不穏
「また、フランツと出かけるのか?」
ある日のこと。
夫のF・カール大公が声を掛けてきた。
「ええ」
ゾフィーは答えて、首元のスカーフをきゅっと結んだ。
鏡を覗き込み、頬紅のチェックをする。
夫が、後ろに立った。
「今日はどこに? 芝居か?」
「いいえ。シェーンブルンへ行こうと思いますの」
少なくともそれは、嘘ではない。
「雨が降らないだろうか。朝から曇りがちのようだが」
「平気ですわ。庭園には、東屋あずまやもありますし」
「ああ、お前のお気に入りの隠れ家か」
訳知り顔で、F・カールは答えた。
ゾフィーは、むっとした。
……私のことなんか、何も知らないくせに。
夫が、彼女の肩に手を置いた。
「フランツと、庭園を散策するのだな?」
背後から、鏡を覗き込んできた。鏡の中の彼女の目を、捕らえようとする。
「ええ」
微妙に目線を反らせ、ゾフィーは、彼と目を合わせることを避けた。
F・カールは、ため息をついた。
「そうか。気をつけていってくるがいい」
「はい」
「くれぐれも雨に濡れないように。今頃の雨は、体に毒だ」
「わかっていましてよ」
ぴしゃりと、ゾフィーは答えた。
◇
庭園のどこかで、ひときわ高く、鳥が囀った。
狩猟場になっている森林地区から、ぱあん、という破裂音が聞こえる。
花壇を抜けた噴水の先、樹々の高い梢に覆われた東屋から、一人の貴婦人が飛び出してきた。
肩に掛けたショールが脱げかけ、スカートの位置がずれている。
真っ赤な顔で、後をも見ずに、細い小道を駆けていく。
覚束ない足取りだ。
ゆっくりと、東屋から、男が出てきた。
白い制服に、高級将校の穿く、赤いズボンを着用している。
男は、婦人が走り去った小道を、いつまでも見つめていた。
……。
◇
皇帝主催の舞踏会は、盛り上がりを見せていた。
美しいドレスの貴婦人達が、広いホールを舞っている。彼女らをサポートする紳士達は、さながら、羽を広げた孔雀のように得意げだ。
踊り疲れて、ゾフィーは、ホールを見回した。彼女のパートナーを務めていたリヒテンシュタイン侯爵は、飲み物を探しに、テーブルの方へ向かっていた。
ゾフィーは、年輩の侯爵の、気品に満ちた後ろ姿を目で追っていった。彼は、給仕を見つけ、何やら、命じている。
リヒテンシュタイン侯爵のすぐそばに、令嬢たちの一群がいた。過剰に着飾った娘たちは、丸く円を描いて、何かに夢中になっていた。中には、リヒテンシュタイン侯爵の令嬢も混じっていた。
いずれも、ウィーン社交界の、名花たちだ。
吸い寄せられるようにフロック姿の若い貴公子がやってきた。しきりと、輪の外側にいた令嬢に話しかけている。背中を大きく開けた、若草色のドレスを着た令嬢だ。しかし彼女は、全く取り合おうとしない。それどころか、うるさそうに手を振って、フロックの貴公子を、追い払ってしまった。
どうやら、円の中心の誰かを、令嬢たちがみんなで、取り囲んでいるようだ。
やがて、令嬢たちの輪が、移動し始めた。少しずつ、料理を載せたテーブルに向かって、動いていく。
テーブルに行き着いた令嬢たちの描く円が、横にひしゃげた。円の中心にいた人物が現れて、白いクロスで覆われたテーブルにぶつかって止まった。
フランツだった。
令嬢たちに囲まれたまま、テーブルまで逃げてきたのは、ゾフィーの甥だった。
……まあ。フランツルったら。
誰にどういいくるめられたのか、フランツは、正装をしていた。肩から腰にかけて、皇族を表すサッシュまで回している。ここのところ、正装といえば、軍服ばかり着たがる彼には、珍しいことだった。
彼は、テーブルに逃げ場を阻まれ、途方にくれている。
しかしそれは、彼と親しいゾフィーだからこそわかることだ。
知らない人からは、彼は、令嬢たちに、如才なく受け答えしているように見えている筈だ。
……あいかわらず、「お上手」を言っているのね。
派手に笑い転げる彼女たちの様子から、それは間違いないようだった。例の、甘い声と、ソフトで育ちの良い喋り方で、令嬢たちを魅了しているに違いない。
フランツは、その気になりさえすれば、したたかに、魅力を発揮することができるのだ。
……お髭を剃るように言っておいて、本当によかったわ。
この頃、彼は、髭を生やし始めた。子どもっぽく見られるのがいやだというのが、その理由だ。しかし、華やかな舞踏会に、髭は、いかにも見苦しい。
フランツは抵抗したが、今日のこの日の為に、ゾフィーが特に命じて、髭を剃らせたのだ。
音楽が始まった。
