不穏



 「また、フランツと出かけるのか?」

 ある日のこと。

 夫のF・カール大公が声を掛けてきた。


「ええ」

 ゾフィーは答えて、首元のスカーフをきゅっと結んだ。

 鏡を覗き込み、頬紅のチェックをする。


 夫が、後ろに立った。

「今日はどこに? 芝居か?」

「いいえ。シェーンブルンへ行こうと思いますの」

 少なくともそれは、嘘ではない。


「雨が降らないだろうか。朝から曇りがちのようだが」

「平気ですわ。庭園には、東屋あずまやもありますし」

「ああ、お前のお気に入りの隠れ家か」

訳知り顔で、F・カールは答えた。


 ゾフィーは、むっとした。

 彼女のことなら何でも知っているという、夫の態度が厭わしかった。


 ……私のことなんか、何も知らないくせに。


 夫が、彼女の肩に手を置いた。

「フランツと、庭園を散策するのだな?」

 背後から、鏡を覗き込んできた。鏡の中の彼女の目を、捕らえようとする。

「ええ」

微妙に目線を反らせ、ゾフィーは、彼と目を合わせることを避けた。


 F・カールは、ため息をついた。

「そうか。気をつけていってくるがいい」

「はい」

「くれぐれも雨に濡れないように。今頃の雨は、体に毒だ」

「わかっていましてよ」

ぴしゃりと、ゾフィーは答えた。







 庭園のどこかで、ひときわ高く、鳥が囀った。

 狩猟場になっている森林地区から、ぱあん、という破裂音が聞こえる。



 花壇を抜けた噴水の先、樹々の高い梢に覆われた東屋から、一人の貴婦人が飛び出してきた。

 肩に掛けたショールが脱げかけ、スカートの位置がずれている。

 真っ赤な顔で、後をも見ずに、細い小道を駆けていく。

 覚束ない足取りだ。

 ゆっくりと、東屋から、男が出てきた。


 白い制服に、高級将校の穿く、赤いズボンを着用している。


 男は、婦人が走り去った小道を、いつまでも見つめていた。

 ……。







 皇帝主催の舞踏会は、盛り上がりを見せていた。

 美しいドレスの貴婦人達が、広いホールを舞っている。彼女らをサポートする紳士達は、さながら、羽を広げた孔雀のように得意げだ。


 踊り疲れて、ゾフィーは、ホールを見回した。彼女のパートナーを務めていたリヒテンシュタイン侯爵は、飲み物を探しに、テーブルの方へ向かっていた。

 ゾフィーは、年輩の侯爵の、気品に満ちた後ろ姿を目で追っていった。彼は、給仕を見つけ、何やら、命じている。


 リヒテンシュタイン侯爵のすぐそばに、令嬢たちの一群がいた。過剰に着飾った娘たちは、丸く円を描いて、何かに夢中になっていた。中には、リヒテンシュタイン侯爵の令嬢も混じっていた。

 いずれも、ウィーン社交界の、名花たちだ。


 吸い寄せられるようにフロック姿の若い貴公子がやってきた。しきりと、輪の外側にいた令嬢に話しかけている。背中を大きく開けた、若草色のドレスを着た令嬢だ。しかし彼女は、全く取り合おうとしない。それどころか、うるさそうに手を振って、フロックの貴公子を、追い払ってしまった。

 どうやら、円の中心の誰かを、令嬢たちがみんなで、取り囲んでいるようだ。


 やがて、令嬢たちの輪が、移動し始めた。少しずつ、料理を載せたテーブルに向かって、動いていく。

 テーブルに行き着いた令嬢たちの描く円が、横にひしゃげた。円の中心にいた人物が現れて、白いクロスで覆われたテーブルにぶつかって止まった。


 フランツだった。

 令嬢たちに囲まれたまま、テーブルまで逃げてきたのは、ゾフィーの甥だった。

 ……まあ。フランツルったら。


 誰にどういいくるめられたのか、フランツは、正装をしていた。肩から腰にかけて、皇族を表すサッシュまで回している。ここのところ、正装といえば、軍服ばかり着たがる彼には、珍しいことだった。


