小悪魔アップダウン。 ~そしてアップ~

 目覚めると君はまだ僕の懐の中にいた。就寝した時とほぼ同じ姿勢で朝を迎えるのは実家で飼っていた猫が潜り込んで背中に張りついた時以来だ。スースーと可愛い寝息は続いている。興奮して眠れないのではと危惧していたが、思いの外熟睡できた。おっさん臭さが充満するベッドの中で、一味違う朝の香りは寝覚めを格別なものにしてくれた。

 出勤のため、昨日と同じ時刻にベッドを出ると、それに気づいた君は布団を跳ねて飛び起きた。

 僕の朝食は至ってシンプルだ。某スーパーマーケットのプライベートブランドである安価なマーガリン入りレーズンバターロールを一つと、ホットコーヒーしか摂らない。よって梨子に食べさせるのもそれしかない。しかも一日一個限定で過不足なく購入しているので週末にはプチ食糧難に陥る。

「実クン、これでお昼まで持つの?」

 君はなけなしの食料を無造作に頬張りながらしかめっ面をしている。

「デスクワークだからいいんだよ。それに元々朝は少食だし、食べ過ぎると基礎代謝がよくないから、おっさんはすぐ体重に反映されちゃうんだよ」

 寝覚めは良くても朝から頭のフル回転はいささか疲れる。

「ボクが明日から朝食作ってあげるよ!」

 昨夜と違う言葉を梨子は口にした。

「明日からって、昨日、僕が泊めるのは『今夜だけ』って言っただろ。それにこれからだったら家に帰れるじゃないか」

「君って言わないで、今は恋人なんだからリコって呼んで!」

 なぜかそこにこだわる梨子。

「昨日から実クンの恋人になって、セックスして、一晩寝たら意外と居心地がいいから、しばらくココにいてあげるよ。実クン、ドーテー解消したばっかで、まだまだヤリたいだろうし、それにボクが鍛えてあげたいからね。ママには莉美の家に泊まってるって言っとくから心配しないで。ママはボクが家にいない方がお仕事に集中できてイイみたいだからさ」

 モテないおっさんには夢のような話だが手放しでは喜べない、怪しい『甘い誘惑』だ。

「ママはそんなにユルユルな放任主義なの?娘が平気で如何わしいことしてるのに」

「大丈夫だよ。ボク、これでもママには信用されてるから。自分の行動には責任を持てって言われてるし、ちゃんとボクも自分がやるコトには責任持ってるから」

「僕との関係も責任持ってヤるの?」

「そう、責任持ってドーテー解消させたし、責任もって鍛えてあげるよ。実クン、意外と筋イイよ」

「何回も言ってるけれど、童貞じゃないって」

 君はフフフと笑うだけ。一体今まで何人と寝たんだ?と下世話な想像を巡らせてしまう。

 そこまで言うならと、安全に誘いに乗る方法を出勤の準備をしながら考えた。快眠した朝のトイレタイムは何かにつけいいアイデアが頭に浮かぶ事例を思い出し、駆け込んだ。

 十分後、臭いがこもるトイレを飛び出し、梨子に提案した。

「それじゃあ、こうしよう。僕は結婚していて娘がいて、たまたま僕の娘と梨子が仲良くなってウチの家に泊まることになった。そして何日か預かるからって梨子の家に電話する。だからママの番号教えて」

 思わず口にして、直後酷く後悔した。何十年振りかに華奈子の声を聞く口実としては妙案だと口には出したが、年頃の娘を持つ母親に対して、とても簡単には打ち明けられない犯罪行為を隠すのは大いに抵抗を感じた。

「ダメ。ママとはお話させない」

 ところが幸いにも、君の態度はまたしても一変していた。

「な、何で?昨日は『話せば』って言ってたのに」

「実クンがママと『復活』しちゃうのヤダもん」

「復活も何も、ふられたんだから何もないよ」

 何もアプローチしていないのをふられたって言うのだろうか?

「ヤダッ!大丈夫だから、電話しないで!」

 君は口を尖らせた。

 娼婦のような所業を続けた夜の君も、朝には子供のような純真な素顔を見せた。昨日出会ったばかりなのに、そんな君に僕は魅せられている。

「じゃあいいよ、好きにして」

「うれしい、ありがと。帰ってきたらまたいっぱいセックスしようね」

 君の頭の中の楽しいことはそれしかないのか。しかし、このギャップにも萌えてしまう。

「梨子、学校は?」

「行くよ」

「着替えとか、泊まるのに必要なものはどうするの?」

「帰ってきたらまた実クンのスウェット借りるからいらない」

「下着は?」

「う~ん、考えとく」

 君はそっぽを向いてセーラー服を着始めた。

「あっ、そうだ。ねえ実クン、ブルセラの染み付きパンティ、興奮する?好きなら何日かはいててあげるよ」

 君の頭の中のエロモードは朝も夜も関係ないの? 

