奈落へ


 赤ん坊の養育係長の女官、バロネス・ストゥムフィーダーが、立ち止まった。

「あの。ゾフィー大公妃」

 うろたえた声で呼びかけた。

 彼女は、おくるみにくるんだ、フランツ・ヨーゼフをだっこしていた。


「あ。そろそろ交代する?」

先を歩いていたゾフィーが振り返った。


 小さなフランツ・ヨーゼフの日光浴を兼ねて、宮殿の中を歩いていた時のことだ。


「いえ……」

いつも落ち着き払っている彼女が、珍しく、動揺している。

「プリンスの……つまり、その……」


「フランツ・ヨーゼフが、どうかして?」

 ゾフィーは、子どもに手を伸ばした。バロネスの手から、受け取ろうとする。


 バロネスは、渡そうとしなかった。

「大公妃のドレスまで、濡れてしまいます。ちょっと、タイミングが悪かったようで……」

しどろもどろと口を濁す。


 ゾフィーは、はっと気づいた。

「あ。やっちゃった?」

「はい。運悪く、襁褓むつきがズレていたようで……」

「ごめんなさい! 私だわ!」


 育児室を出る前に、おむつを交換したのは、ゾフィーだった。

 むちむちした肌に触れ、小さな男性のシンボルを見るのが楽しくて、ゾフィーは、率先して、我が子のおむつを替えたのだ。


「あなたに頼めばよかったわね。ごめんなさい、バロネス・ストゥムフィーダー」

「いえ、そのようなことは……」


 バロネスの腕の中で、フランツ・ヨーゼフの顔が、急に、真っ赤になった。真面目くさった顔を顰め、もう一度、赤くなる。

 ゾフィーの鼻先に、ぷーんと、覚えのある匂いが漂ってきた。


「まさか……」

 バロネスが、途方に暮れている。

「ええと、ベビードレスから漏れてますね……」

「まあ、大変!」


「あの、大公妃」

 思い切ったように、バロネス・ストゥムフィーダーは、ゾフィーに身を寄せた。

「プリンスをお連れして、私、先にお部屋に戻っても、ようございますか? もし万が一、宮殿の床を汚すようなことがあるといけませんから」


「もちろんよ! お願いするわ、バロネス・ストゥムフィーダー!」

「殿下のお着替えを済ませたら、大公妃のお部屋へ参りますから!」


 言い終えるなり、赤子を抱いたまま、バロネスは、早足で立ち去っていった。



 赤ん坊と離れたのは、随分、久しぶりだ……。

 宮殿の廊下に、たったひとり残され、ゾフィーは気がついた。


 腹の中に、10ヶ月。

 生まれてからは、常に、自分が抱いているか、侍女に抱かれた彼が、そばにいた。いつも、身近に、しっとりとした、赤子の体温を感じていた。


 広い通路には、硝子を通して、さんさんと、太陽の光が差し込んでいた。窓の外、眼下に、緑輝く庭園が、広がっている。

 静かだった。

 急に、ひとりぽっちになった気がした。



 「ゾフィー」

 誰かが名を呼んだ。

 そばに、グスタフ・ヴァーサが、立っていた。


「グスタフ!」

「ゾフィー」

彼は無言でゾフィーに近寄ってくる。


 儀礼上、許される以上の距離にまで踏み込んできた。

 息が苦しい。


「待って!」

「待てない」


 抱きしめられていた。

 狂おしく唇を貪られる。

 ゾフィーの頭の芯が痺れた。

 長い間、忘れていた感覚だ。


 恐ろしい陶酔が、迫ってくるのを、ゾフィーは感じた。この波にさらわれたら、自分は生きてはいられまい……。


 ……ああ。

 ……あの子が汚したのが、私のドレスだったらよかったのに。


 無邪気に笑う子どもの顔が、頭に浮かんだ。

 力いっぱい、彼女は、ヴァーサの体を突き飛ばした。


「だめ! いや!」

短く、叫んだ。


 ヴァーサは、驚いたようだった。

 肩で息をし、二人は、睨み合った。


「なぜ! 私は待った。貴女が待てと言ったから!」

「私は、大公妃です。こういうことは……」

「だから、言葉通り、子どもが生まれるまで、待ったではないか。貴女は言った。男の子が生まれれば、自分は、義務を果たしたことになる、と。そうしたら、私のものになってくれる約束ではなかったか!」


「子どもは、もっと欲しい……」

 その言葉は、つるりと、彼女の口から滑り出た。

「あの頃私は、赤ん坊があんなに可愛いものだと、知らなかったの!」


「なにも、オーストリアの皇子でなくてもよかろう?」

なだめるように、ヴァーサは言った。

「スウェーデンの王子を! いずれ、わが祖国を奪還してくれる子を! 私は、その心づもりでいる」


「いいえ! いいえ!」


 ゾフィーは必死だった。

 どう言ったら、わかってもらえるだろう?

 国とか、王とか、力とか。

 そんなものとは、全く別の感情に、彼女は、揺り動かされていた。


「私は、フランツ・ヨーゼフあの子!」


「私の子では、ダメなのか?」

傷ついた色が、青白い顔に浮かんだ。

「そんなに、F・カールがいいのか?」


「違う……いえ……」


 ゾフィーには、わからなかった。

 なおも、ヴァーサが詰め寄った。


「オーストリアが、いいのか!」

「違うわ!」

「なら、なぜ!」

「……」

「貴女は、私を、愛してくれたのではなかったか!」

「……愛している」


 再び、ヴァーサが、彼女の体を抱きしめようとした。

 長く伸ばされた腕を、彼女は逃れた。


「だから、違うの。違うんだってば!」

「どこがどう違うのか!」


 答えられるはずがなかった。

 ゾフィー自身にも、わからなかった。

 ただ、無性に、フランツ・ヨーゼフ息子が、赤子の匂いが懐かしかった。


「私は貴女が欲しい。ずっと、待っていた。今すぐ、貴女が欲しいのだ」


 再び、抱きしめようとする。

 逃れられない、と、ゾフィーは感じた。

 こうして人は、女は、奈落に落ちていくのか……。







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