夢のようなひととき。Part-2 プロ野球観戦 ~本番~

 階段を上がる前に、一階正面入り口の脇に設置されているシーズンシート購入特典交換所で、球団のロゴ入りオレンジタオルを二枚受け取り、一枚を梨子の首に素早く掛けた。君はきれいな色だねと微笑む。

 長い階段を上がり切り、荷物検査のテーブルを素通りした。二階席入り口手前でチケットにあるバーコードを読み取られ、回転扉で中に入ると場内アナウンスが聞こえる。入場した試合開始三十分前にはスターティングメンバーの発表がある。場内の盛り上がりを考えると、どうやら後攻の巨陣の先発メンバー発表の最中のようだ。

 対戦相手は昨年のセ・リーグ覇者、巨陣に移籍の円選手が在籍していた紘島。覇権を奪還するにはどうしても倒さなければいけない相手。応援する方も改めて身が引き締まる。

 弁当は急がないと開始前にはほぼ売り切れてしまうので、入口近くの売店へ素早く足を向ける。二人が持つチケットには弁当がどれでも一割引きという特典もある。僕がいつもの有名シュウマイ店のおつまみ弁当を店員に所望するとボクも同じのでいいと君は言った。飲み物はスタンド内でビールを売り子クンから買うので、僕はいらないから何がいい?と梨子に再び訊ねると、ボクもそれでいいと言ったのは当然迷わず却下した。

 僕が二人分の弁当を、君がふくれっ面でウーロン茶入りの紙コップを持ってスタンド入口の階段を上りきると、そこには日常では味わえない、人工物ではあるが、とてつもなく広い空間が二人を迎えてくれる。

「わあ、すごーい、人がいっぱい!」

 機嫌を直した君の表情が上気している。

 場内の熱気を身体正面で感じた後、係員に訊ねることなく僕は当該番号辺りの座席を見上げた。今年六回目なので、場所は覚えている。二階席スタンドのやや下よりの場所に内野から外野方向まで続く長い通路がある。そこから少しイイ席はグランドに向かって下り、価格の安い席は後方に上がる。僕たちの席はダイヤモンド内側よりの通路から十列程後方の位置にあった。下る方の斜面は緩やかだが後方の斜面は勾配がやや急になる。グランド側を向いて立ち上がると、慣れない間は簡単に転げ落ちそうな感覚に襲われる。梨子はちょっと怖いねと言いながら僕の後ろを付いて上がる。勝手の分からない梨子を先導してはいるが、またしても君の少し短いスカート丈が気になっているのは言うまでもない。もしも次があったなら絶対前を歩かせようと、心の中で意味のない誓いを立てた。席は列の一番端二つ。僕は階段を一段余計に上がり、梨子に奥の席に座るよう促した。座るや否や、君は背筋を伸ばし小さく見えるダイアモンドを大きな瞳で見つめた。

 巨人先発ピッチャーは予定通り腰に不安を抱えているエース須賀野。僕がお目当ての選手もほぼ名を連ねている。

 梨子のはしゃぐ声に反応して 前席に座る会社帰りのサラリーマンらしき二人組の一人が後ろを振り返った。当然視線は長い時間梨子に釘付けになる。舐めるように君を見つめるサラリーマンに文句の一つも言いたかったが『減るもんじゃない』という言葉に免じて密かに睨みつけるだけにした。

 かといってそいつに対して無関心ではいられない。今日の要注意人物だ。

 場内が試合開始に向けて盛り上がりを見せる中で、僕は試合前のレクチャーを始める。

「須賀野は巨人のエースだけど、今腰に不安を抱えていて成績も伸び悩んでいる。立ち上がりがすんなり終わるとその後は簡単に長いイニングを無失点で切り抜けられるんだけど、ダメだった場合は粘るけれども時間がかかるし球数も増える。更に失点もする。負のスパイラルだ。そうなった時が凄く心配なんだ。最初のイニングが注目だね」

「イニングって何?」

「スリーアウトで終わる一つ一つの回のことさ」

「じゃあ、まずは一回だね」

 眉間に可愛い皺をよせ、通ぶって君は腕を組んだ。コミカルに見えたそんな仕草も微笑ましい。僕の解説を興味深く聞いてくれている。誰にも披露することなく貯め込んだうんちくの蔵出しにも拍車がかかりそうだ。

「試合に先立ち国歌演奏を行います。皆様ご起立下さい」

 試合は毎回厳かに始まる。君も慌てて立ち上がる。そして目をつぶった。黙祷じゃないから目は開けていいよと耳元で囁くと君はおどけて舌を出す。

 球審によるプレーボールの声が掛かり、固唾を飲んで先頭バッター西河を見守っていると、何とか凡打に打ち取った。しかし安心したのも束の間、伏兵で名二塁手の木口に先制ホームランを叩きこまれた。

