第2話 色々な僕
それから1ヶ月、僕はこれまでと同じように、職場の自分と、彼氏としての自分をこなして、生活していた。
仕事での自分は穏やかな気がする。毎日何時間もその自分でいなくちゃならないから、1番割く労力を少なくできるキャラになりきる。結果、穏やかで無口でポーカーフェイスな自分になりきっている。
「お先に失礼します」
「お疲れ様でしたー」
隣の席の、後輩がパソコンを見ながら声を掛けてくれる。この人だって、四六時中一緒にいるけれど、僕の正体を知らない。
職場のビルから出て、駅まで歩く。もうすぐ春だというのに、空気にはまだ冬の名残があって、風が痛い。ポケットに腕を突っ込みながら歩いた。
どこもかしこも、仕事帰りのサラリーマンで溢れている。みんな黒い服を着て、みんなジャケットとズボンと革靴を履いて、みんな同じような速さで歩く。
鋭い西日が眩しい。
僕の人間関係はほとんど職場と彼女で構築されている。その2つの自分になりきる時間は多いので、いつでも再現できるほど板についている。
駅の小さな改札口には、正面の窓から西日が溢れていて、同じような背格好の大人達が、みんなそこへ吸い込まれていった。僕もその1人だ。柔らかい、黄色っぽい光に包まれながら、早歩きで改札に向かう。
この駅の周りはビジネス街だから、みんなこの駅を使う。改札はほとんど列のようになって、僕は工場出荷される商品みたいに、半自動的に歩いていた。
電車に乗り込み、車窓に映る自分を見つめる。
職場で作った自分がぺりぺりと、シールを剥がすみたいに剥がれ落ち、白っぽいマネキンの肌が見える。僕にまとわりついていた自分の一部が剥がれて、取れて、僕はまた、ひとつのマネキンになった。
まっさらで、何の特徴もない、マネキン。
よく見ると、また、髪が少し伸びているように思えた。
髪を切りにいかなくちゃな。
混雑した車内から窓の外を眺めながら、そう、思った。
◇◇◇
「いらっしゃいませ」
春が少しずつ近づいて、風が段々と暖かくなってきた土曜日、2週間ほど前にできた新しい美容室に足を運んだ。
予約していた旨を伝えて、そのまま奥へ誘導される。
鏡にはいつもと同じ、マネキンが座っている。
「今日はどうされますか?」
今日は女性の美容師だ。30代くらいだろうか。茶髪のロングヘアを後ろで束めていて、まるで職人のようだった。
鏡に映るマネキンを見る。
相変わらずボサボサの、髪の長さを確認する。
「今よりちょっと、短めに切って欲しいです」
このくらいですか、と美容師が手を当てる。はい、と少し上擦った声で返事をする。
「かしこまりました」
新しい美容室というだけあって、店内はとても綺麗だった。まだ新品の建物の匂いがする。内装もこだわっていて、変わった形の照明やインテリアがたくさん飾ってあった。
美容師は髪をパサパサ切っていく。その後も少し世間話をしたけれど、相手が女性なので緊張しているせいなのか、前のように会話は弾まなかった。
それに美容師はまだここに慣れていないのか、切るのに少し時間がかかっているようだった。特に会話も無く、雑誌なども無く、マネキンはボーッと鏡を覗く。黙々と髪を切る美容師の姿が見える。
髪を切り初めて数分経った頃、例の質問をされた。
「お仕事は、どんなのをしてるんですか?」
来た。どうしよう。
今日は何になろう。何なら自然だろう。どんな嘘をつけば、この人を納得させられるだろうか。
仕事、仕事、仕事…
ちょうどその時、奇抜な形のテーブルが目に入った。
「えっと、建築士です」
「そうなんですか」
美容師は、いつになくそっけない返事をした。
え、それだけ?おかしかっただろうか?小綺麗な自分と、細くて綺麗な声、マメな性格をマネキンに貼り付ける。すると、再び美容師が聞いてきた。
「一級ですか?二級ですか?」
え?
一瞬、空気が凍りつく。何の質問だ?そういえば、建築士には資格があると聞いたことがある。
「あ、えっと、一級、です」
よく知らないまま答えた。一級だと何ができるのだろう?
「へぇ。私の父も、一級建築士なんですよ。この店も父が設計したんです」
「へ…へえ、そうなんですか。とてもおしゃれですもんね」
ぎこちない返ししかできなかった。会話が続いてよかった。しかしこれは良くない。相手がその職業に詳しいと、嘘だとバレてしまうかもしれない。僕は急に帰りたくなった。
「好きな建築家とか、いるんですか?」
好きな建築家?建築家…よくわからない。いないですと答えてもいいが、それでは嘘だと見破られるかもしれない。というか、僕はなぜこんなことをしているのだろう?いや、それどころじゃない。建築家だ。誰か、何かいなかったか…?
