白いコスモスと黄色い薔薇
「ゾフィー。君の部屋の前に、これが」
ある日、訪ねてきたフランツは、白いコスモスの花束を、手にしていた。
花束には、送り主の名は、入っていなかった。が、聡い彼は、すぐに、誰からの贈り物か、悟ったようだった。恐らく、
自分は、彼の話をし過ぎたのかもしれないと、ゾフィーは思った。後悔はなかった。フランツと彼の話をするのは、楽しかった。フランツになら、秘密の恋を知られても構わない。むしろ、知っていてほしかった。
白いコスモスの花言葉は、「優美」。女性に対する、最高の誉め言葉だ。
フランツは無言で、廊下に置かれていた花束を、ゾフィーに手渡した。
次の日。シェーンブルンの薔薇園から、フランツは、黄色い薔薇を摘んできた。
「僕は、君の味方だ」
微笑みながら、ゾフィーに差し出す。
黄色い薔薇の花ことばは、「友情」。
しかし、彼は、知っているのだろうか。黄色い薔薇には、もうひとつ、花ことばがある。
それは、「嫉妬」……。
◇
フランツが、愁いに沈んだ眼差しを一時、ゾフィーに向ける。やおら叔父に向き直る。
「叔父上。また、ゾフィー大公妃をお借りしたいのですが」
「おお、いいとも」
甥と出かけるのなら、夫は咎めない。むしろ、気分転換にいいとばかり、賛成してくれる。
「叔父上の許可も得た。さ、ゾフィー。行きましょう」
優しく微笑み、ゾフィーの手を取る。
フランツは、彼女が「彼」と共に過ごす時間を、作ってくれた。
だが、究極のところで、ゾフィーは、夫を裏切らなかった。
あの頃、それを、フランツは知っていたのだろうか。
彼女には義務があった。オーストリアの為に、次世代の皇帝を産む、という。
それこそが、母国バイエルンの安全と繁栄につながる筈だ。
いずれにしろ、フランツは、彼女の味方だった。彼女が何をしようと、たとえ、夫を裏切ろうと、フランツは、ゾフィーの味方でいてくれただろう。
それは、ゾフィーは、確信している。
二人は、同志だった。同じ孤独を分け合う、仲間だった。
そんな中、とうとう、ゾフィーの願いは叶えられた。6年間の不妊を経て、ようやく、フランツ・カールを授かった。
この子は、間違いなく、夫の子だ。ハプスブルクの子だと、胸を張って言える。
……「ホイップ・クリームをトッピングした、ストロベリー・アイスみたいだね!」
フランツはそう言って、飽かずに、生れたばかりの従弟を眺めていた。
出産は、ゾフィーの心に、思いもかけない変化を齎した。いとけない赤ん坊の存在が、激しかった恋の炎を、まるで魔法のように消し去ってしまったのだ。
……だってこの子は、私がいないと生きられない。
恋とは別の次元の、もっと生存に根差した、強い愛情を、ゾフィーは、
夫に対しては、相変わらずだったけれども。
一方、ヴァーサ公は、どうしても、彼女を諦めなかった。
ゾフィーが距離を置こうとすればするほど、執拗に、追いかけてくる。
軍の上官でもある彼との恋を支援してくれたフランツは、今度は、楯となって、ゾフィーを守ってくれた。
フランツは、「彼」との間に立ちそうな悪い噂は、全て、自分が引き受けてくれた。なぜなら 彼女の夫、F・カールは、フランツを、完全に信じていたからだ。甥と妻の間に、何かが起こるとは、この善良な夫は、まるで考えていなかった。
しかし、グスタフ・ヴァーサとなると、話は別だ。夫の猜疑の目は、即座に、妻に向けられただろう。
◇
音楽会も終わり、人々は、思い思いに席を移し始めた。
ある者はタバコを楽しみ、ある者は、給仕の盆からワイングラスを取り上げる。コンソール・テーブル(幅の狭い小さなテーブル)を間に挟み、密談する紳士達もいた。
ひときわ華やかな集まりは、ゾフィー大公妃のテーブルだ。めかしこんだ貴婦人たちが集まり、切り分けたノッケルン(メレンゲ菓子)を楽しんでいた。
女性だけの一群は、華やかであるが、かしましい。始終笑い声が漏れ伝わってくる。ひどく楽しげで、気になる集まりだった。
年齢を問わず、紳士方は、時折、ちらりと無遠慮な眼差しを、このテーブルに投げかけている。
ゾフィー大公妃は、頷きながら、同年輩の貴婦人の話を聞いていた。聞きながら、手に持った扇を、しきりといじっていた。
不意に、閉じたままのそれを、顔の前へ持っていった。あくびでも隠したのだろうか。彼女は、退屈しているようだった。
夢中でしゃべっていた貴婦人が話し終えた。すると、ゾフィーは、微笑んで席を立った。
しとやかに周囲の女性たちに挨拶し、テーブルを離れていく。
少しして、立ち上がった者がいた。彼女の甥の、ライヒシュタット公だ。彼はずっと、1人でいた。人を寄せ付けぬ気配を漂わせ、煙草を吸っていた。
ライヒシュタット公は煙草をもみ消し、広間から出ていった。
「あれは絶対、
別のテーブルで、令嬢たちが話し合っている。少し年齢が高めのグループだ。
「さっきの、ゾフィー大公妃の、あれ」
「ええ。扇を右手で、閉じたまま、ゆっくりとお顔の前に持っていかれたわね」
「あれは、ついてきて、って、合図よね」
「やだ、嘘。そうだったの?」
「そうよ。『私の後から来て下さい』っていう、扇言葉よ。あなた、ご存じないの?」
「ゾフィー大公妃が席を立ってすぐ、ライヒシュタット公も、部屋を出ていかれたし」
「間違いないわ」
令嬢たちは頷きあった。
宮廷では、なかなか、意中の人と二人きりになる機会がない。だから、扇を使って気持ちを伝えることが流行っていた。
劇場。庭園。そして、高い木の梢で隠された、シェーンブルンの
再び、あちこちで、ゾフィー大公妃とライヒシュタット公が、連れだって歩いている姿が見られるようになった。
もはやライヒシュタット公は、子どもではない。背の高い、麗しい貴公子だ。演習に参加する、将校でもある。
口さがない宮廷の人々は、噂話に興じた。
反対に、陰で囁かれていた、ヴァーサ公とゾフィー大公妃の噂は、かき消すようになくなっていった。密かに流れていたゴシップ……フランツ・ヨーゼフは、実は、ヴァーサ公の子どもだという、疑惑……を、思い出す者も、もはや、いなくなった。
これこそが、フランツの思う壺だった。「ナポレオンの息子」という派手な外套の下に隠され、ゾフィーとヴァーサ公の秘密は守られていた。
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