「あ~」

 紘島ファンが陣取るライトスタンド側で歓声が爆発し、それにかき消されるように球場全体にため息が漏れる。

「あー何やってるんだよ。ホッとしてるとあいつは危ないんだ。ホームランバッターじゃないのに時々ああやって狙ってくる!」

 負けている時の荒っぽい愚痴は僕の定番だ。その状況の方がむしろ饒舌だと自覚している。試合開始早々、その本領がいきなり全開だ。

「野球観てる時の実クン、急に人が変わるね」

 梨子がすかさず呟いた。

「どういうふうに?」

「もうなんかイライラしてるみたい」

 日頃の不満がそうさせるのかも知れない。

「いつもそうじゃないよ。勝ってる時は機嫌いいし。でもこの場面は気をつける状況だって素人が観ていても分かるのに、それをどうしてできないの?っていつも腹立つんだよね」

「ふうん、でも発散できることがあるっていいよね」

「負けてたら逆にストレス溜るけどね」

「でもまだ分からないでしょ?」

「まあね、だけど永年観てると先が読めちゃうんだよね。こうなったら次はああなるとか悪い流れがね。それを打ち破るには劇的な事が起きないといけない。奇跡を起こすために梨子が勝利の女神になってくれるとイイんだけどね」

「ウフ、ボクきっとなるよ」

「俺もそう思う。ビギナーズ・ラックってあるからね」

「あっ、俺って言った。実クンカッコイイ!」

「俺に言わせれば坂元の方がぜんぜん格好いいけどな」

「でも、まだボク、サカモトのカッコイイトコ観てないから、ボクまだ実クン!」

「もし、ホームラン打ったら僕から坂元に寝返る?」

「うん、サカモトと寝てもいい」

「何でそうなるの?坂元と寝ろとは言ってないよ!」

「でも、ボクが寝たくなったら『寝て』もいいいよね?」

 変な方向に進んだ会話を前席のサラリーマンは聞き逃さなかった。振り向いて怪訝そうに二人を見る。

 マウンド上の須賀野は初回は何とかホームランの一点だけで切り抜け、下位打線を迎えた二回は無難に零点にまとめた。好調の時とは違う投球内容に不安を抱いていると、三回には勢いのある売り出し中の一番バッター西河にもホームランを許す。巨陣打線はと言えば紘島先発の野邑に球数は多く放らせてはいるものの粘り強いピッチングをされ、四回までをノーヒット零点に抑えられてしまう。梨子は場内にコールされたバッターの名前を連呼し、外野スタンドの応援団の歌に合わせて歌詞も分からず絶叫した。凡打すると、大きなため息をつき次のバッターの場内コールでまた絶叫が復活する。そんな君を見ているとにわかに昔の僕を思い出す。前回観戦した時、一人で来ていた十代らしき男の子が選手一人一人に絶え間ない応援歌の歌声と、エールを送っていた。静かに状況を把握したい自分としては、彼の行動や声がとても煩わしかった。でもそれは、少年時代の自分と同じで、思惑や駆け引きなどに囚われない、好きな球団の選手を精一杯応援したいと思う純粋な心の表れなのだと、梨子を見て改めて気付かされた。

 君の生き方に僕はいちいち動かされる。

 しかし『それはそれ』だった。

 監督もかつて輝かしい戦績を数多く残している名将に替わり、今年こそはと期待して観に来たのに、序盤は昨年と何も変わらない悪い流れ。このまま徐々に点差を広げられ成す術なく終わるパターンだ。隣りに梨子がいるのに僕はいらだちを隠さなかった。実クンて負けてる時、いつもこうなの?と、珍しく眉を下げ、心配そうな表情をした。そうじゃないと、なだめるように話し掛け、僕は続けた。

「ここ何年かは巨陣は紘島に全く歯が立たない。昔から紘島ファンの応援は見ていて腹立つくらい歯切れが良くて統一感があった。でもそれはレフトスタンドの一部だけだから、大目に見られた。ところが紘島が強くなるにつれ東後ドームにも紘島の隠れファンが急激に姿を現すようになって、スタンドの左半分全てを占拠し始めた。その統一感のある応援が負けてる時は特にしゃくに障るんだ」

