二人きりの30分
死は、間近に迫っていた。
フランツには、秘跡が必要だった。
最後の秘跡。それは、カトリックの信者が死の直前に受ける、儀式である。秘跡を受けるとは、即ち、身近に迫った死を、受け容れるということだ。
フランツは、秘跡を拒否していた、秘跡どころか、子どもの頃から通ってきていた神父さえ、追い返してしまう。
敬虔なカトリック信者である皇帝は、孫が、神から見放されて死ぬことを恐れた。人喰い鬼と言われたナポレオンさえ、最後は、神と和解したではないか。
フランツを説得できる者は、ゾフィーしかいなかった。辛い役目が、身重の若い叔母に任された。
F・カール大公が、皇族の来客を含め、病室にいた全員を、外へ連れ出した。
部屋には、ゾフィーとフランツだけになった。
「ラクセンブルクへ行ったの?」
話の続きで、ゾフィーは尋ねた。
「あそこのお城は、
「ナポレオンが攻めてきた時に」
忍びやかな声で答え、フランツは笑った。
彼は、きちんとしてた。
接客にふさわしい服に着替え、背筋を伸ばして、椅子に座っている。
そうした行為が、どれほど彼の負担になるか、ゾフィーにも充分過ぎるほど、わかっていた。
……この子は、いつだって、本当に礼儀正しい。
お産の話を振ったのは、フランツだった。
「もうすぐ生まれるんだね?」
「ええ、楽しみだわ」
第二子出産は、間近に迫っていた。この話題に、ゾフィーは飛びついた。
「でも、不安でもあるの」
「大丈夫だよ。君なら。絶対に」
優しい青い目が向けられる。
「ありがとう、フランツル」
ゾフィーは胸がいっぱいになった。
だが、ここで泣き出すわけには行かない。
「あのね、フランツル。お産の安全を願って、私、聖餐を受けることにしたの」
大きく息を吸った。
……落ち着いて。
自分を叱咤し、続ける。
「それでね。ついでに、あなたの病気の回復もお願いしちゃおうと思うんだけど。ねえ、フランツル。あなたも、聖餐を受けたらどうかしら?」
「……」
フランツは何も言わなかった。
「ワーグナー司祭にお願いするの。あなたも、私のお産の安全を、願ってくれるわね?」
「いつだって君の幸福を願っているよ、ゾフィー」
「フランツル……」
死の間際においてもまだ、フランツは、ゾフィーが好きだった。6歳年上の、
その気持ちが、痛いくらい伝わってくる。
涙ぐみそうになる自分を、ゾフィーは、必死で抑えた。
青く美しい瞳から、目をそらせた。
「二人きりになったのは、久しぶりだね」
妙に大人びた声で、フランツが言った。
ゾフィーは、明るい声を出すよう、努力した。
「私達、いつだって、二人きりになれるのよ?」
「無理だよ。フランツ・ヨーゼフがいるじゃないか。その上、もう一人、赤ちゃんが増えたら、ますます、二人きりでは会えなくなる」
「大丈夫よ。
「ダメだよ。君は、決して、子どもを置き去りにしたりしない」
ここしばらく、聞いたこともないくらい、はっきりとした声だった。
ゾフィーは、胸を衝かれた。
……
フランツがどんなに母の訪れを待っているか、それは痛いくらい、ゾフィーにもわかっている。
ゾフィーだけではない。
シェーンブルン宮殿にいる誰もが、マリー・ルイーゼの訪れを待ちわびている。フランツの母が、駆けつけてきてくれるのを。
フランツが、姿勢を正した。
「ゾフィー。お願いがある」
「何?」
「君のその子……お腹の子を、……」
フランツは言い澱んだ。
「この子?」
ゾフィーは、腹に手を置いた。
フランツは頷いた。
何か言いかけ、言葉を飲み込む。
「何よ」
ゾフィーは笑いだした。
少しだけ、以前の雰囲気が戻ってきた。
以前の……フランツがまだ、元気だった頃の、親密な、けれども屈託のない……。
フランツが、顔を上げた。真っすぐに、ゾフィーの顔を見つめた。
「その子を、僕にくれないか?」
思い切った声だった。
「え?」
ゾフィーは、咄嗟に反応できなかった。
反対に、フランツは、平静だった。きっぱりと、彼は、決めつけた。
「その子は、僕の子だ。いいね?」
「フランツル。言ってる意味が……」
ふい、と、フランツは横を向いた。
「
駄々っ子のようだった。
思わず、ゾフィーは吹き出した。
「くれる? 僕に。君の赤ちゃん」
上目遣いで、フランツがゾフィーを見上げた。彼が13歳の時、初めて会ったあの時と同じ、透明な眼差しだ。
「話してみるわ。この子に。生まれてきたら」
