた時点でもうだめなんだよ。赦されることはない」


「なら、当事者だったんですね。そして、それ以上を語ることはないと?」


「申し訳ないが、その通りだ。でも、君に話したのだって理由があるから…」


 そう言うと、スーツの内ポケットから付箋を取り出し、胸ポケットに引っ掛けてあるボールペンで何かを書き記し、私へと突き出した。


「この場所に行って、柊先生から聞いたと言えば真相に大きく近づける。でも、行くなら白夜さん一人で行ってほしい」


「何故ですか?」


「彼女の時は高校1年生の頃から止まってる。似たもの同士の君なら彼女も気を許すと思う」


 含みのある言葉とともに私を屋上から追い出し、屋上のカギを閉めて、彼はいつもと変わらない日常へと帰っていった。

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