 たかが趣味の野球観戦なのに、こんな不満を誰かに吐露したことはなかった。でも君には素直な気持ちを伝えられた。嘆いてばかりいる僕の姿を見て、君はだいじょーぶだいじょーぶ勝利の女神が付いてるからと何度も励ました。すると僕のいらだちは自然に消えていった。こんな風にいつも試合を観られるなら負けてもストレスは溜まらないのになと素直に思った。

 三回表が終了すると、エンジェルズが登場しダンスを踊って巨陣選手を応援する。エンジェルズというのはそのメンバーを巨陣軍が毎年公募する、簡単に言うと公式のチアガールだ。

 黒とオレンジの球団カラーを基調としたオリジナルのコスチュームで登場し、一塁線と三塁線のファウルゾーン、それに巨陣の応援団が陣取るライト側の外野スタンド前に並びそれぞれ観客席に向かってダンスを披露する。彼女たちは、五回裏攻撃前のちびっ子ファン参加のアトラクションと、七回裏攻撃前の巨人軍の伝統的な球団歌を合唱する際にも登場し、試合に華を添えている。

 君は彼女たちが登場すると食い入るように見つめていた。憧れを抱いたのか、大きな瞳が潤んでいるようにも見えた。

「その内エンジェルズ受けてみれば?梨子ならオーディション絶対合格するよ」

 君なら絶対だ。本当にそう思う。その暁には年間シートを買ってもいい。

「ボク、踊りダメなんだ」

 意外な返事に、思わず梨子の顔を覗き込んだ。

「なんで?梨子、運動音痴なの?」

 ママはスポーツ万能なのに?と頭に浮かんだ言葉は、梨子を傷付ける可能性があるので呑み込んだ。

「そうじゃないの。ボク、激しい運動ママに止められてるの」

「何かの病気なの?」

「そんな感じ……」

 珍しく遠くを見た。

 もしや、医学部を目指す理由は君自身にある?

「今度生まれ変わったら、実クンの言うようにエンジェルズに挑戦してみるよ」

 梨子の人生はこれからなのに、なぜ来世の話をするのか不可解だった。寂しそうにしている君が気になった。そんな梨子をもっとよく知りたい衝動にも駆られた。でも落ち込んだままの君を見ていたくはなかったから、その話は強引に打ち切ることにした。

「激しい運動がダメならセックスもダメじゃないの?」

 和ませようと僕は耳元で囁いた。

 曇った表情に笑顔が戻る。

「それは大丈夫!」

「どうして?」

「セックスはあんまり体力使わないから。それに実クンとだったらなおさら使わないからぜんぜん平気!」

 耳元で囁く。

「それ、どういう意味だよ?」

「下手クソだってこと」

 そう言うとトイレトイレと逃げるように階段を下りて行った。

 あれこれ詮索するのはやめよう。一緒にいる今が楽しければそれでいいんだ。

 君の後ろ姿を見てそう思った。


 四回まで試合が終わり、悔しい思いのままひと息つくことにした。試合がいい方向に向かったらありつこうと我慢していた弁当を食べるように梨子に促し、僕はそのための常連のビールの売り子クンを探した。

 イニング合間の秩序ない歓声の中、近くに来た売り子クンを見つけ、手を上げた。彼女は何シーズンもかけて(妄想だけど)密かに狙いを付けている。気づいた顔に笑みを浮かべ彼女は階段を駆けるように上がってくる。最近はヴィジュアル重視なのか細身でアイドル並みの容姿を備えた売り子クンが目立つ中、彼女は異色だ。骨格が太くガッシリした印象を持つ。大きなタンクを背負って歩き回るにはむしろその方はいい。決して美人とは言えないが、若手女優の本○翼に似てなくもない。その他大勢には入らない彼女の魅力を僕は気に入っていた。額に薄っすら汗が滲み、頬は健康的な赤みを帯びている。

 いつしか試合観戦の目的の半分が彼女に会うことになっていたのは、偽らざる事実だ。

 売り子クンはプラスチックのコップにタンクからのビールを注ぎ入れながら、話し掛けた。 

「この子、娘さん?おとうさん、こんなかわいい子いたの?連れて来たの初めてだよね?」

「そ、そうなんだ。全然興味なかったのに急に野球観たいって言い出して……」

「よろしく~。いつもパパ……じゃなかった父がお世話になってますぅ~」

 君はおおげさな演技で愛想よく返した。

「でも、ドームでセーラー服って目立っちゃうよね」

「そ、そうなんだけどね、学校から直だったから着替える時間がなくて……」

 苦しい言い訳も場内の騒音が少しだけかき消してごまかしてくれた。そのリボンすごく可愛いねと売り子クンが褒めてくれると、決して演技ではない素直な笑顔を君は届けていた。