膨らんだ腹を、ゾフィーはそっと撫でた。
腹の内側から、とん、と蹴られた。
「お腹に触ってみる?」
彼女は尋ねた。
強く、フランツは首を横に振った。腹の子をくれ、などと言いながら、まるで怯えているみたいだった。
微笑みながら、ゾフィーは、彼の手を取った。フランツは、されるがままになっている。
彼女は彼の手を、自分の腹の、膨らんだ頂上に乗せた。強く、胎児が動いた。服の上からもわかるくらい、はっきりと。
火傷したように、フランツが、手を引っ込めた。青い目を丸くして、ゾフィーを見つめている。
「ここにいるの。私達の声も聞こえてる」
小声で、ゾフィーは告げた。
フランツが身をかがめた。
「僕がお父さんだ。覚えておいて欲しい」
腹に向かい、かすれた声で囁いた。
顔を上げ、ゾフィーを見つめた。
「だって、……」
青い瞳が揺らいだ。
「だって?」
ゾフィーが尋ねた。
「なんでもない」
ふい、と横を向く。
「なあに? 気になるじゃない」
「言わない。君に迷惑を掛けたくない」
「フランツル」
まじめな声で、ゾフィーは言った。
「私は、あなたのことを迷惑だなんて思ったこと、一度もないわよ」
「世の中には、君が知らない方がいいことだって、あるんだよ」
疲れ切った声だった。
それが、ゾフィーには悲しかった。
時間がなかった。F・カールから与えられていた時間は、30分だった。
聖餐については、それ以上、突っ込んだ話はできなかった。宙吊りになったまま、その日は、蒸し返されることがなかった。
フランツは、Yes も No も、口にしなかった。
翌日。訪ねてきた司祭に、フランツは、聖体拝領の意思を伝えた。
彼は、ゾフィーの顔を立ててくれたのだ。最後まで、彼女の立場に傷をつけまいとした。
◇
……普通の聖餐だと告げた。でも、彼は、信じただろうか。
フランツが聖餐を受けることを了承したと司祭から聞かされ、後々ゾフィーは懊悩した。
……まやかしだ。実際にあの後、彼に授けられたのは、死の儀式だ。そのことに、聡い彼が、気がつかなかったわけがない。
ライヒシュタット公の最期の秘跡が行われたのは、彼が司祭に向かって聖体拝領を受諾した翌々日のことだった。それほど、彼の病状は、切迫していたのだ。
秘跡の儀は、シェーンブルン宮殿の教会で行われた。皇族、貴族がそれぞれ供を連れて列席し、非常に大掛かりな儀式だった。
病室に閉じ込められてはいたが、これが、自分にとって、皇族最後の儀式であるということを、彼は、間違いなく、悟った筈だ。
……なんとむごい仕打ちを、自分たちは、彼にしてしまったことか。
宗教とは、そこまで残酷なものだろうか。自らの死を直視せよと、神は、若い青年に命じたというのか。
その晩、彼は、苦痛に満ちた、絶望的な一夜を過ごしたと、後に従者が語った。
秘跡を受け、精神的にも肉体的にも、フランツが苦しみもだえていた、同じ夜。
宰相メッテルニヒは、在フランス大使に、ナポレオンの息子の死を宣告する手紙を書いている。
……「ライヒシュタット公の、寿命は尽きたといっていい。彼は現在、結核の末期である。この病は、あらゆる年齢の者を襲い、あっという間に命を奪う。彼は、21歳だった」
その事実を知った時、それまで頼もしいとばかり思っていた
……でも、彼には、
今となってはそれだけが、ゾフィーの慰めだった。
彼女は、全部で7回しか、息子の元へ帰ってきていない。小国とはいえ、公主としての彼女の責任は重いのだ。
皇族として、仕方のないこととはいえ……。
フランツの死期が迫っていた。
彼も、母に会いたがっていた。どうか来てくれるよう、家庭教師や従者らが、悲鳴のような手紙を、何通も書き送った。それなのに、マリー・ルイーゼは、なかなか腰を上げようとしなかった。
フランツは、母に会わぬまま、最後の秘跡を受けてしまった。
……「病床のご子息の元を訪れなければ、貴女の評判は悪くなるばかりです」
ついにメッテルニヒが、そう書き送ったという。宰相として彼は、皇族の評判が悪くなることを恐れていた。
秘跡の儀の4日後。ようやくシェーンブルン宮殿に馬車をつけた彼女は、震え、啜り泣きながら、彼の部屋へ向かった。
母の訪れで、フランツは、1ヶ月ほど、命を永らえた。
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