夢のようなひととき。Part-2 プロ野球観戦 ~甘いお開き~

 六回には一番金井が2ランホームランを放ち、点差は四点に広がった。先発須賀野は悪いなりにも投球が尻上がりに良くなり、七回を二失点にまとめてマウンドを降りた。さすがエース!とまるで昔からファンだったように、悠然とベンチへ歩く須賀野に向け、君は大きな拍手を送っていた。

 しかし僕にはまだ試合展開に於ける懸念材料があった。『逆転の紘島』と言われるくらい相手チームが気を許してからの反撃には定評がある。ほんの少しの綻びに紘島打線は付け入ってくる。梨子にもそんなレクチャーをした。それからの君は守備につく巨陣ナインも応援した。ピッチャーがストライクを取る度に精一杯拍手をし、野手が凡打を難なく処理し危なげないアウトを取ってもいいぞーっと声援を送る。するとその後の巨人は守備でも全く隙を見せず、中継ぎのサウスポー那珂川、九回クローザーの外国人ピッチャーデラクルスも紘島打線に一本のヒットを与えず。我が巨陣は紘島から数年ぶりに胸のすく完勝を手に入れた。

 巨陣が勝利した後のドームは更にセレモニーが続く。自軍の勝利に貢献した選手がお立ち台の上でヒーローインタビューを受ける。今日立つ選手の一人はもちろん坂元で、もう一人は粘りのピッチングをした須賀野だった。今の巨陣を引っ張る最強のコンビ。こんなシーンはテレビ観戦でも滅多にお目に掛かれない。間近で拝めるのは奇跡に近い。巨陣ファンの観客はほとんが残ったまま勝利に酔いしれ、喜びを共有していた。 


 ヒーローインタビューの後はエキサイティング・シートフェンス際に並ぶ多くのファンとハイタッチをし、場内を一周してサインボールをスタンドに投げ入れるため、オープンカーに乗り込む。エンジェルズはその間もセレモニーに華を添え、最後の伝統的球団歌の大合唱にもダンスで参加していた。翌日は休みなので二人は最後までセレモニーを見届け球場を後にした。前列のサラリーマン二人組は気がつくと、既に帰っていた。ネガティブな深読みは、多くの場合、実際にそうならないためのおまじないのようなもの。僕にとっては特別の日に、何事もなく済んだのは何よりだった。

 出口の回転扉の列が長蛇になっていた。その右隣りで開放している両開きの扉は、ドームの屋根を空気圧で膨らませているため、腰を落して構えないと転倒しそうな強風が外部に向かって吹き続ける。少し時間を要するが危険を回避するため長蛇の最後尾に付こうとした時君は言った。

「ねえ、こっちから出ようよ」

「そっちは危ないからダメだよ!」

 制止を聞かず君は歩き出す。確かに危険ではあるが、本音を言えば、梨子が通ると強風で他の男を楽しませてしまうのが許せない。楽しませるのは僕だけでいい。そんなエゴを見透かすように君は僕を困らせる。

「ダメだって!」

「キャー、すごいすごい!」

 黒地に白の三本ラインが入ったセーラー服の襟が立ち、胸の青い大きなリボンは今にも飛んで行きそうに、斜めに激しく揺れていた。丈の短いスカートの捲れ方も尋常ではない。少女の奇声をキャッチした輩は素早く振り向き、君のあられもない姿を固唾を飲んで凝視している。当然下着は丸見えだ。

 慌てて後ろに張り付き、君の肩を両手で抱えながら、風の通り道から身体をそらした。

「下が丸見えになるから、ダメだって言ったのに……」

 君の興奮は納まらない。

「すごい風だね。どうしてこうなるの?」

 君の瞳はこんな事でもキラキラ輝く。

「ドームの屋根は空気圧で膨らんでいるからドアを開けると、風船から空気が漏れるみたいに風が吹くんだ」

「屋根はしぼまないの?」

「僕たちには分からないくらい凄い圧力で空気を送り込んでいるから小さな扉が開くくらいじゃあの大きな屋根は縮まないはずだよ」

 っていうか・・・

「そんなことはどうでもいいよ。急に駆け出したら危ないだろ。周りの男を楽しませちゃったし!」

「別にいいじゃん」

「『減るもんじゃないし』だろ!でも減るものじゃなくても、ダメなものはダメなんだ。お前がオープンだと勘違いする奴らが出てくる。梨子が危険に晒されるんだ。そんなことで自分の身体を安売りして、自分を危険な目に遭わせるな!」