「帰り、変な男に連れて行かれないように気をつけてね」

 話しを続けながら慣れた手つきで職務を全うし、売り子クンはビールを手渡すと、また来るねと笑顔で去った。いつもなら交わす言葉は一言二言。梨子のお陰で会話が弾んだ。

 痛しかゆしというところか。

 三回、四回と須賀野のピッチングは落ち着きを見せた。守りの時間が短くなると、攻撃のリズムが良くなる。これは野球ファンなら誰でも知っているジンクスだ。

 五回裏。今の流れから考えると反撃するには絶好のタイミング。しかし下位打線からの攻撃で先頭バッターはキャッチャーの小森。

「小森は今日先発の紘島の野村と同期で、高校野球で有名な広島県の強豪高校でバッテリーを組んでたんだ」

「バッテリーって何?」

「ピッチャーとキャッチャーを一まとめにした呼び名がバッテリー。そのコンビで共に戦うことを『バッテリーを組む』って言うんだ」

 君はふうん、メモしとこと言って左の手のひらにメモする真似をした。 

「それで二人は甲子園で活躍したんだ」

「今は敵味方に別れて、戦ってるんだね」

「でも、活躍度合いから言うと、今は一歩も二歩も野邑の方がリードしてるかな。紘島の優勝に勝ち星で大きく貢献してるからね。小

森は肩が強いから盗塁阻止率が一番で守備には定評があるけど、バッティングはからっきしで、意外性はあるけれどコンスタントに打てない。野邑にも対戦成績で分が悪い。ここで意外性が出たら面白いんだけどね」

「実クンの今の解説で盗塁阻止率だけ分からない」

 君は真剣な表情で顔を近付ける。

「盗塁って分かる?小森は他の球団のキャッチャーと比べて盗塁した時にアウトにできる確率が高いってこと」

 いちいち脱線するが、それがまた楽しいと感じた。

「分かった。じゃあ、ここであんまり打てない小森が打つと、面白くなるってコトだね」

「そう」

 梨子は頭の回転が速い。

「イケーッ、コモリ打てーっ!」

 君の声が聞こえたように小森は初球を叩きヒットで出塁した。出会い頭のようだが結果オーライだ。

「実クン、コモリが出たよ、意外性が出たよ。行けるかな?」

 君は両手で僕の左肩を揺らして言った。

「問題は須賀野だな、きっちりバントできれば、しかも初球に一発で二塁に小森を送ることができれば流れがグッとこっちに来る」

「スガノーッ、一回でバント決めろーっ!」

 すかさず君は声援する。そして再び君の声が届いたように、ボールは一塁線に緩やかに転がった。

「いいぞスガノ、ナイスバント!」

 その時梨子がすっかり野球に溶け込んだと感じた。素晴らしく吸収力ある生徒は先生も教え甲斐がある。

 観客が須賀野に惜しみない拍手を送る。いい流れがいいプレイを生む、好循環が次のバッター金井の後押しをし、すぐさまライト前にタイムリーヒットを放つ。

「きゃーカナイ!いいぞっ!おしっこちびるーっ!」

 おしっこちびるって、そんな言葉どこで覚えたの?

 君の声援が周囲のファンの暖かな笑いを誘った。他人をも巻き込んで君はすっかり野球ファンの仲間入りだ。みんなと一緒にオレンジ色の応援タオルを頭上で振り回しついでに笑顔も振りまいている。君を見て和まない人間はいない。君のおおげさな仕草も口を付いた突拍子もない声援も、可愛い娘だからみんなが寛容に受け入れる。

 大興奮の中、坂元のコールで再び大きなうねりが押し寄せる。

「ワー!キャー!サカモトーッ!」

 鼓膜が破けそうな絶叫に、僕は思わず顔をしかめた。

「ねえ、つぎ実クンが大好きなサカモトだよ。打つかな?打つかな?」

 君は僕の左肩を両手で掴み、さっきよりも激しく上下に揺らして再び叫んだ。勝負強さはセ・リーグ、いや球界一だと惚れ込んでいるからこの場面いい結果を出す確率は高い。予感はしても口に出して断言することは滅多にない。けれども、隣りにいる梨子ののめり込みようを見て、ここは場を盛り下げる訳にはいかない。

「絶対打つ!」

 そして僕はすぐさまアドバイスした。

「坂元は甘い球が来たら、初球からでもフルスイングする。だから見逃しちゃダメだよ」

「分かった。ボク、見逃さない!」

 そう言うと、君は大きな瞳を親指と人さし指を使い、更に大きく見開いた。前の席のサラリーマンが声を聞いて振り向いた。要注意人物のサラリーマンは君の仕草にクスリと笑っていた。

(!)

