二つの祖国


 「ゾフィー! それに、ヴァーサ公ではありませんか!」

 嬉しそうな声がした。


 はっと二人は振り返った。

 金色の巻き毛の青年が、そこにいた。

 赤、緑。青。

 色とりどりに彩色した旗を、腕いっぱいに抱えている。


 「ライヒシュタット公!」


 その時、ヴァーサの北欧系の顔に浮かんでいたのは、紛れもない憤怒の色だった。

 欲情を邪魔された、男の顔だ。


 青白い、怒りの横顔を、ゾフィーは、じっと見つめた。



 「貴公こそ、そこで何をしている! いつからそこにいた!」

ヴァーサは叫んだ。


「たった今」

 フランツは、両手に抱えた色とりどりの旗に目を落とした。

 柔らかな視線を上げる。

「フランツ・ヨーゼフ大公に、旗をお持ちしました。彼は、ひまわりの花を、大層喜ばれました。ですから、特別、鮮やかな色で染めさせて……」


「ありがとう、フランツル」

ゾフィーの声が、潤んだ。


「どうしたの、ゾフィー!」

フランツがうろたえる。


「ひまわり? 旗? 呆れたな!」

ヴァーサが吐き捨てた。

「訓練にも出ず、子どものお遊びか?」


「訓練は終わりました。僕は今、ウィーンから引き返してきたところです」


「ご苦労なことだ」

皮肉な調子で、ヴァーサは言った。

「なにしろ、君は、兵士どもに、人気があるからな。君が、白い馬に乗って、教場に姿を現すと、兵士どもが、歓声をあげる。だがそれは、軍規違反だ。将校に対して、歓声を上げるなど!」


「申し訳ありません、ヴァーサ公。ですが、どうぞ、兵士たちを罰することは、なさらないで下さい」


「なぜ? 鞭打ちは、必定だ。軍の規律は、守られねばならない」

いらいらと、ヴァーサは言い放った。


 八つ当たりだ。邪魔が入ったことで、自分を抑えられないのだと、ゾフィーは感じた。

 フランツが、何か言っている。


「兵士たちは、家畜ではありません。人間です。そして、傭兵でもありません。彼らは、オーストリアの、民です。その彼らを、鞭打つようなことは、あってはならぬと、私は、考えます」

「上官に物申すか」

「プロイセン流のスパルタは、決して、いい結果を生みません」

「君は、兵士たちの、人気者アイドルだからな!」


「ヴァーサ公」

 フランツが、ぐっと何かを飲み下した。

 声を和らげ、続ける。

「僕は、夢見ていました。同じ廃太子として、貴方と、強い友情を結ぶことを。貴方の先祖、北方の獅子王アドルフとオクセンシエルナの友情は、僕の憧れでした」


「ふん! 我らから王座を奪ったのは、貴公の父の配下ではないか!」


 現スウェーデン王カール14世は、元は、フランスの将校だった。

 彼、ベルナドットは、ナポレオンより早い時期に、ライン方面で名を上げた男だ。ナポレオンがイタリアで勝利するに及び、その下に組み込まれた。


 フランツが、激しく首を横に降った。

「ベルナドットは、乞われて王になっただけです。貴方の父君を王座から追放したのは、彼ではありません」


「だが、ベルナドットの即位により、わがホルシュタイン=ゴットルプ王朝は滅亡した」


「……」

 フランツの顔色が変わった。


 彼が激しい葛藤をしているのが、ゾフィーには、見て取れた。フランツは、必死で、自分の中の本性……熱く激しい性格……を、抑え込もうとしていた。

 それが、彼が受けてきた、教育しつけだったから。


 突然、彼は、努力を放棄した。

「ええ! 僕も、彼が嫌いです! 父だって、ベルナドットを嫌っていました。最初から!」


 フランツの声が裏返った。

 何かに憑かれたような表情に変わっている。


「スウェーデン王太子となったベルナドットは、僕の父ナポレオンを裏切りました。ロシアに与し、1813年の戦いでは、連合国側についた。彼は、あろうことか、かつて自分が所属していたフランス軍の情報を売ったのです」


 ベルナドットの齎した情報をもとに、連合国側は、フランスとの正面対決を避けた。そして各軍を、個別撃破する戦術を取った。

 フランス軍の弱点を衝いた攻撃に、ナポレオンは大敗し、ベルナドットは、連合各国から、最高勲章を贈られた。



「敗戦は、父上の失策ではない。卑怯なベルナドットのせいだ!」

滔々と述べ立て、最後にフランツは叫んだ。

「……」


 ヴァーサには、口を挟む隙もなかった。年若い将校の情熱に、彼は、あっけにとられていた。その上官ヴァーサを、フランツは、熱い眼差しで見返した。


「ですから、ヴァーサ公。僕は、理が通れば、貴方とともに、戦いたいと思っていました。ベルナドットを討ち取ったなら、どんなに気分がいいか! フランスとスウェーデン。両国の廃太子が手を結べば、いったい、どれだけのことができるだろう……」