「そんな趣味ないよ」

「あっ、そう。残念」

「オンナノコなら、身だしなみはきちんとして、清潔にしておかなきゃダメだろ」

「はいはい、分かりました、ご主人様」

 君はふざけた返事をした。

「ご主人様?」

「だって、ボクは実クンに服従してるんだから、ご主人様でもいいでしょ?」

 君は部屋の鍵が欲しいと言った。普通に考えたら無謀な要求だ。リスクマネジメントの観点から言えば、昨日知り合った少女に我が城を守る命を預けるなど無謀極まりない。けれども僕にとってのその言葉はまさに『天使のささやき』だった。合鍵を欲しがる女性なんて、ましてや誰もが認める美少女がそんなものをねだるのは後にも先にも梨子だけだろうと思った。真偽はともかく、僕に服従すると連呼する相手の要求を拒んで手のひらを返され、みすみす天使を手放す方が後悔が大きいと判断した。だから迷わず梨子に合鍵を手渡した。

 二人は部屋を一緒に出た。昨晩は気にもしなかったが、昼間は近所に梨子の存在が明るみになる可能性が大きい。僕は手首を掴み慌てて部屋の前を離れた。

 朝は極力身体を動かしたくないので、路線バスを利用する。出勤時は二系統のバスが五分おきくらいに来るので長い待ち時間にいらだつストレスもないし、駅に到着までの間は何も考えなくてもいいから意外に快適だ。

 ところが何でもない普通のバス停が異様な雰囲気に包まれていた。原因が梨子なのは言うまでもない。

 毎日見掛ける名前も知らないバス利用者は冴えないおっさんが美少女を連れている異常事態に驚きを隠せない。誰もが君を凝視する。

 それでも君は意に介さず、興味深く辺りを見回していた。隣りにいる僕の方が恥ずかしくなった。

 梨子が通り過ぎる全ての場所が異様な空気に包まれた。

 終点でバスを降り、まだ静かな商店街を通り抜け、いつもの駅から都内に向かう電車に乗り込む。苦しくなるほどギュウギュウ詰めでもないのに、梨子は両手で僕の身体をタイトに締め付け、その反応を楽しんでいる。そっぽを向いて平静を装うも、甘い香りと過度な密着が長時間続いたら、下半身が黙っていられない。

 電車がJR赤羽駅に到着すると、ひと息つけるだけの、スペースが確保できた。

「ボク、渋谷だからここで降りる。また夜ね」

 君はドアが閉まる直前、そう告げて電車を飛び降りた。ホームに立つ君はドアが閉まるまで僕に手を振り笑顔をふりまき続けた。応える僕を車内に残った乗客は怪訝そうににらみつけ、僕は思わず委縮した。


『あれは俺の連れだ!文句あるか!』


 君を繋ぎ留めておく自信がなかったら、そんな態度をとる勇気がなかった。でもすぐに後悔した。なぜ二人の未来を考えていたのだろう。僕は何を期待しているのだろう。今は間違いなく『連れ』なのだから、胸を張っていればよかったのだと。


 昼休み。君の制服が気になって会社のPCでインターネットを使って、画像検索した。程なく東○女学館だと判明。あのセーラー服は少女たちの憧れで、かなり人気があるらしい。

 相当歴史のある学校で、ホームページに掲載されている学生たちの画像は純粋で清楚な印象を受ける。俗に言うお嬢様学校のようだ。

 思い返すと君の立ち居振る舞いは彼女たちから明らかに逸脱している。

 例外として梨子のような(いい意味で)明朗快活な生徒もいるのだと僕は妙な感心をした。

 とはいえ、突然転がり込んできた小悪魔に振り回されながらも僕の気分は高揚していた。短期間限定の条件があっさり無期限延長に変更したのも自分にとっては事態が好転したとしか思えなかった。 退社時刻が待ち遠しかった。


 いつもより足早に改札を通り抜ける。駅前のコンビニで奇跡的に残っていた生姜焼き弁当を二つ買い込み、薄明かりの歩道を歩き始めた。


 夕食はというと、気が向くか、心や時間に余裕がある時は自炊をしている。しかしメニューは至って単純。作り置けるカレーにラーメン、うどんやパスタ等の麺類。某スーパーマーケットのプライベートの調理が簡単な肉類や魚類。レトルトの中華丼や酢豚。冷凍食品の餃子、唐揚げ、付け合わせ用のブロッコリーやほうれん草、それに納豆は常備。味噌汁はインスタント。ご飯だけはまめに炊く、といったところ。大概は残業も断続的にあり外食か弁当がほとんど。時々実家に帰って母親の手料理にありつくこともあるから、自炊と胸を張るには程遠いかも知れない。