 僕の予言は見事に的中。

 宿敵紘島のエース野邑の初球を坂元は見事に叩いた。打った瞬間の淀みのない豪快なスイングの後、大歓声をも凌駕する空気を切り裂く乾いた打球音が轟くと、巨陣ファン誰もが逆転ホームランを確信した。

 打球の行方を最後まで追えなかった。初めて見る歓喜の打球を君も見失っていた。けれども爆発した球場全体の絶叫で、僕たちは飛び上がった。

 坂元がダイヤモンドを回る間、歓声は鳴り止まず、ホームインした後も、オレンジ色のタオルは何分も頭上で渦巻いている。

 オーロラヴィジョンがヒーローを大映しにする。最初は打った瞬間から打球の行方を追っていた。ボールはスタンド後方の看板に直撃し、紘島ファンが陣取るレフト外野席に落ちた。オオッと感嘆の声に続き再び大歓声が上がる。続いて映像は打った瞬間から走り出すまでの坂元の姿を追った。バットを放り投げながらベンチに向けて彼が放つ笑顔を含んだしたり顔は、いつ見ても惚れ惚れする。

「ワーッ!キャーッ!×○▽□ーッ!」

 君は何を言っているのか分からないほど興奮していた。

「こういう処へ来ると、またアレとは違う興奮があるだろ?」

 エロが移ってしまった。ビールの酔いも手伝って、らしからぬ言葉で本音を口走った。

「うん、セックスでイクのもいいけど、こういうコトで実クンと一緒に興奮するの、すごくイイね!」

 わざわざオブラートに包んだのに、君は飾らない言葉で本音を言う。前列のサラリーマンが怪訝そうな顔で振り向いた。僕は気づかない振りをしてタオル回しに加わった。君はわざと意味深な言葉を使い、周囲の反応を楽しんでいるのか?しかし何事にも動じないしたたかな君にも、僕は魅力を感じてしまう。

「サカモトすごーい!約束通り君と寝てもいいよーっ、でも、実クンの方がもっとすごいけどねーっ!」

「何言ってるの?それに約束なんかしてないだろ!」

 君は立ち上がり、あられもないセリフを口走る。僕は慌てて梨子を制止し、座らせた。

「そうだっけ」

 君はおどけて舌を出す。確信犯だ。

「ねえねえ、実クン」

 君は右手を口に添え、ヒソヒソ話しのポーズをとった。親子の設定はいつの間にか取り止めになっていた。僕も途中で忘れていたから、もうどうでもよかった。

「興奮したらさ、セックスしたくなっちゃった」

 君は突然始まった。でも気分が良かったから君の誘いに僕も乗ってしまった。

「坂元と?」

「違うよ……。実クンも言うね!」

「梨子に鍛えられたからね」

 顔を見合わせて二人は笑った。

「実クンと、このドームの中でシタい」

 君は耳元で囁いた。そんなこと出来る訳がないけれど、一瞬頭の中で想像してしまった。

「あ、今想像したでしょ?」

 また見透かされた。

「想像したけど今はヤラない。まだ試合終わってないし、この先まだ分からないし、こんな時にそんな気になれる訳ないだろ!」

「それじゃあ、後でスル?」

 君はいたずらっ子の目をして耳打ちした。

「考えとくよ」 

「期待してるよ」

 はぐらかした積りが鋭く切り返され、心の中で狼狽えた。

(そんなこと、できるかなあ・・・)

 グラウンドから目を逸らした一瞬の隙を突き、円が凡打で倒れた直後、岡元のバットが快音を響かせる。ボールはあっという間にバックスクリーン左に吸い込まれた。

「きゃー、オカモトもいいぞーっ!」

 君はオレンジのタオルを振り回し、少し前に聴いたばかりの勝利の歌の合唱に加わっている。生徒の成長はあっと言う間に先生の手を離れた。

「実クン、目をそらしちゃダメでしょ。さっきボクに言ってたじゃん、岡元は誰かが打った後にどさくさ紛れで打つって」

 確かにそうだ。決定的瞬間を見逃した。夜中のスポーツニュースで岡元の映像は見られるかも知れないが、リアルタイムの体験は今しかないのだ。しかも君に乗せられよからぬ思いを巡らせている間の出来事。僕は首をうなだれた。

「先生、気を落さないで。後でボクが慰めてあげるから」


 そんな君の耳打ちで気を取り直してしまう。僕も頭の中は例外なくエロだらけだ。


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