犠牲



 それは、フランツなりの愛だったのかもしれない。

 彼が亡くなった今にして、ゾフィーは思う。


 叔父の結婚で、彼は、年若い叔母を得た。人生で初めて出会った、気の置けない、話のわかる女性だ。だが、ヴァーサ公の出現で、年若い青年は、身を引いた。ヴァーサ公は、彼の、尊敬する上官だった。


 いや。彼は何より、ゾフィー自身の気持ちを尊重したのだ。彼女の幸せを、最優先に考えた。

 けれど……。


 軍務を最優先に考える彼にとって、上官に逆らうことは、どれほど重大事だったろうか。軍では、上下関係は絶対だ。悪くすれば、彼は、永遠に軍務につけない可能性だってあった。幼いころからの憧れ、軍務に。ヴァーサ公に逆らうことにより、彼は、父と同じ軍人の道を、閉ざされてしまったかもしれないのだ。


 けれど、フランツは、真っ直ぐに、上官に向かって突進していった。身をもって、ゾフィーを守った。


 ……どれだけ大きな犠牲を、彼は払ってくれたのか。







 フランツの説得があったのだろうか。ヴァーサ公は、皇妃の勧めに従い、バーデン大公の身内を妻に迎えた。奇しくも彼女は、フランツと同い年、そして、ナポレオンが遅くに迎えた養女が産んだ娘だった。



「君はそれでいいの? 本当に、それでいいの?」

 ヴァーサ公とバーデン大公女の結婚を知ったフランツは、ゾフィーを問い詰めた。


「ええ」

ゾフィーは微笑んだ。


「ヴァーサ公は、君を愛している。君だって……」

「あなたは、彼に言ったわ。オーストリアを傷つけてはならない、って」

「それは、」


 フランツの顔が赤らんだ。大きく息を吸い、何か言おうとした。

 すぐに、しゅんと項垂うなだれた。


「ごめん、ゾフィー。僕は、オーストリアを愛している。オーストリアの為なら、全世界に剣を向ける覚悟がある。フランス以外は。だが、君にそれを強要したことは、間違いだった」


「間違いじゃないわ。私は、オーストリアの大公妃よ」

「君は、君だ」


「私はね」

ゆっくりと、ゾフィーは言った。

「私は、一人でも男の子を産んだら、この国への義務は、果たしたことになると、考えていたの。生まれた子どもを宮廷に残して、出ていけばいい。そう、思っていたの。もし、彼が望むなら、グスタフヴァーサ公…と一緒に」


「ヴァーサ公は、今でもそれを、望んでいるよ」

 優しい声だった。


 ゾフィーは、首を横に振った。

「いいえ、フランツル。違ったの」


「違った? 何が?」

「出産前に想像していたのを、遥かに超えて、子どもは、可愛かった。彼が、愛しい。私は、フランツ・ヨーゼフkあの子を裏切れない。決して」


 グスタフ・ヴァーサとの不義が公になれば、たとえそれが、フランツ・ヨーゼフ出産後の不倫であっても、ゾフィーがウィーン宮廷に残ることは、難しいだろう。

 彼女は、宮廷から追放される。

 永遠に。


「子どもを残して出ていく。あの子を誰かに託して、育ててもらう。そんなこと、私には、到底、できはしない」

「ゾフィー……」

「フランツル。あなたが……」


 ふいに、ゾフィーの声が裏返った。


「あなたが、そんなに孤独で悲しいのに、私が、自分の子どもを裏切れるわけ、ないじゃないの!」


一息で言って、肩で大きく呼吸をした。


「ごめんなさい、フランツル。私は、あなたのお母マリー・ルイーゼ様が、嫌い。小さな子どもだったあなたを、省みなかったマリー・ルイーゼ様お義姉さまを、軽蔑するわ!」


 フランツの顔が歪んだ。

「母上の悪口は、言わないで。……ゾフィー、君まで。お願いだ」


「そうよ。あなたは、いつも、そう言うの」

泣き笑いの表情を、ゾフィーは浮かべた。

「私は不思議に思うわ。いったいどうして、マリー・ルイーゼ様お義姉さまは、あなたを放っておくことができたのかしら。健気なあなたを置き去りにして、どうして、他の男ナイペルクなんかに、夢中になることができたの?」


「ゾフィー!」


 ゾフィーの背を、フランツは抱いた。長身を屈め、その肩に、顔を埋める。

 眼の前に現れた金色の巻き毛を、ゾフィーは優しく撫でた。


「それでも、母上のことを悪く言うのは……いやだ」

くぐもった声が、主張した。


「だから、最初に謝ったでしょ? ごめんなさいって」

「……うん」


 肩に押し付けた顔を、ぐりぐりとこすりつけてくる。


「子どもみたい」

ゾフィーは笑った。


「うん」

フランツは答えた。







 幸いにも、グスタフ・ヴァーサは、フランツの評価を落とすようなことはしなかった。報告書に、ライヒシュタット公の技量を褒めたたえた後、彼は、健康状態も申し分ないと、書き添えた。


 当時、フランツは、体調を崩しがちだった。兵舎には、医師が出入りしていたというのに。


 ヴァーサ公の高評価を得て、彼は、訓練に邁進した。壁をよじ登ったり、寒い河原での演習にも、積極的に参加した。







 ……もし、もっと早く、軍務を諦めさせることができたのなら。

 ヴァーサ公が、フランツの健康状態に疑念を持ってくれたら。


 後々、ゾフィーはそう思わずにはいられなかった。


 もしかしたら、グスタフは、知っていたのかもしれない。自分の本当の恋敵は、ナポレオンの息子だったのだ、と。







 長男フランツ・カールを授かり、ゾフィーは、未来の皇帝の、母となった。身の周りに、にぎやかに人が集まってきた。彼女は、自分が孤独から抜け出したことを悟った。

 忙しく、張りのある生活がやってきた。初めての妊娠だ。体のちょっとした変化さえ、新鮮だった。ゾフィーは、幸せだった。


 一方で彼女は、フランツのことが心配だった。自分だけが、幸せのある方向へ進んでしまった。子どもと一緒に。


 ……「もし、僕が、戦火の洗礼を受けずに死んだら、僕の死後、最初に起こった戦争に、僕の柩を送り出してくれますか? 柩の上を飛び交う弾丸や、砲弾の炸裂音は、僕の骸に、この上もない慰めを、与えてくれるでしょうから」


 彼がそう言ったと、どこからともなく、ゾフィーの耳に入ってきた。


 彼の父、ナポレオンは、戦争が好きだった。その影響か、彼は、戦争に憧れていた面がある。


 しかし、この言葉は、あまりに悲しすぎた。柩という言葉は、不吉だった。


 彼は、演習ばかりで、なかなか実務につけなかった。ナポレオンの息子である彼に軍を預けることを、宰相メッテルニヒも祖父の皇帝さえも警戒していた。


 彼が、たったひとりで、憂愁の淵に残されたのかと思うと、ゾフィーは、たまらない気持ちになった。







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