 熱く説教してしまった。これもビールが為せる業か?でも本音は言えない。

「実クン、やいてんの?ボクのコト、お前って言った。その実クンもカッコイイね」

 君はいつでもはぐらかす。

「でもボク、実クンに安売りしてるけどね」

「俺は危険なの?」

「危険じゃないよ」

「だろ、で、何で危険じゃないの?」

「セックス下手だから!」

 君は大声で叫び、その場から駆け出して距離をとった。周囲の人たちが振り返る。追いかけると僕が下手を指摘された人間だと思われるので仕方なく立ち尽くして、不穏な空気が納まるのを待った。

 君の切り返しには全く敵わない。


 それにしても、下手だ下手だって何回も言うな!


 両手を広げて降参のポーズを取ると、君はしたり顔で駆け寄ると、何も言わずに並んで歩き始めた。

 地上に向かう長い階段をゆっくり下りながら僕は言った。

「今日の野球どうだった?」

「うん、とっても楽しかった!」

 君は最後の数段を小走りで駆け下り、振り向きざま僕を笑顔で見上げた。まるで幼い少女のようだった。

「梨子、ありがとう。君はやっぱり勝利の女神だった。こんな気持ちいい試合は滅多にないよ。奇跡に近い」

 三杯飲んだビールの酔いが僕の口を滑らかにした。二人は並んでゆっくり歩き出した。

「そんなこと実クンに言われると、なんだか照れくさいね。でも実クンと一緒に来れて、実クンがすごく喜んでくれるの、ボクもとってもうれしいよ」

 君ははにかんだ笑顔を見せた。こんな夜更けを歩くセーラー服は色々な意味でやっぱり危険だ。でもその時僕は不覚にも衝動が心に湧いた。

「……」

「あっ実クン、今シタいって思ったでしょ?」

「思った。思ったからって直ぐヤレないよ。結構疲れちゃったし……」

「ねえ、男の人ってさあ、すごく疲れた時にもボッキするんでしょ?それ、『疲れマラ』っていうんだよね?」

 囁くように耳打ちした時、君が繰り出す隠語にはもう驚かないと心に決めた。

「あっ!ドームの中でスルの、忘れちゃったね」

「試合に集中してたからね」

「スルつもりだったの?」

 僕は君の言葉を無視した。今思いついた行為ををすぐ実行に移したかったから。

「梨子、手を繋いでいいか?」

「えっ!手を繋ぐの?」

 君は少しはにかんだ。

「梨子と、違う部分は何回も繋がってるのに、手を繋いだこと一度もない気がする」

「そうだね、どうしてかな?『違う部分』はいっぱい繋がってるのにね!」

 君が僕の顔を覗き込んで微笑んだ。卑猥な行為を連想させる言葉が飛び交う会話は駅へ向かう雑踏の中で何をはばかる事もなく続いた。もう人目なんてどうでもよかった。二人がどう思われようと関係ない。僕たちが楽しければそれでいい。援交少女とエロおやじでも何でもいい。どんなエロ話でも楽しそうな君を見ていれば、誰も通報したりはしない。

 君は僕に身体を密着させ、特別な関係の二人でしかしない、特別なかたちで手を握った。

(!)

「あっ、思い出した。君と出会った最初の夜恋人つなぎしてた!」

「『君』はダメ!梨子だよ!」

「ごめん」

「でもそうだよ、あの時したよ。実クン忘れてたの?」

「怪しい女の子だと思って半分気が動転していたから、記憶が飛んでた。でも……」

「でも、なに?」

「でもあの時は一方的だったけど、今は違う」

「何が?」

「僕は今、本当に梨子が愛おしいと思っている。梨子も僕に最初以上に好意を抱いていると思える。だから繋いだ時に感じる温かさがあの時とはぜんぜん違う。今俺、なんかカッコつけちゃってるかな?」