「私と? 手を結ぶ?」

驚愕の表情が浮かんだ。


「僕は、貴方を尊敬しています」

きっぱりと、年若い青年は言ってのけた。

「貴方は、母国スウェーデンを逃れ、この国オーストリアに忠誠を誓いました。貴方は、必要となったら、母国スウェーデンとも戦うでしょう。僕には、とても、真似できない……僕は、フランスとは、戦えません」


「君がフランスと戦えないのは、父ナポレオンへの尊敬からか?」


「父の遺書を読みました。……出版された、書物で」


 直接、父親の遺書を手渡されることはなかった。ナポレオンの遺言執行人達は、ウィーンに近づくことさえ、許されなかった。フランツは、臣下たちの書いた本を読み、父の偉業を知った。中の一冊に、ナポレオンの遺書が収録されていた。


「父は、フランスに剣を向けてはいけないと言い残しました。僕は、父に従います。父の遺書は、僕の行く道を、指し示しているのです」


「いったい、どちらがいいのだろうな」

ぼそりと、ヴァーサは言った。


「かつてスウェーデン王であった私の父は、国を追われ、情けなくも、没落する一方だった。母と離婚し、各地の警察とトラブルを起こし、果てに、精神に異常を来した。今では、地元の子どもたちにさえ、雪玉を投げつけられる始末だ。私は、そんな父を、憐れんでいる。だが、死して後も、息子を束縛する父よりは、幾分、マシなのかもしれぬな」


「僕は、父を尊敬しています。父だけではありません。母と祖父も。父の国フランスも、母と祖父の国オーストリアも、どちらも、僕の祖国だ」


「君は、幸せなのだな」

 青白く強張っていたヴァーサの顔が緩んだ。瞳の鋼色が、少しぼやけている。


「幸せ?」

 不審そうに、フランツが問い返す。


 ヴァーサは、ため息をついた。

「だが、二つの国にまたがり、不幸でもある」


「僕は、オーストリアの軍人です。だが、僕には、フランスという別の母国がある。あなたもそうだ、ヴァーサ公。あなたも、スウェーデンという別の祖国を持っていらっしゃる。若輩者として僕は、あなたに、もっともっと、教えて頂きたいのです。軍務だけではなく、いろんなことを。僕は、あなたを失いたくない。ですが、」


フランツは、きっと目を上げた。


「ゾフィーに手を掛けてはいけません。オーストリアを傷つけては、ならぬのです」


 はっと、ゾフィーは、息をのんだ。

 ヴァーサは、ゾフィーを見下ろした。フランツの陰で、彼女は、震えていた。


「ゾフィー大公妃。私は貴女を、決して、諦めない。私は、貴女を、愛しているのです」


 立ち去る彼の、軍靴ブーツの音が、宮殿の廊下に響き渡った。



 「ゾフィー」

崩れ落ちそうになった体を、フランツが支えた。


「大丈夫。大丈夫よ、フランツル」

「大丈夫じゃないよ。顔の色が、真っ青だ」

「私を、軽蔑する?」


 フランツの腕の中で、かろうじて、ゾフィーは尋ねた。

 今は、何より、それが、気がかりだった。


 返ってきた答えは、明確で、迷いがなかった。


「軽蔑? するわけないだろ。君は、僕の、同志だ」

「フランツル……」

F・カール大公叔父上とヴァーサ公だったら、僕だって、ヴァーサ公を選ぶよ!」

「え?」

「だってそうだろ? F・カールとヴァーサ公だよ? 意地悪くて嘘つきで下品な叔父さんと、勇敢で男前なヴァーサ公だよ? 勝負は、ついているじゃないか!」

「……男前は、関係ないと思うけど」


「ゾフィー。ひとつだけ、教えて欲しい」

真剣な顔で、フランツは尋ねた。

「フランツ・ヨーゼフは……あのバニラアイスのように可愛らしい赤ちゃんは……」


 言いかけた言葉を、ゾフィーは、最後まで言わせなかった。

 顔を上げ、澄んだ青い瞳を見据えた。


F・カール大公の子よ。その意味では、私は、夫を裏切っていない。一度も」


「……信じるよ」

フランツが言った。

「僕は、君を信じる」


「ありがとう、フランツル」

ゾフィーの両目に、涙が溢れた。


 彼女を支える筋張った手に、ぎゅっと力がこもった。


「あのね、ゾフィー。手遅れでなかったのなら……そして、君の心が、少しでも、叔父上に残っているのなら……あんな叔父で、本当に申し訳ないけど……でも、いいところもあるんだ。つまり、彼は、子どもの頃から、僕と遊んでくれて……品のない、悪い遊びばかり教えられたけど……でも……」


「わかってる。わかっているわ、フランツル」


「僕が君を守るよ、ゾフィー」


 フランツの声は、力強かった。

 初めて会った時、13歳だった青年は、6つ年上のゾフィーを、しっかりと抱きしめた。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る