ゾフィーに課せられた辛い責務
死は、間近に迫っていた。
秘跡が、必要だ。
最後の秘跡。それは、カトリックの信者が死の直前に受ける、儀式である。秘跡を受けるとは、即ち、身近に迫った死を、受け容れるということだ。
毎日のように、宮廷司祭が、フランツの病室を訪れていた。
何をしに来るか。それは、明白だった。秘跡の儀を執り行う、時期を探っているのだ。ワーグナー司祭は、きちんと、皇族らしい最期の儀式を執り行うつもりだった。
フランツは、秘跡を拒否していた、秘跡どころか、子どもの頃から神学の授業を受けてた、この司祭さえ、追い返してしまう。
その頃フランツは、大きな危篤状態を脱したばかりだった。医師たちは、危機は繰り返すと言っている。喀血の繰り返しが、体を弱める危険もあった。いつまた、危篤となるかわからない。次の危篤は、恐らく、死に繋がるだろう。
司祭は、秘跡の儀を、近日中に行うと、定めた。
だが、誰がそれを、彼に伝えるか。
「え、私?」
夫のF・カールから切り出され、ゾフィーは目を瞠った。
「私がフランツルに、秘跡の儀を受けるよう、勧めるの?」
出産を来月に控え、ゾフィーの腹は、大きく膨らんでいた。もうすぐ2歳になるフランツ・ヨーゼフが、動きの鈍くなった母の周りを、ちょろちょろと駆け回っている。
F・カールは、
「そんなの、無理よ」
ゾフィーは蒼白になっていた。
秘跡の儀を受ける。
それは、迫りくる自分の死を認め、受け容れることに他ならない。
フランツはまだ、21歳だ。
「私、言えないわ。あなたはもうすぐ死ぬのよ、なんて。私の大事な、愛しいフランツルに!」
涙を浮かべ、ゾフィーは訴えた。
「そこまで言う必要はない」
F・カールはきっぱりと言った。
「僕がそんな残酷なことを、君にさせるわけ、ないだろう?」
彼は、司祭とメッテルニヒに掛け合っていた。
そして、これが皇族最期の儀式、秘跡の儀であることは、当のフランソワには内緒にすることで、同意を得ていた。
「メッテルニヒは、ただ、世界に向けて発信したいだけなんだ。ナポレオン2世は死んだ、って」
「そんな……。フランツルは生きているのよ!」
「そうだ! 彼には生きててもらわなくちゃ。そのうち、
次第に声が小さくなり、F・カールは俯いてしまった。
「メッテルニヒなんて、大嫌いよ!」
金切り声で、ゾフィーが叫んだ。
「フランツルのことを邪魔にして。私、許さないわ! いつか、見ているといい!」
「僕も同感だ」
「あなた、悔しくないの?」
「悔しいよ」
「だったらなんとかしてよ!」
「なんとか……」
「できないの? 意気地なし!」
やり場のない怒りは、おとなしい夫に向かっていく。
F・カールは、海綿のような吸収力で、ゾフィーの怒りを受け止めた。
「ゾフィー、ゾフィー。落ち着いて。お願いだから」
遠慮がちに、F・カールは、妻の手を撫でた。
「お腹の子の為に」
「……」
きつい目で夫をにらみ、ゾフィーは俯いた。その目は真っ赤だ。
F・カールは、妻を宥め続けた。
「秘跡の儀には、大勢の人間が集まってくる。だが、フランツは、部屋から出ない。従者たちも、いつも通り、彼に接する。彼には隠し通すんだ。これが、秘跡の儀だということをね」
「そんな!」
「さっきも言ったように、世界がわかりさえすればいいんだ。フランツ自身が知らなくても」
「それでいいの? まるで彼を騙すようなものじゃない!」
「だって、フランツは、神を信じてはいないよ」
静かな声で、F・カールは諭した。
「彼の目は、神とは違うものを見ている。もっと暗い、もっと黒い、なんというか……魔的な?」
言葉を探し、F・カールは言い淀んだ。
「……ナポレオン?」
音のない、ほとんど唇の形だけで、ゾフィーが口にする。