 僕は恋人つなぎに力を込めた。臭いセリフが淀みなく零れた。

「ううん、カッコつけてないよ・・・。うんそうかも知れない。今の実クンの手に最初の時とは違う温かさ、ボクも感じるよ」

「心が通じたってことかな」

 梨子の指先にも力がこもった。二人は顔を見合わせ、示し合わせたように口元だけで笑みを浮かべた。

 しばらく黙って歩いた。僕より少し背の高い君が、僕の肩に頬を寄せた。今僕の身体の中に絶頂感が押し寄せている。射精する直前に近い感覚だ。君と手を繋いでいるだけなのにイキそうだ。でもそれは射精とは違う、刹那ではない幸福感のような気がする。こんな感覚は初めてだった。射精でなくても男だってイケるのだ。この前梨子には『手を繋ぐだけでも幸せになる』って言い放ったけど、本当にそうなった現実に驚いていた。しかしこの幸福感は、刹那が表すほど短くはないが、きっとそう長くも続かない。それは断言できる。君と僕ではバランスが悪すぎる。それでいい。この幸福感に限りがあるなら、消えて無くなるまで、精一杯浸っていたい。ボクも今日初体験したから疲れちゃったと君はわざと意味深に呟く。君のどんな言葉も今は愛おしいと思う。

「あっ、それで実クン、中でヤル積りだったの?だったらどこかでヤろうよ!」

 後楽園の駅ビルを目の前にして、君が突然眠りから覚めたように叫んだ。

 僕は足を止め、いらだった。

「もう、梨子はセックスでしかイケないの?」

 崇高な想いに浸っている僕を君は無邪気にかき回す。

「実クン、何怒ってるの?せっかくヤろうって言ってるのに」

「ごめん、何でもない。近くにあるホテルにでも入る?といってもこの辺に土地勘ないしなあ」

 セーラー服にこの誘いは明らかに犯罪だがもう止まらない。

「ねえ、あそこはどう?」

 君は東後ドーム後方を指差した。

「ドームホテルなんて無理だよ。それに部屋があったとしても、休憩なんて時間設定ないからね。そんな持ち合わせもないし」

『休憩』って知ってるかな?

「そうだよね、ラブホじゃないもんね」

 知っていた……。

「ああ、そんなコト考えてたら、すごくしたくなった。我慢できない。実クン、トイレでスル?」

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「だったら探して何処かで『休憩』しようよ。俺もシャワー浴びたいし」

「ねえ実クンてさあ、どうしてもちゃんとしてからじゃないとセックスできないタチなの?」

「普通はそうするんじゃないの?」

「それって『さあ、子作り始めましょう』って言う夫婦の営みみたいでイヤじゃない

?」

 その考えは偏っている気がするし、汚れたままヤリたガールもどうかと思う。それになぜ十代の少女が『夫婦の営み』という言葉を知っているのか?

「トイレで立ってするの、ヤッてみたかったんじゃない?」

「ビデオのシチュエーションとして見る分にはいいけど、落ち着かない場所でヤリたいとは思わない」

 二人はペデストリアン・デッキの欄干にもたれ、顔を近付け言い合っている。それは決して恋人の戯れには見えない。きっと援助交際のパパと少女の痴話喧嘩だ。

 アンバランスなカップルを客観視する癖は治らない。でも何度も言うが、他人の目はどうでもいいと開き直っている。

「それじゃあ、分かった、こうしよう。ヤリたくなったからって所かまわずすぐスルっていうのは、サカリの付いた動物と同じだし、僕はそのシチュエーション好きじゃない。だからこれから急いで部屋に帰って、その間ヤリたい気持ちを我慢して、その盛り上がりで爆発するっていうのはどう?そうしたら梨子の言うようにシャワーを浴びないでそのままスル」

 分かった、じゃあ急いで帰ろうと、君は僕の手を取り走り出した。

 帰りの東京メトロ南北線は意外と混み合っていた。深夜近い週末は、誰もが羽目を外した後だから、普通に遊興帰りの客も多い。二人は車両の中央に追いやられ、近い距離で向かい合って顔を見合わせている。元々悪そうな顔色を更に不健康に赤らめ、衣服を乱れさせているサラリーマンも多い。アルコールが苦手な人たちには、ここが酒臭い地獄の空間に変貌していたに違いない。僕もその一員だから既に嗅覚が麻痺し彼らの苦悩は残念ながら分からない。申し訳ない思いを抱きつつ君を見れば、周囲の様子は全く気にせず笑顔をたたえたままだった。わざと唇を近付け今にもキスしそうな仕草をする。慌てて距離を置こうとする僕を楽しそうに見つめている。既に予約されている、これから起こる楽しいコトにもう心が飛んでいるようだ。苦しい状況に置かれた時、そういう気持ちの切り替えは大事だと素直に感心した。

