マネキンシンドローム
瞳
第1話 散髪
ガラス張りのドアに映る、自分の姿を見る。
そこには顔もなく、皮膚もなく、ただ白い人形が立っている。
マネキンだ。
プラスチックの上に、肌の色に似せた白っぽい布が貼ってあるような、ただの、モノ。
普段ディスプレイとして服を着せられているそれは、素っ裸のまま、あるはずのない目でじぃっとこちらを覗いている。
やっぱりだめだ。わからない。
それは何も話さず、何の表情も見せず、ガラスの重い扉を開いた。
「いらっしゃいませ」
予約していた旨を伝えて、そのまま奥へ誘導される。
美容師はマネキンが椅子に座ると同時に首にネックシャッターを巻きつつ、テキパキ準備を済ませると、鏡越しにこちらを見ながら言う。
「今日はどうされますか?」
鏡に映るマネキンを見る。
と、頭頂部から、みるみるうちに髪が生えはじめた。
ツルツルだった頭は少し傷んだ、真っ黒な髪で覆われた。
もうこんなに伸びたのか。中途半端な長さだ。もう少し短い方がいい。
「少し、短めに切ってください」
のっぺらぼうのような、まっさらなマネキンの顔に口が現れて、男性の声が出た。
「かしこまりました」
口と髪が生えたマネキンの頭を若い美容師が洗い、再び座席に戻ってくる。髪を整える間、美容師はマネキンと他愛ない会話をする。
「今日はこの美容室を選んでくださって、ありがとうございます!」
髪を切りながら、美容師は仕事をテキパキこなす。かなり慣れているように感じる。見た目は若い。まだ20代くらいだろうか。
「いえ、最近できたと聞いたので。僕もつい最近、引っ越してきたばかりなんですよ」
とりあえず会話を合わせる。美容師は鏡越しにマネキンを見つつ返事をする。
「へぇ!そうなんですか?どこから来られたんですか?」
「○○市です」
「そうなんですか!じゃあ、県内だけどちょっと遠いですねぇ〜」
今日はよく会話が弾む。いつの間にかマネキンは淡い白色のシャツを着て、下には濃い色のジーンズを履いている。
「そういえば、お仕事とか、何をされてるんですか?」
きた。この質問。
僕の、仕事。
鏡を覗き込む。口だけの、まっさらな顔。細い華奢な体。地味な服装。僕は何をしている人だろう。僕の仕事は何だ…?僕は、誰だ…?
「……消防士です」
一瞬、空気が凍りつく。美容師がキョトンとする。
しまった。やってしまったか?しかし、美容師はまたすぐに元の笑顔に戻った。
「へぇ!消防士さんですか!!すごいですね!」
よかった。信じてくれたらしい。
はつらつとした笑顔と真っ直ぐな目、綺麗に切り揃えられた眉のある顔。細身だけれど、鍛え上げられた体と、シンプルな服装。
見る見るうちに顔が刻印される。
呼吸が、少し深くなる。さっきまで不安定だった語尾が、次第に明瞭になる。にこりと笑って答える。
「いえ、全然すごくなんてないですよ。僕なんて、まだまだです」
「やっぱりお仕事大変なんですか?」
「そうですねぇ。まあでも、現場というより日々の訓練がメインというか。やっぱり日頃の積み重ねですよね」
美容師は深く感心したような顔をした。
「すごいですね。訓練って、どんなことをするんですか?…」
その後も芋づる式に会話が弾み、髪を切ってもらっている間、僕はずっと消防士でいることができた。
「ありがとうございました。またお待ちしています!」
会計を済ませた後も、美容師は笑顔で僕を送り出してくれた。
◇◇◇
「ってことで、今回は消防士になった」
その日の午後、待ち合わせていた彼女と、行きつけのカフェで紅茶を飲む。日替わり紅茶の、優しい匂いに包まれる。今日は柑橘系だ。カップの中に映る自分を見つめる。そこにはさっきまで消防士だった自分とは全く違う、切れ目で優しそうな男性が映っていた。
いつもこうだ。
僕は髪を切りに行く時、どうでもいい嘘をついてしまう。そして、平気で『嘘の自分』になり切ってしまう。あまりに堂々と嘘をついているせいか、今までバレたことはない。
いや、心の中では皆、おかしいと思っているのかもしれない。でも突っ込んで聞かれることもない。当たり前だ。美容師と客との関係なんて、年に数回、たった数十分顔を合わせるだけだ。嘘ですかと聞いて本当だった時の方が気まずい。
だから誰にもバレない。誰も本当のことを言わない。僕は髪を切ってもらっている間、偽りのぼくになりきるのだ。
今回は若い人で助かった。純粋な人の方が、やはり信じ込みやすいと思う。などと、脳内はすっかり詐欺師まがいである。でもそのおかげで、髪を切ってもらう間、僕は無事に消防士でいることができた。
「役者だね」
彼女は僕の話を聞いて、カフェオレを啜りながら、そう言った。
「またやっちゃったよ。もうあそこの美容室にはいけないな」
声もさっきまでとは違う、少し落ち着いた、低い声に変わっている。
「これで何回目?もう市内の美容室は行き尽くしたよね?」
「次からは市外に行かないとなぁ」
「髪を切るためだけに?馬鹿馬鹿しい」
そう言って彼女は笑った。
彼女はいつもそうだ。僕を叱るでもなく、貶すでもなく、ただ面白いことをするね、と笑う。
この街に引っ越してきて2年半。あの美容師には嘘をついた。引っ越してきたのは本当だが、最近ではない。僕の髪はすぐに伸びてしまうので、1ヶ月半くらいのペースで髪を切りに行く。そしてそのたび、嘘をつく。
色んなものになりきる。
消防士、警察官、エンジニア、カメラマン、演奏家、ダンサー、花屋、ショップ定員、飲食店の経営者…
困ったことに、それら全てを、余裕で演じ切ってしまう。
「最初の頃に行ってた床屋さんにもう一度行くのは?スタッフさんもいちいちお客のことを覚えてたりはしないでしょう」
最初は近所のお手頃な床屋さんに行っていたが、毎回嘘をつくせいで行きづらくなり、ついに小洒落た美容室にまで足を運ぶようになった。
「店員さんとか、店の雰囲気はよく覚えてるんだよね。でも自分がどんな風だったのか、思い出せないんだよ」
これが厄介だった。嘘をつくのはいいが、その嘘をいちいち覚えたりはしない。
1ヶ月前の自分が何になり切っていたのか、どんな言葉で喋っていたのか、どんな性格で、どんな話調で、どんなトーンで話していたのか…覚えていないのだ。
あまりに精巧に、違う誰かになりきるせいで、二度とその日の僕を再現することはできない。
ポットから紅茶を注ぎながら、考える。
どうしてこんなことをしているのだろう。
なんにせよまた、新しい美容室を探さなければならなくなってしまった。まあいい。美容室なんていくらでもあるし、すぐに新しい所ができるだろう。この街は代謝がいいのだ。
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