F・カールは、首を横に降った。
「ナポレオンを遥かに凌駕したものだ。あの子には、死ぬ気は、毛頭ないよ。彼は、まだまだ生きるつもりだ」
それは、ゾフィーにもわかっていた。
さらに
「彼は、ナポリへ行くと言っている。ナポリは、彼の夢の実現への、第一歩だ。先日、ついに、メッテルニヒが、それを許した。フランツは今、怖いものなしさ!」
この場にそぐわない、希望に満ちた口調だった。
それなのに、F・カールは悲しげだった。
それが、砂上の楼閣だということを、彼もまた、痛いほど知っているのだ。
ナポレオンの息子が、ウィーン宮廷から出ることを、決して許さなかった宰相、メッテルニヒ。
彼は、フランツの転地療法さえも、決して認めようとしなかった。医師団が、あれほど勧めたというのに。治療法は、もはやそれしかなかったというのに。
その宰相が、ついに、フランス以外なら、どこへ行ってもいいと許可を出したのは、6月9日のことだ。フランツはもう、自力で歩くことさえできなくなっていた。
フランツが、イタリアに行きたがっていることは、ゾフィーも知っていた。彼女は、全力で、甥を支えたかった。
ウィーン宮廷に来た当時、ゾフィーとフランツは、等しく異邦人だった。ともに居所のない二人は、お互いに共鳴し合い、同志となった。
フランツは、いつだって、ゾフィーの味方だった。たとえゾフィーに非があったとしても、ためらわず、ゾフィーの側についた。決して許されぬ彼女の恋さえ、懸命に支えてくれた。そして、大切な軍務さえ危険に晒し、彼女の名誉を守ってくれた。
2年前、ゾフィーは、フランツ・ヨーゼフを得た。それにより彼女は、ウィーン宮廷に、確固たる地位を確立した。未来の皇帝の母という地位だ。
だが、フランツは、そのままだった。彼一人が異邦人のまま、相変わらず、ウィーンから出してもらえなかった。独立を認められ、実際の軍務についた時にさえ。
胸が、張り裂ける思いだった。
「未来があったら! フランツに未来があるのなら、僕は、あの子のために、何でもしてやるというのに」
言いながら、F・カールは、めそめそと泣き出した。
「あなた……」
最初に泣くなんてずるい、と、ゾフィーは思った。
自分のほうが、何倍も、何十倍も悲しいのに。
F・カールが腕を伸ばした。妻を抱き寄せようとした間に、邪魔が入った。膨らんだゾフィーのお腹、もうすぐ生まれる、赤ん坊だ。
F・カールは、妻の腹を、そっと撫でた。
「この子に、一役買ってもらおう。な?」
「え? この子に?」
涙の溜まった目を、ゾフィーが見開く。
その目を、同じく自分の涙から透かし見て、F・カールは、大きく頷いた。
「フランツには、君のお産の無事を願って、聖餐拝領をすると言うんだ。ついでに、彼の回復も祈りたいって、言えばいい」
「それは、彼を騙すことにならないかしら」
「仕方ないよ。それなしで死ぬと、天国へ行けないと脅されてるんだから」
F・カールは肩を竦めた。
「正直に言えば、彼に、秘跡の儀なんて、必要ない。どのみち彼は、行きたいところへしか、行かないよ。秘跡の儀は、
「皇帝の?」
「ああ。
敬虔なカトリック信者である皇帝は、孫が、神から見放されて死ぬことを恐れた。人喰い鬼と言われたナポレオンさえ、最後は、神と和解したではないか。
「だが、……」
F・カールは言いよどんだ。
「神は、そこまで厳格ではないはずだ。フランツに、お前は死ぬと、突きつける必要はない。彼が、うまく騙されてくれれば、それでいいと、僕は思っている。そしてそれができるのは、ゾフィー、君しかいないんだ」
他には誰もできない、辛い責務が、身重のゾフィーに課された。
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