犠牲
◇
それは、フランツなりの愛だったのかもしれない。
彼が亡くなった今にして、ゾフィーは思う。
叔父の結婚で、彼は、年若い叔母を得た。人生で初めて出会った、気の置けない、話のわかる女性だ。だが、ヴァーサ公の出現で、年若い青年は、身を引いた。ヴァーサ公は、彼の、尊敬する上官だった。
いや。彼は何より、ゾフィー自身の気持ちを尊重したのだ。彼女の幸せを、最優先に考えた。
けれど……。
軍務を最優先に考える彼にとって、上官に逆らうことは、どれほど重大事だったろうか。軍では、上下関係は絶対だ。悪くすれば、彼は、永遠に軍務につけない可能性だってあった。幼いころからの憧れ、軍務に。ヴァーサ公に逆らうことにより、彼は、父と同じ軍人の道を、閉ざされてしまったかもしれないのだ。
けれど、フランツは、真っ直ぐに、上官に向かって突進していった。身をもって、ゾフィーを守った。
……どれだけ大きな犠牲を、彼は払ってくれたのか。
◇
フランツの説得があったのだろうか。ヴァーサ公は、皇妃の勧めに従い、バーデン大公の身内を妻に迎えた。奇しくも彼女は、フランツと同い年、そして、ナポレオンが遅くに迎えた養女が産んだ娘だった。
「君はそれでいいの? 本当に、それでいいの?」
ヴァーサ公とバーデン大公女の結婚を知ったフランツは、ゾフィーを問い詰めた。
「ええ」
ゾフィーは微笑んだ。
「ヴァーサ公は、君を愛している。君だって……」
「あなたは、彼に言ったわ。オーストリアを傷つけてはならない、って」
「それは、」
フランツの顔が赤らんだ。大きく息を吸い、何か言おうとした。
すぐに、しゅんと
「ごめん、ゾフィー。僕は、オーストリアを愛している。オーストリアの為なら、全世界に剣を向ける覚悟がある。フランス以外は。だが、君にそれを強要したことは、間違いだった」
「間違いじゃないわ。私は、オーストリアの大公妃よ」
「君は、君だ」
「私はね」
ゆっくりと、ゾフィーは言った。
「私は、一人でも男の子を産んだら、この国への義務は、果たしたことになると、考えていたの。生まれた子どもを宮廷に残して、出ていけばいい。そう、思っていたの。もし、彼が望むなら、
「ヴァーサ公は、今でもそれを、望んでいるよ」
優しい声だった。
ゾフィーは、首を横に振った。
「いいえ、フランツル。違ったの」
「違った? 何が?」
「出産前に想像していたのを、遥かに超えて、子どもは、可愛かった。彼が、愛しい。私は、
グスタフ・ヴァーサとの不義が公になれば、たとえそれが、フランツ・ヨーゼフ出産後の不倫であっても、ゾフィーがウィーン宮廷に残ることは、難しいだろう。
彼女は、宮廷から追放される。
永遠に。
「子どもを残して出ていく。あの子を誰かに託して、育ててもらう。そんなこと、私には、到底、できはしない」
「ゾフィー……」
「フランツル。あなたが……」
ふいに、ゾフィーの声が裏返った。
「あなたが、そんなに孤独で悲しいのに、私が、自分の子どもを裏切れるわけ、ないじゃないの!」
一息で言って、肩で大きく呼吸をした。
「ごめんなさい、フランツル。私は、
フランツの顔が歪んだ。
「母上の悪口は、言わないで。……ゾフィー、君まで。お願いだ」
「そうよ。あなたは、いつも、そう言うの」
泣き笑いの表情を、ゾフィーは浮かべた。
「私は不思議に思うわ。いったいどうして、
「ゾフィー!」
ゾフィーの背を、フランツは抱いた。長身を屈め、その肩に、顔を埋める。
眼の前に現れた金色の巻き毛を、ゾフィーは優しく撫でた。
「それでも、母上のことを悪く言うのは……いやだ」
くぐもった声が、主張した。
「だから、最初に謝ったでしょ? ごめんなさいって」
「……うん」
肩に押し付けた顔を、ぐりぐりとこすりつけてくる。
「子どもみたい」
ゾフィーは笑った。
「うん」
フランツは答えた。
◇
幸いにも、グスタフ・ヴァーサは、フランツの評価を落とすようなことはしなかった。報告書に、ライヒシュタット公の技量を褒めたたえた後、彼は、健康状態も申し分ないと、書き添えた。
当時、フランツは、体調を崩しがちだった。兵舎には、医師が出入りしていたというのに。
ヴァーサ公の高評価を得て、彼は、訓練に邁進した。壁をよじ登ったり、寒い河原での演習にも、積極的に参加した。
◇
……もし、もっと早く、軍務を諦めさせることができたのなら。
ヴァーサ公が、フランツの健康状態に疑念を持ってくれたら。
後々、ゾフィーはそう思わずにはいられなかった。
もしかしたら、グスタフは、知っていたのかもしれない。自分の本当の恋敵は、ナポレオンの息子だったのだ、と。
◇
忙しく、張りのある生活がやってきた。初めての妊娠だ。体のちょっとした変化さえ、新鮮だった。ゾフィーは、幸せだった。
一方で彼女は、フランツのことが心配だった。自分だけが、幸せのある方向へ進んでしまった。子どもと一緒に。
……「もし、僕が、戦火の洗礼を受けずに死んだら、僕の死後、最初に起こった戦争に、僕の柩を送り出してくれますか? 柩の上を飛び交う弾丸や、砲弾の炸裂音は、僕の骸に、この上もない慰めを、与えてくれるでしょうから」
彼がそう言ったと、どこからともなく、ゾフィーの耳に入ってきた。
彼の父、ナポレオンは、戦争が好きだった。その影響か、彼は、戦争に憧れていた面がある。
しかし、この言葉は、あまりに悲しすぎた。柩という言葉は、不吉だった。
彼は、演習ばかりで、なかなか実務につけなかった。ナポレオンの息子である彼に軍を預けることを、
彼が、たったひとりで、憂愁の淵に残されたのかと思うと、ゾフィーは、たまらない気持ちになった。
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