揺り籠と墓場
祖父の皇帝が、ようやく彼を連隊に配属したのは、フランツが20歳の時だった。
周囲の付き人は一変した。将校達の出入りが多くなった。彼は、急に大人びた口をきくようになり、祖父の皇帝や、ゾフィーのことさえ、遠ざけるようになった。
皇族の初任地は、プラハと決まっている。しかし、フランツが配属されたのは、ハンガリー第六〇連隊だった。この連隊の司令本部は、アルザー通りにある。この期に及んでさえも、彼は、ウィーンから出ることを許されなかった。
思えばこの頃から、結核は再発していたのだ。
しかし彼は、それを隠し通そうとした。何より、軍務を優先させた。
冬の寒い日、フランツは、シーゲンタール将軍の葬儀パレードの指揮を執った後で、喀血した。
短い小康状態を経て、容態は雪崩を打つように悪化していった。彼は、郊外のシェーンブルン宮殿に移された。
ちょうどその頃、ゾフィーも、第二子を懐妊中だった。出産の為、彼女も、シェーンブルン宮殿に移っていた。
具合の悪い甥の為に、ゾフィーは病室を調え、座り心地の良い椅子を新調した。
「ありがとう。ゾフィー。愛らしく優しい、君は、美の天使だよ」
フランツは、掠れた声で礼を述べた。
「絶対に良くなるのよ」
わざと高圧的に、ゾフィーは言った。
「そして、フランツ・ヨーゼフだけじゃなくて、お腹の子にも、会ってあげて」
複雑な顔で、フランツは微笑んだ。ひどくやつれ、顔色もよくない。
……「私は、ひどく悪いのです。来て下さいと、お母様に伝えて下さい」
ここへ来る前、プリンスは、家庭教師のディートリヒシュタイン伯爵に頼んだという。
……「プリンスは、お母様に会いさえすれば、もちなおす筈です。今までずっと、そうでしたから!」
鼻の頭を真っ赤にして、ディートリヒシュタインは、ゾフィーに訴えた。
パルマの
「フランツル……」
ゾフィーは、たまらない気持ちになった。
フランツは、素早く、ゾフィーの不安を読み取ったようだ。
「そんな顔しないで、ゾフィー」
ぎくしゃくと立ち上がり、彼女の手を取った。それだけの動作が、ひどく辛そうだ。
「君を悲しませたら、僕は、極悪人だ。あのね、ゾフィー。僕は、それほど悪くないよ。ここシェーンブルンへ来たのは、政府の陰謀さ」
「陰謀?」
思いがけない言葉に、ゾフィーは一瞬、悲しみを忘れた。
しかつめらしい顔で、フランツは頷いた。
「そう。例によって、情報を遮断させるためだよ。街では、あることないこと、言われているに違いないからね。僕を、どこかの国の陰謀に巻き込まれさせまいと、
街で囁かれているのは、ライヒシュタット公重病説だ。
「フランツル……」
ゾフィーの声が詰まった。
フランツは、顔を、くしゃっとしてみせた。
「大丈夫。どこの国にも、逃げはしないさ。僕はいつだって、ここにいる。君のそばに」
気楽そうに、微笑んでいる。
本当に、フランツは、元気なのかもしれない。
ゾフィーは、思った。
そんな気がしたほど、その笑顔は、いつもどおりだった。
優しい、包み込むような笑顔だった。
けれど、そのころすでに、フランツには、希望がなかったのだ。新しく招かれた医師団が、彼の命が残り少ないことを、皇帝に宣告していた。
「生まれたことと、死ぬこと。これだけが、僕の人生だった。揺り籠と墓場は、近くにある。その間には、巨大な無があるだけだ」
彼がそう言ったと、間もなくゾフィーの元にも伝わってきた。
ゾフィーは、毎日、彼を見舞った。
自分にできることなら、何でもするつもりだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます