マクシミリアンの父親は


 「だって、君が、フランツとばかり、外出するから」

ぼそぼそと、F・カールがつぶやく。

「フランツとばかり並んで。あいつ、僕の背丈を抜きやがって」


 ゾフィーは呆れた。


「……だって、フランツルとなら出掛けていいって言ったじゃない!」

「うん、言った。でも、悪い噂が立ち始めたから……」

「噂?」

「君とフランツができ……、その、つきあってるって」

「フランツルは、まだ、たったの15歳だったのよ?」


 ゾフィーはまだ、ヴァーサ公と知り合ってもいなかった。あの頃、フランツとの外出は、本当に、ただの気晴らしだった。

 彼女は、ため息を付いた。


「くだらない噂を、気にするなんて……」

「妻の噂を気にしない夫なんて、いないよ」

「それが私の夫だと思っていたのよ! 人の言うことなんか、気にしないのが!」


言い返してから、ゾフィーは、はっとした。


「じゃ、お産の後、私に、フランツルの病室に行かないほうがいいって言ったのは……」



 生まれたばかりの次男……マクシミリアンは、実は、ライヒシュタット公の子どもだと、ウィーン宮廷では、まことしやかに囁かれていた。


 噂は、ゾフィーの耳にも入っていた。だが、彼女は、まるで気にしなかった。息子達の養育係のマダム・ストゥムフィーダーもだ。彼女は、熱烈な、ライヒシュタット公の支持者ファンであったにもかかわらず。

 それなのに、自分の夫が、気にしていたなんて!


「まさか……まさか、そんなことで、私を彼から遠ざけたの?」


「違うよ!」

F・カールが否定した。珍しく、強い声だった。

「彼は、病んだ姿を見てほしくなかったんだ。この僕にさえ。まして、君には……」


 ゾフィーが産褥にあった頃のことを、F・カールは話しだした。


 彼が訪れると、フランツは眠っていた。苦しみの果てに、ようやく訪れた眠りだ。彼が、気絶するように眠りについたことは、容易に想像できた。

 彼は甥を起こさず、そっと、引き揚げた。


 後で目を覚ましたライヒシュタット公は、ひどく怒ったという。叔父の訪れがわかっていたのに、なぜ自分を起こさなかったのかと、従者が叱られた。


 「フランツは、礼儀を何よりも大事にしていた。病が重くなった後でさえも。だらしなく、覇気がない、こんなに情けない叔父に対してさえ!」



 礼儀。

 彼はいつだって、ゾフィーに礼儀正しかった。ほんのわずかの、逸脱さえ、なかった。

 一度だけ……。


 ……「その子は、僕の子だ。いいね?」

 ゾフィーの耳に、フランツの声が蘇る。


 ……「だって、……」

 あの後、フランツは、何を言おうとしたのか。

 最後の秘跡を受けるよう、勧めたゾフィーに。

 死を、目の前に突き付けた彼女に。


 彼は、最後の秘跡を受けることを承諾した。ゾフィーの立場を慮り、敢然として、死さえ、受け容れようとした……。


 もし、グスタフ・ヴァーサと出会わなかったら、自分は、フランツと恋に落ちただろうか。

 時折、ゾフィーは考える。

 そしていつも、静かに首を横に振る。

 考えてもかいのないことだ。だって、フランツは死んでしまった。


 夫の言うように、フランツはいつだって、とても礼儀正しかった。そして、ゾフィーの為を思ってくれていた。たとえゾフィーが間違っていようとも。たとえ、全世界が、ゾフィーに敵対しようとも。

 フランツは、ゾフィーの味方だった。そして、礼儀正しさ。それは、激しい恋とは、対局のものだ。


 けれど、礼儀正しくしか生きられないのだとしたら。

 ナポレオンの息子として、常に人々の批判にさらされていたフランツに、幼くして母に置いて行かれ、放任されてきたフランツに、奔放になることなど、できただろうか。全てを捨てて、恋に酔うことが、可能だったろうか。


 礼儀正しさ。

 それは、フランツにとって、鎧だったような気がしてならない。

 心ない中傷から、身を護るものであったことは、一面の真実だ。だが同時にそれは、彼自身の幸せを遠ざける、哀しい、武具だった。



 「僕が見舞いに行くと、彼はいつだって、フロックに着替え、きちんと椅子に座って、僕を迎えた。そんな必要なんて、まるでないというのに! でも、とうとう、ついに……。ベッドの上に起き上がることさえ、あの子には、難しくなってしまった……」


 おいおいと、F・カールが泣き出した。


「逆だ。逆なんだ。僕はね、ゾフィー。マクシミリアンが、フランツの子どもだったら、どんなに良かったかと思っている。だって、そうしたら……」


鼻を詰まらせ、涙を口の中に流し込みながら、F・カールは続けた。

「そうしたら、まだ、フランツが、生きているような気がするじゃないか……」



 その時、初めて、ゾフィーは、夫に愛を感じた。

 夫は、心の底から、フランツの死を悼んでいる。いたずらっ子だった、小さなフランツの。自分のことを、「下品だ」と言い放った、生意気な甥の不在を、身も世もあらぬほど、嘆き悲しんでいる。


 穏やかな感情が、さざなみのように静かに、ゾフィーの胸に広がっていった。それは、愛といってもいいものだった。激しさのまるでない、だから一層、静かで、優しい……。

 自分は、義姉マリー・ルイーゼのようにはなるまい。

 ゾフィーは思った。

 自分は、この人の子を、決して、裏切らない。子どもは決して手離さず、必ず、自分から見えるところで育てる。


 フランツの悲哀を繰り返してはならない。



 ベビーベッドで、むずかる声がした。

 父親の泣き声で、小さなマクシミリアンが目を覚ましたのだ。


 生まれたばかりの息子を抱き上げ、ゾフィーは尋ねた。

「あなたのお父様は、ライヒシュタット公フランツ。それでいい?」


 よだれで濡れた拳を、マクシミリアンは、突き上げた。








 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


「あずまやにてライヒシュタット公爵のまわりに集う皇帝一家」

の絵は、こちらです。

 https://kakuyomu.jp/users/serimomo/news/16816927859416908404






お読み下さって、ありがとうございました。

次の回で、この作品に関しての、純粋な史実と、私が創作した虚構との区別を、簡単に解説しておきます。ご興味のある方だけ、どうぞお付き合いください。



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