しょーもないおっさんの号泣。~君と生きた青春~
華奈子の職場は、実家から直線距離で北へ二〇キロ以上離れた総合病院で、神経系疾患や呼吸器系疾患、回復期リハビリテーションの拠点として多くの患者たちの支えになっている。住いは、そこから三キロほど南下した高層マンション五階西側の2LDK。床はバリアフリーでリビングの入口は引き戸になっていた。全て梨子のために改装したことが窺える。中央に小さな祭壇が設けられ満面の笑みをたたえた梨子の遺影が、部屋に入った瞬間すぐ目に付く場所に置かれていた。写真はベッドの上で撮られたもの。まだ少し身体が動く時で、食事も口から摂っていたから顔の肉付きも血色も凄くいい頃だったのよと華奈子は言った。当然僕のそばにいた梨子よりも幼い。君が頑なに拒んだ、初めて見る一瞬の表情は、動く笑顔では余り気づかなかった華奈子の面影を色濃く映していた。
そして僕はふいに、あのことを思う。
「梨子ちゃんは写真を撮らせてくれた?」
華奈子は驚いたように目を見開いて僕を見た。
「それがね、いつも凄く嫌がってた。病気の自分を写すのが許せなかったのかな。これも滅多に会えない遠くの親戚が、どうしてもって言って、渋々撮った写真なの」
「撮りたくない理由って、詳しく聞いたことある?」
「ううん、あの子何も言わなかった」
私が聞こうともしなかったんだけどねと、華奈子は遺影に目をやった。
「これ、撮っておいて本当によかったの。実はこの後の梨子は食べ物を飲み込む力が弱くなって、直ぐに経管栄養になったの」
「けいかんえいようって?」
「胃ろうって言って、胃に穴を開けて、そこから直接栄養を摂取させるの。生命維持には一日一定量必要最低限の栄養補給のみで、過剰にはならないし、身体を動かせないから全身の筋肉がどんどん減っていくしで、この写真からは想像つかないくらいやせ細っていたの。そんな痛々しい姿の写真じゃ、とても遺影にできないと思ってた」
華奈子といた君も変わらず、一日一日を一生懸命生きていた。
君の真意は僕だけが知っている秘密だ。
華奈子は梨子が生活していた部屋を見せてくれると言った。
部屋の引き戸脇の壁には手書きで『リコのへや』という札が掛けられいた。まだ元気な時に彼女が書いたものだろう。跳ねるような字体が梨子の性格そのものを表しているようで微笑ましく思った。
「まだ亡くなって間もないから、全部そのまま。でも女の子の部屋だからってあまり期待しないでね」
扉を開きながら華奈子は悲しそうに意味深な言葉を呟いた。そこは少女の部屋とは思えないほど、飾り気のない、端的に言えば殺風景な空間が目の前に広がっていた。
主のいないベッドに降り注ぐ光の方向を見た。西向きに大きな腰窓が広がる。冬の快晴の日は富士山を始め、多くの山々の稜線が絵画のように飛び込んでくる。梨子はいつもベッドの高さを上げて、カーテンを全開で外を眺めていたと華奈子は懐かしそうに微笑む。
君はそれを見て、何を思ったのだろう。
「あの子、元気な頃は活発で、男の子とばかり遊んでたの。父親が男の子の遊びばかり教えてたからそのせいみたい。リカちゃん人形みたいなものは一切ないの。もちろん可愛い服とかもね」
華奈子の言葉を聞きながら周囲を見渡した。壁紙の色は白。その選択も少女を強く意識させるものではない。梨子にもっと可愛い服を着させてあげればよかったと後悔が心に広がった。部屋奥の勉強机にはずっと使っていたと思われるノートパソコンと行きたかった東○女学館の入試案内が置かれたまま。動けなくなってから女の子に目覚めちゃったのかなと華奈子が呟く。本棚には中学校の教科書と、行くことができなかった高校の参考書も整然と並べられ収まっている。よく見ると医学書もある。病気のことも色々調べてたみたいと、視線に気づいた華奈子が言う。壁面には窓の左側、僕にはよく分からないバンドのポスターが唯一貼られているだけ。このバンドの曲はよく聴いていたわと華奈子が静かに言葉を漏らす。ベッドの足元腰窓の下の低い棚に置かれたCDの一枚がSEKAI NO OWARIと読めた。梨子の鼻歌はこのグループの曲だったのかも知れない。
とても梨子らしい、潔い部屋だと思った。
途端に、君との日々が僕の頭の中を駆け巡り、胸が苦しくなった。走馬灯を実際に見た経験はないけれど、本当にそんな感覚が起こり得るのだと、映像を思い浮かべながら思った。そして次の瞬間更に僕の心を激しく揺さぶるモノが現われ、ずっと封印していた想いが爆発する。
ふと僕は片隅に丸められて置かれているポスターらしきものを発見した。
「あ、そうそうこれね、急に球団のネット販売で買ったから、届いたら貼ってほしいって。でも届いた頃、梨子は病院だった。とても楽しみにしていたから見せてあげたかったな」
華奈子がそれをベッドに広げた瞬間、涙が零れた。零れた涙は瞬く間に滝のように流れ出し、頬を伝って、衣服を濡らした。
そこにあるのは坂元がフルスイングした瞬間を大写しにしたポスターだった。
「冴木くん、どうしたの?これに何かいわくがあるの?」
涙が止まらなかった。拭うことなく、僕は大粒の涙で床を濡らした。幻ではなかった。僕のそばにいた梨子は確かにこの世に存在していた。巨陣の選手を、坂元を一生懸命応援する君と、僕は精一杯生きていた。
僕は嗚咽を漏らした。髪が薄くなった冴えない中年のおっさんが人目をはばからず泣き叫んだ。こんなことは生まれて初めてだった。あれほど愛おしいと思った女性は一人もいなかった。そんな女性がどうしてもうこの世にいないんだと、君の運命を呪った。ベッドの脇にひれ伏す僕は永遠に涙が止まらない喪失感に襲われた。
「冴木くん、大丈夫?」
華奈子は訳が分からず狼狽えていた。取り乱した僕を見て、涙さえ浮かべていた。やがて気を落ち着けた華奈子は気丈に振る舞い、僕に言った。その時の毅然とした華奈子は梨子の母の姿であり、僕が憧れた初恋の同級生の凛とした姿だった。
「この野球選手のポスターに何があるのか、私には分からないけど、冴木くんが、梨子とどこかで繋がっていて、こんなに思ってくれているなんてとっても嬉しい。私からもお礼を言うわ。本当にありがとう。でもいつまでも梨子のために悲しまないで、あなたはあなたの人生を生きてね」
華奈子は僕の手を取り、両手で優しく包み込んだ。生まれて初めて触れた手に、梨子とは違う温かさを感じた。様々な人たちの生死と向き合い、寄り添った、心の痛みを包み込む温もりだった。僕の身体を引き起こすと、背中を支えるようにしてリビングへと導びいてくれた。コーヒー淹れるから楽にしていてと僕をソファに座らせ、キッチンへ向かう。
梨子の遺影を見た。そこにいるのは僕が知っている君ではないけれど、その頃のやんちゃな梨子を想い、また涙が溢れた。次第に顔の輪郭がぼやけていく。
「実クン何泣いてるの?立ち止っちゃダメ!」
そんな声が聞こえた気がして、僕は涙を拭ってもう一度君を見る。
少し笑って見えた。
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