 重い足取りでホームに降り立つ僕に、構わず君は軽やかなステップで改札に向かった。のろのろと改札を通る僕を見て、君は早く早くと右手を真っ直ぐ前に差し出し、小刻みにその場で跳ねて手招きをした。紺のプリーツスカートが楽し気に揺れるその姿は、まるでアイドルの振り付けのように可憐だった。

 梨子に手を引かれ、転げ落ちそうになりながら駅の階段を降りる。自分だけなら深夜でもバス停に並ぶのだが、はやる君の気持ちを優先して、乗り場に待ち人がいないタクシーに素早く乗り込んだ。程なく部屋の前に到着。ワンメーターで済む距離だが深夜料金が割り増しされていた。小銭を取り出し、料金を支払う僕に、先に車を出た君が早くしようよ早くしようよと急いている。運転手は怪訝そうな顔をしながらも僕が丁寧にお礼を言うと笑顔でドアを閉めた。

 梨子は部屋に向かって走り出し、合鍵でドアを開け、素早く廊下の明かりを灯す。まるで勝手知ったる我が家のように、君は脱いだ靴を跳ね飛ばしたまま、奥へと駆け込んだ。

 やれやれと、梨子の靴を揃え、のそのそと中に入ると案の定飛び付き唇を塞いだ。僕は待て待てと一旦君の吸引を解く。ねえ、強く抱き締めてと離した唇が動く。僕はリクエストに応え君を強く抱き締めた。

「ありがとう。今日は楽しかった」

 僕の胸に顔を伏せたまま君は呟く。

「僕の方こそ。過去何十試合と観てきた中で最高の一日だった。それは梨子がいたからだし、梨子もいたからだと思ってる」

 自然に口を付いた文学的な言い回しに、君は顔を上げ、目を丸くして言った。

「実クンの言ってるコト、時々回りくどくてよく分からないけど、うれしかったってコトは分かった」

「へんなおっさんでごめんね」

「大丈夫。そのへんなおっさん、ボクはキライじゃないよ」

 君は微笑むと再び胸に顔を埋めた。

 二人はそのままソファに崩れ落ちた。

「キスしていいか?」

 僕は耳元で囁く。

「もちろんだよ、どうして今さらそんなコト聞くの?」

「だって酔っ払いだから」

 フフフと微笑む君の唇を塞いだ。

「口、臭いね」

「酔っ払いでごめんね。だから触れるの、軽くした」

「ボク、嫌いじゃないよ、この匂い」

「酔っ払いの臭さが好きなの?」

「ううん、実クンのこの感じが好き」

 君の唇が僕の頬に軽く触れ、三度懐に顔を埋めた。

「このまま、ボクを抱いててくれる?」

「いいよ」

 部屋の中に時計の針音だけが響いた。球場の熱気とは無縁なこの部屋に、穏やかで涼し気な空気が漂う。少女の髪から立ち上る汗まみれの匂いも、おっさんにしてみれば、夢のような天然の香水だ。僕はしばらくこの空間に浸っていた。程なく君はスースーとあどけない寝息を立てる。この展開は予測できた。

 梨子の寝顔に性欲は湧かない。

 僕の疲れもピークのようだった。明日は仕事の緊張感もない。不摂生ではあるがこのまま眠りに就こうと思った。水道の水をコップの縁まで勢いよく注ぎ込み、一気に飲み干した。衣服を脱ぎ寝支度を整える。ソファで脱力しているの女の子のセーラー服を脱がすのは大変だった。ハンガーに掛けた、青い大きなリボンが印象的な戦闘服からは、今宵の激戦を伺わせる汗の匂いが漂う。そのまま嗅ぎ続けていたい変態的な衝動に駆られるが、涙を呑んで除菌消臭剤を噴霧する。好んで着る僕のTシャツを頭から被せ、お姫様抱っこを試みる。君の身体は意外な程軽かった。長身とはいえ女の子だ。男の骨格に比べたら、芯は折れそうなほどか細いのだと改めて気づかされた。

 いつもの向きでベッドに寝かせ、隣りに横たわろうとした時、梨子の姿に違和感を抱いた。薄明かりの中、君の身体が透き通って見えた。横たわる身体を通して、敷かれたシーツの柄が確認できたのだ。僕は目を擦り、再び君を凝視する。するといつもの梨子が寝息を立ててそこにいる。

 僕も相当疲れていた。目の錯覚はそれが原因で起きたのだと、その夜は気にも留めなかった。

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