白いコスモスと黄色い薔薇



 「ゾフィー。君の部屋の前に、これが」

 ある日、訪ねてきたフランツは、白いコスモスの花束を、手にしていた。


 花束には、送り主の名は、入っていなかった。が、聡い彼は、すぐに、誰からの贈り物か、悟ったようだった。恐らく、上官ヴァーサ公が彼女を見る、その目つきから。近づいてくる彼の、その気配から。


 自分は、彼の話をし過ぎたのかもしれないと、ゾフィーは思った。後悔はなかった。フランツと彼の話をするのは、楽しかった。フランツになら、秘密の恋を知られても構わない。むしろ、知っていてほしかった。


 白いコスモスの花言葉は、「優美」。女性に対する、最高の誉め言葉だ。

 フランツは無言で、廊下に置かれていた花束を、ゾフィーに手渡した。




 次の日。シェーンブルンの薔薇園から、フランツは、黄色い薔薇を摘んできた。

 「僕は、君の味方だ」

微笑みながら、ゾフィーに差し出す。


 黄色い薔薇の花ことばは、「友情」。

 しかし、彼は、知っているのだろうか。黄色い薔薇には、もうひとつ、花ことばがある。

 それは、「嫉妬」……。







 フランツが、愁いに沈んだ眼差しを一時、ゾフィーに向ける。やおら叔父に向き直る。

「叔父上。また、ゾフィー大公妃をお借りしたいのですが」

「おお、いいとも」

 甥と出かけるのなら、夫は咎めない。むしろ、気分転換にいいとばかり、賛成してくれる。

「叔父上の許可も得た。さ、ゾフィー。行きましょう」

優しく微笑み、ゾフィーの手を取る。

 フランツは、彼女が「彼」と共に過ごす時間を、作ってくれた。


 だが、究極のところで、ゾフィーは、夫を裏切らなかった。

 あの頃、それを、フランツは知っていたのだろうか。

 彼女には義務があった。オーストリアの為に、次世代の皇帝を産む、という。

 それこそが、母国バイエルンの安全と繁栄につながる筈だ。


 いずれにしろ、フランツは、彼女の味方だった。彼女が何をしようと、たとえ、夫を裏切ろうと、フランツは、ゾフィーの味方でいてくれただろう。

 それは、ゾフィーは、確信している。

 二人は、同志だった。同じ孤独を分け合う、仲間だった。



 そんな中、とうとう、ゾフィーの願いは叶えられた。6年間の不妊を経て、ようやく、フランツ・カールを授かった。

 この子は、間違いなく、夫の子だ。ハプスブルクの子だと、胸を張って言える。


 ……「ホイップ・クリームをトッピングした、ストロベリー・アイスみたいだね!」

 フランツはそう言って、飽かずに、生れたばかりの従弟を眺めていた。



 出産は、ゾフィーの心に、思いもかけない変化を齎した。いとけない赤ん坊の存在が、激しかった恋の炎を、まるで魔法のように消し去ってしまったのだ。

 ……だってこの子は、私がいないと生きられない。

 恋とは別の次元の、もっと生存に根差した、強い愛情を、ゾフィーは、フランツ・カール赤ん坊に対して感じた。

 夫に対しては、相変わらずだったけれども。



 一方、ヴァーサ公は、どうしても、彼女を諦めなかった。

 ゾフィーが距離を置こうとすればするほど、執拗に、追いかけてくる。


 軍の上官でもある彼との恋を支援してくれたフランツは、今度は、楯となって、ゾフィーを守ってくれた。


 フランツは、「彼」との間に立ちそうな悪い噂は、全て、自分が引き受けてくれた。なぜなら 彼女の夫、F・カールは、フランツを、完全に信じていたからだ。甥と妻の間に、何かが起こるとは、この善良な夫は、まるで考えていなかった。

 しかし、グスタフ・ヴァーサとなると、話は別だ。夫の猜疑の目は、即座に、妻に向けられただろう。







 音楽会も終わり、人々は、思い思いに席を移し始めた。

 ある者はタバコを楽しみ、ある者は、給仕の盆からワイングラスを取り上げる。コンソール・テーブル(幅の狭い小さなテーブル)を間に挟み、密談する紳士達もいた。


 ひときわ華やかな集まりは、ゾフィー大公妃のテーブルだ。めかしこんだ貴婦人たちが集まり、切り分けたノッケルン(メレンゲ菓子)を楽しんでいた。


 女性だけの一群は、華やかであるが、かしましい。始終笑い声が漏れ伝わってくる。ひどく楽しげで、気になる集まりだった。

 年齢を問わず、紳士方は、時折、ちらりと無遠慮な眼差しを、このテーブルに投げかけている。


 ゾフィー大公妃は、頷きながら、同年輩の貴婦人の話を聞いていた。聞きながら、手に持った扇を、しきりといじっていた。

 不意に、閉じたままのそれを、顔の前へ持っていった。あくびでも隠したのだろうか。彼女は、退屈しているようだった。


 夢中でしゃべっていた貴婦人が話し終えた。すると、ゾフィーは、微笑んで席を立った。

 しとやかに周囲の女性たちに挨拶し、テーブルを離れていく。


 少しして、立ち上がった者がいた。彼女の甥の、ライヒシュタット公だ。彼はずっと、1人でいた。人を寄せ付けぬ気配を漂わせ、煙草を吸っていた。

 ライヒシュタット公は煙草をもみ消し、広間から出ていった。




 「あれは絶対、扇言葉ファン・ランゲージよね」

 別のテーブルで、令嬢たちが話し合っている。少し年齢が高めのグループだ。

「さっきの、ゾフィー大公妃の、あれ」

「ええ。扇を右手で、閉じたまま、ゆっくりとお顔の前に持っていかれたわね」

「あれは、ついてきて、って、合図よね」

「やだ、嘘。そうだったの?」

「そうよ。『私の後から来て下さい』っていう、扇言葉よ。あなた、ご存じないの?」

「ゾフィー大公妃が席を立ってすぐ、ライヒシュタット公も、部屋を出ていかれたし」

「間違いないわ」

 令嬢たちは頷きあった。


 宮廷では、なかなか、意中の人と二人きりになる機会がない。だから、扇を使って気持ちを伝えることが流行っていた。




 劇場。庭園。そして、高い木の梢で隠された、シェーンブルンの東屋あずまや

 再び、あちこちで、ゾフィー大公妃とライヒシュタット公が、連れだって歩いている姿が見られるようになった。


 もはやライヒシュタット公は、子どもではない。背の高い、麗しい貴公子だ。演習に参加する、将校でもある。


 口さがない宮廷の人々は、噂話に興じた。


 反対に、陰で囁かれていた、ヴァーサ公とゾフィー大公妃の噂は、かき消すようになくなっていった。密かに流れていたゴシップ……フランツ・ヨーゼフは、実は、ヴァーサ公の子どもだという、疑惑……を、思い出す者も、もはや、いなくなった。


 これこそが、フランツの思う壺だった。「ナポレオンの息子」という派手な外套の下に隠され、ゾフィーとヴァーサ公の秘密は守られていた。







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