 食には余りこだわりがない性格だから、手間取る作業はしたくない気分だった。その代わりに君のことを考えていた。また君に声を掛けられるかな、それとも部屋で待っているかな、と少年のように心が躍っていた。


 辿り着いた部屋に灯りは点いていなかった。

 玄関ドアは当然施錠したままだ。途中で声も掛けられてはいない。

 昨日とほぼ同じ時刻に部屋の鍵を開ける。一人の帰宅で、訪問者を速やかに案内する必要がないから室内の灯りのスイッチにはゆっくり手を掛けた。

 リビングのソファで何もせず一時間待ったが、君は戻って来なかった。

 テレビも点けず、二人掛けのキッチンテーブルに移動し、弁当を黙々と食べた。残ったもう一人分は、もったいないから明日の晩飯にしようと無造作に冷蔵庫に放り込んだ。

 こんな時は食にこだわらない性格でよかったとつくづく思う。

 部屋は二日ぶりに静まり返ったまま、時計の針音だけが響き渡った。

 まるで最愛の女性(ひと)を失くした恋人の気分だ。それからは何をしていても、君がいたひとときを思い出してしまう。ユニットバスの湯船に浸かると、泡まみれではしゃぐ君の姿が目に浮かぶ。買い置きのブラシを渡すと、寝る前の歯磨きはなぜか賑やかな鏡の取り合いになった。たった一日だったのに、出会ってたった十数時間だったのに、何日も何年も一緒にいたような大きな喪失感が心の中を覆い尽くす。

 少し心が落ち着くと小さな不満が沸き起こった。

 女は時々自分の言葉に責任を持たない。僕の大いなる偏見であることは許してほしい。

 君は『明日から』朝食を作ると言った。それは何日かいる積りの発言だ。他人(ひと)の言葉を深読みする自分としては、日本語を正しく使って欲しいと、まずそこに憤る。それにその気もないのに期待を持たせないで欲しいと怒り、その場合の落胆は非常に大きいし、何の取柄もないおっさんが、誰もがうらやむ美少女に懐かれる訳がない、身の程を知らない浮かれた自分が客観的に恥ずかしいと自暴自棄になる。後悔ばかりが大きくなる。分かっているのにハマってしまう気弱なおっさんをからかわないで欲しいと、空しく哀れな願いで幕を閉じる。

 独りで潜り込むシングルベッドがこんなに広いと思った夜はなかった。それほど君のインパクトは大きかった。何だかんだいっても結局僕は女々しい。

 昨日君がいた方向に身体を向け、ベッドサイドの灯りを消した。


 窓から差し込む朝の光を清々しい気持ちで浴びていた。目覚めた瞬間、二重カーテンの厚手の方を閉じ忘れていたとその時気付いた。

 ところが気分の落ち込みは不思議と全く感じられなかった。昨日の今日でどうして爽やかな朝を迎えられたのか考えようとした時、その理由が目の前にいた。梨子が僕の懐の中でスースーと可愛い寝息を立てている。一味違う朝の香りを再び味わい、頭の中は知らぬ間にクリアにされていた。

 こんなに素直に嬉しいと感じたことはなかった。

 徐に開いた大きな瞳が上目遣いで僕に語り掛ける。

「昨日はごめんね。よく考えたらボク料理作ったコト、全然なかったんだ。でも実クンに朝食作るって言っちゃったし。だから家に帰ってママに教えてもらって来た。時間がなかったから簡単なの一つだけど。玉子あるよね。ハムがあるの知ってたから、ハムエッグでいい?」

 常備していない玉子が偶然あることを、なぜか君は知っていた。

 言いたいことは山ほどあった。でも無邪気に微笑む君の広いおでこにゲンコツを落す真似をして、許してしまった。君はえへっと言って舌を出し肩をすくめておどけている。

 可愛い娘はやっぱり得だ。

 再び笑顔が見られただけで、僕は胸が熱くなった。ちゃんと連絡しろとか、ずっといて欲しいとか、僕の本音は封印した。君は僕に服従するとか言ってるけど、僕に君を服従させたり、束縛する権利はない。だけど、再び目の前に現われた君を見て、ふつふつと沸き上がる感情が僕を突き動かす。

 その権利をいつか獲得したい。

 初めて作ったハムエッグはぐちゃぐちゃに形が崩れてしまい、申し訳なさそうなフリをして君はおどけていたけれど、出来栄えなんてどうでもよかった。

 君がいるだけで僕は笑顔になれた。


 その後しばらく続く君との生活は息つく暇がなかった。

 そして不思議なことだらけだった。

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