2 うどん屋

 僕は夜の雑踏を歩いていた。ぼんやりと視線も定まらない感じなのに、ちゃんと前から来る人を避けている。なんとなくユリコの言っていたことが少しだけわかったような気がする。

 でもさ、今日はユリコとご飯を食べるはずだったんだ。さて、何を食べようか。ねえ、今日僕は何を食べようと思ってたんだっけ、ユリコと。テーブルの向こうにすわっているユリコを想像できても、テーブルの上に何がのっているものが想像できない。

 「ミシマ」おばさんの声がする。僕は「ミシマ」じゃないよおばさん。僕は立ち止まってあたりを見る。おばさんなんていないよ。白いかっぽう着を着たおばさんなんて。何でおばさんの声はかっぽう着を着てるの。

 僕の向こうにはユリコ。そしてその前にうどん。すんだつゆの関西風のうどん。僕の前にはカツ丼。そのとなりに小さい器に入ったやはり関西風のうどん。

 うどんを運んできたかわいい女の店員。そうか、その店員が「ミシマ」だ。テーブルを間違えておばさんに怒られてた。かっぽう着を着たおばさんに。ユリコが「かわいそうだね」とぼくに言った。

 やっぱり、一人でご飯はさびしいなあ。居酒屋でも行って軽く飲もうかな。でも、もっとさびしくなるかな。そういえばあの時ユリコと行ったうどん屋はどの辺だったろう。あの「ミシマ」という店員も気になる。まだいるだろうか。バイトのようだったけど。今日はいなり寿司が食べたい。たしかいなり寿司のセットもあったような気がする。

 僕がうどん屋に入ると、かっぽう着のおばさんが「お一人ですか」と声をかけてきて席に案内してくれた。店のすみの狭くて窮屈そうな席。一人だししかたないか。席について僕は店内をながめてみた。店内はそんなに混んでないようで空席も目立っている。

「ミシマ」という店員もいないようだ。やはりやめてしまったのだろうか。それとも今日はシフト外か。注文を取りにきたのはやはりバイト風の女性店員だった。

 僕はいなり寿司セットを注文する。さほど待たずに注文を取りにきた店員がうどんといなり寿司を運んできた。手際がよく落ち着いた感じで、かっぽう着のおばさんにも気にいられているのだろうか。

 僕がうどんをひとすすりして、いなりずしを食べようとしたとき、ざわざわとした音とともに誰かが店の中に入ってきた。

 そして次の瞬間かっぽう着のおばさんの大きな声が店中にひびく。

「ミシマー」そう呼ばれた店員は少し乱れたもんぺのようなユニフォームを着たままその場で小さくなっている。

「今何時だと思ってるの」かっぽう着のおばさんの怒鳴り声。

 どうやら「ミシマ」という店員はかなり遅れてきた様子。

「すみません」とほとんど聞き取れない声で言ったまま固まっている。僕は危うく落としそうになったいなり寿司にどうにかかぶりついて、うどんのつゆをすする。そしてうどんをひとすすり。僕は根っからの関東人だけど、関西風のうどんのつゆも好きだ。

 しばらくして、「ミシマ」という店員が僕の隣を通り過ぎていく。危なげにうどんを運んでいる。腰のあたりが僕のテーブルにぶつかりそうになる。

 「ミシマ」という店員のおしりとさっき僕がベッドに横たわったまま見ていたユリコのおしりとが僕の頭の中で重なっていく。体つきはそんなに似ていないような気がするんだけれど。

 僕はお皿に残っていたいなり寿司を口の中に放り込む。僕が顔をあげると、まるでスローモーションのように、先のテーブルにうどんを運んでいた「ミシマ」という店員が僕のほうに近づいてくる。映画のフィルムの一コマ一コマが現れては消えていくように「ミシマ」という店員の動きがとぎれとぎれに見える。

 この女性は本当に「ミシマ」なんだろうか。僕のほうにゆっくりと近づいてくる「ミシマ」という店員を見ながら僕は考えている。

 シニフェとシニファン。ふと僕は言語学に出てくる言葉を思い出していた。どっちがどっちかは忘れたけれど、言葉にはそのものを指示する、つまりそのものを他のものと区別する働きと、そのものが何であるか、つまりそのものの中身、内容、意味を示す働きがあるらしい。

 でも「ミシマ」って彼女を他の女性と区別することはできるけれど、彼女そのものについては何も意味していないような気がする。もちろん、彼女にミシマ「ユリコ」って名前がついていたとして、やはり「ユリコ」は彼女が何ものかを示してはくれない。それどころか「ユリコ」では今僕のほうに近づいてくる店員のことなのか、さっきまでいっしょにいた女性のことなのかさえ区別できない。ただ混乱するだけ。

 そんなことを考えているうちに「ミシマ」という店員は僕の横をすり抜けていく。

 僕は残っていたうどんをはしですくって口の中にいれた。そして器に残っていたつゆを飲みほしてしまう。すべては終わってしまった。

 僕は空っぽになった器と皿をながめている。

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