「○○さんですかね」
不意に、この間見たテレビ番組で紹介されていた、建築士の名前を出した。見ていてよかった。この時のためだったのか。
「そうなんですか」
美容師は相変わらずそっけない返事をした。そして、こう言った。
「意外と王道好きなんですね」
◇◇◇
この日は午後から高校の同級生と会う予定だった。
美容室を出て、足早に駅へ向かう。
かなり遠くの美容室へ行ったので、急がないと間に合わないのだ。
危なかった。
あの後、特に会話もせずに終わったからよかった。建築士の名前なんて知るもんか。何も知らない業種だ。分かるはずもない。もしかしたらバレた?いや、別にバレてもいいだろ。もうあの美容室には行かない。嘘をついたって別に構わないじゃないか。
でも、だけど。
意外と、王道が、好き。なんだか馬鹿にされたような気持ちだった。精巧に建築士になりきれていない自分が、恥ずかしかった。上辺だけの自分を見透かされたみたいで、心が焦っている。自分が剥がれ落ちる。自分がわからない。どうして傷ついている?そんなに気にしなくたっていいだろう。
やっとの思いで電車に乗り込み、待ち合わせに向かう。
◇◇◇
「よお!久しぶり!」
「ひ、久しぶり」
「元気だったかー?」
高校の時、同じ部活だったタクと、ケンに会う。
普段会社と彼女以外に人に会うことがほとんどいないので、ちょっと新鮮な気持ちだった。
まだ日も沈みきっていないが、僕たちは3人で乾杯した。少し懐かしい。2人の会話の空気に飲み込まれて、さっきまで焦っていた気持ちが、段々落ち着いてくる。
「仕事、うまくいってるか?」
「いや、ミスばっかりだよ」
「そんなことないだろ、お前すごい要領いいし。タクとは違ってな」
「何だよそれ、バカにしてんのか?ははっ」
タクは声が大きくて、よく笑う。はつらつとした笑顔と真っ直ぐな目、綺麗に切り揃えられた眉。細身だけれど、鍛え上げられた体と、シンプルな服装。
職業は、消防士だ。
「まあケンには敵わないよ。お前、頭いいもん」
「タクの頭が悪いだけだ」
ケンは少し意地悪な性格をしている。が、それが毒舌でまた面白い。眼鏡をかけていて小綺麗だ。細くて綺麗な声で、マメな性格をしている。
職場は、建築士だ。
「2人とも、いつも通りだな」
安心して、でもなぜか哀しくて、暗い顔をした。
「何だよ、酔いが回ってきた?」
「はは、そんなんじゃないよ」
また嘘をついた。実際かなり酔っている。お酒、弱くなったかな。いや、久しぶりに仲間にあって、気持ちが緩んでるんだ。その証拠に、いつもより酒が進む。
自分の中の思考に夢中で、段々沈黙が長くなっているのに気が付かなかった。
ふと、タクが酒を置いて僕に言った。
「なあ、お前、なんかあった?」
「え?」
不意をつかれて、驚く。
「え?何が?」
「お前、いつもとなんか違うぞ」
「え?違う、かな?何が?」
「なんか、昔はもっとツッコんでくれたじゃん。今日は元気無いっていうか。動くのもゆっくりだし」
あれ?そうだっけ。ふと手を止めて、昔の自分を思い出す。
「それにずっと笑ってる」
あれ?笑ってる?昔は笑っていなかった?
「なんか気持ち悪いぞ」
ケンの悪態が、ブスリと心に刺さる。
昔の自分。高校生の自分。思い出しても、はっきりわからない。マネキンしか出てこない。3人で笑いあった記憶、遊んだ記憶、部活に行った記憶、勉強した記憶、記憶、記憶、記憶……
どれも、僕には顔がない。
白いプラスチックの塊が、そこにいるだけ。
僕はどんな息の仕方で、どんな声色で、どんな性格で、どんな自分で、彼らと一緒にいただろう?
わからない。思い出せない。
自分って誰?僕って誰?僕はどんな風に生きてきた?
今まで自分が演じてきたたくさんの自分が、吸収してきた色んな人間の挙動が、性格が、自分の中で渦巻く。どれを取って、どれを捨てれば自分になれる?
タクとケンのために作った今日の自分が、剥がれ落ちていく。
いや、逆だ。混ざっているのだ。
マネキンにはいろんな色と長さの髪が、色んな大きさと形の目が、鼻が、口が、体が、服が、パッチワークみたいに全部張り付いて、混じって、まるでゴミの塊みたいだ。
僕は、一体、何なのか。
「おい、大丈夫か?」
2人の声が体の中で跳ね返る。高校生の時から変わらない、2人の声。
「飲みすぎた?水、いる?」
「ごめん、気持ち悪いから、帰るわ」
そう絞り出した声すら、変成器で通してみたいに層になって、掴み取れなかった。
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