真紅のドレスをなびかせた令嬢が、やや強引にフランツの腕を取った。フランツは苦笑した。(だが、令嬢たちには、優美な王子の微笑みにしか見えなかったはずだ)
しぶしぶと、令嬢たちの輪が崩れた。
抑えられた怨嗟の声の中、フランツと、赤いドレスの令嬢は、ホールの中央に滑り出ていく。
ほっと、ゾフィーはため息をついた。
ふと、強い視線を感じた。無礼なくらいの強烈な眼差しで、彼女を見ている者がいる。
シュトラウスの調べを波立たせ、誰かが、ゾフィーに近づいてきた。
白い上着に赤いズボン、胸に大将の徽章をつけている。
ヴァーサ公だった。
ゾフィーの胸が、早鐘のように打ち出した。
ヴァーサ公は、ずんずんと近づいてくる。北欧人独特の真っ白な肌が、すぐそばまで迫ってきた。
その圧倒的な迫力と自信に、近づいてくる彼を見つめ続けることが、苦しいほどだった。ゾフィーの口から、甘い吐息がこぼれた。目線があえぎ、彼から逸れる。
どうしてか、その一瞬、彼女は、夫の姿を探した。
F・カール大公は、さっきまでフランツと令嬢達がいたテーブルの前にいた。ひょいと手を伸ばし、ワイングラスをつまみ上げたところだった。
立ったままの
ダンスホールの雑多な気配を押しのけ、ヴァーサ公の匂いが近づいてくる。
雪の中の獣のような、凶暴で、野性的な匂いだ。
彼は、まっすぐに、ゾフィーめがけて歩いてくる。
二人の間に誰が立とうと、決して立ち止まらなかった。相手が怯み、進路を譲るほどに、堂々と歩き続ける。
ついに、ゾフィーの真横まできた。
……人が。
狼狽した瞬間、彼女の手が、ぐっと握られた。
通りすがりに、ヴァーサ公が、掴んだのだ。
ぎょっとして見上げると、彼女を見下ろす灰白色の目と出会った。窪んだ眼窩から送られてくる、熱く滾る眼差しに、ゾフィーは震えた。
彼は、手袋をしていなかった。冷たく乾いた手が、ゾフィーの手首を、強く握りしめた。
薄い唇の端が、僅かに持ち上がったのを、彼女は見た。
次の瞬間、彼は、まっすぐに前を見つめ、彼女の脇を通り過ぎていった。
◇
不意に抱き寄せる強い腕。
強引に顎を上向かせ、
頬を挟む、長い指。革手袋の匂い。
そして、
……唇を。
「なんだよ、ゾフィー。いつも、彼の噂ばかりしているくせに。何をぼんやりしてるの? 僕の話、聞いてた?」
馬車の対面に座り、フランツがむくれた。
甘い追憶に浸り、ゾフィーは、ついうっかり彼の話を聞き逃していた。
フランツルが悪いのだ。
彼のことばかり話すから。
「僕はね、ヴァーサ公が、上官というだけでなく、個人的にも、親しい間柄……未熟な僕を導いてくれる友人……に、なってくれたらいいな、って思うんだ」
彼は、新しい上官が、大好きだった。
まるで、彼に恋しているみたいだった。ゾフィーと一緒に。
けれど、フランツのそれは、純粋だった。純粋な憧れだった。……軍務への。
きらきらと輝く、青い瞳が眩しかった。
ゾフィーは、フランツから目をそらせた。
王宮ホーフブルクに帰り着くと、意外な人が出迎えた。
「おかえり、ゾフィー。フランツも」
ゾフィーの夫、F・カール大公だった。
「ただいま、叔父さん!」
元気よく叫んで、フランツがキャリッジから飛び出す。
「ごめんね、叔父さん。大事な奥さんを連れ回しちゃって」
「おいおい。叔父さんは、ないだろう?」
「だって、僕の叔父さんじゃない」
F・カール大公は、マリー・ルイーゼの弟だ。甥フランツの、9歳年上になる。子どもの頃は、そして今でも、彼の、遊び仲間だという。
フランツは、反対側に回った。甲斐甲斐しくゾフィーに手を貸して、馬車から下ろした。
「今日は話を聞いてくれて、ありがとう、ゾフィー」
「楽しかったわ、フランツル」
フランツは、F・カールを振り返った。
「叔父さんも、大切な奥方を貸してくれて、ありがとう!」
「いやいや。全然構わまいよ。いい気晴らしになってるみたいだから。お前といると、ゾフィーの顔色は、とても晴れやかじゃないか」
突っ立ったまま、F・カールは、ゾフィーを見た。
ひどく照れくさそうだった。
「そうだ、フランツ。この後、俺と一緒に出掛けないか?」
「え? 叔父さんと一緒に? どこへ?」
「馬の種付けだ。栗毛のメスが、季節外れなのに、発情してな。ありゃ、厩舎のオスの、どれかが誘ったに違いない。そいつには気の毒だが、
「……」
無言で夫の脇を通り、ゾフィーは、居室に向かった。
「遠慮しとく」
にべもない口調で、フランツが答えるのが、背後で聞こえた。
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