 彼は、テーブルに逃げ場を阻まれ、途方にくれている。

 しかしそれは、彼と親しいゾフィーだからこそわかることだ。

 知らない人からは、彼は、令嬢たちに、如才なく受け答えしているように見えている筈だ。


 ……あいかわらず、「お上手」を言っているのね。


 派手に笑い転げる彼女たちの様子から、それは間違いないようだった。例の、甘い声と、ソフトで育ちの良い喋り方で、令嬢たちを魅了しているに違いない。

 フランツは、その気になりさえすれば、したたかに、魅力を発揮することができるのだ。


 ……お髭を剃るように言っておいて、本当によかったわ。


 この頃、彼は、髭を生やし始めた。子どもっぽく見られるのがいやだというのが、その理由だ。しかし、華やかな舞踏会に、髭は、いかにも見苦しい。

 フランツは抵抗したが、今日のこの日の為に、ゾフィーが特に命じて、髭を剃らせたのだ。


 音楽が始まった。

 真紅のドレスをなびかせた令嬢が、やや強引にフランツの腕を取った。フランツは苦笑した。(だが、令嬢たちには、優美な王子の微笑みにしか見えなかったはずだ)


 しぶしぶと、令嬢たちの輪が崩れた。

 抑えられた怨嗟の声の中、フランツと、赤いドレスの令嬢は、ホールの中央に滑り出ていく。


 ほっと、ゾフィーはため息をついた。

 ふと、強い視線を感じた。無礼なくらいの強烈な眼差しで、彼女を見ている者がいる。


 シュトラウスの調べを波立たせ、誰かが、ゾフィーに近づいてきた。

 白い上着に赤いズボン、胸に大将の徽章をつけている。

 ヴァーサ公だった。


 ゾフィーの胸が、早鐘のように打ち出した。


 ヴァーサ公は、ずんずんと近づいてくる。北欧人独特の真っ白な肌が、すぐそばまで迫ってきた。

 その圧倒的な迫力と自信に、近づいてくる彼を見つめ続けることが、苦しいほどだった。ゾフィーの口から、甘い吐息がこぼれた。目線があえぎ、彼から逸れる。


 どうしてか、その一瞬、彼女は、夫の姿を探した。


 F・カール大公は、さっきまでフランツと令嬢達がいたテーブルの前にいた。ひょいと手を伸ばし、ワイングラスをつまみ上げたところだった。

 立ったままの大公が、グラスに指を突っ込み、オリーブの実を摘まみだすのが見えた。


 ダンスホールの雑多な気配を押しのけ、ヴァーサ公の匂いが近づいてくる。

 雪の中の獣のような、凶暴で、野性的な匂いだ。

 彼は、まっすぐに、ゾフィーめがけて歩いてくる。

 二人の間に誰が立とうと、決して立ち止まらなかった。相手が怯み、進路を譲るほどに、堂々と歩き続ける。


 ついに、ゾフィーの真横まできた。


 ……人が。


 狼狽した瞬間、彼女の手が、ぐっと握られた。

 通りすがりに、ヴァーサ公が、掴んだのだ。

 ぎょっとして見上げると、彼女を見下ろす灰白色の目と出会った。窪んだ眼窩から送られてくる、熱く滾る眼差しに、ゾフィーは震えた。


 彼は、手袋をしていなかった。冷たく乾いた手が、ゾフィーの手首を、強く握りしめた。

 薄い唇の端が、僅かに持ち上がったのを、彼女は見た。

 次の瞬間、彼は、まっすぐに前を見つめ、彼女の脇を通り過ぎていった。







 不意に抱き寄せる強い腕。

 強引に顎を上向かせ、

 頬を挟む、長い指。革手袋の匂い。

 そして、

 ……唇を。



 「なんだよ、ゾフィー。いつも、彼の噂ばかりしているくせに。何をぼんやりしてるの? 僕の話、聞いてた?」

 馬車の対面に座り、フランツがむくれた。

 甘い追憶に浸り、ゾフィーは、ついうっかり彼の話を聞き逃していた。

 フランツルが悪いのだ。

 彼のことばかり話すから。


「僕はね、ヴァーサ公が、上官というだけでなく、個人的にも、親しい間柄……未熟な僕を導いてくれる友人……に、なってくれたらいいな、って思うんだ」


 彼は、新しい上官が、大好きだった。

 まるで、彼に恋しているみたいだった。ゾフィーと一緒に。

 けれど、フランツのそれは、純粋だった。純粋な憧れだった。……軍務への。


 きらきらと輝く、青い瞳が眩しかった。

 ゾフィーは、フランツから目をそらせた。




 王宮ホーフブルクに帰り着くと、意外な人が出迎えた。

「おかえり、ゾフィー。フランツも」


ゾフィーの夫、F・カール大公だった。


「ただいま、叔父さん!」

 元気よく叫んで、フランツがキャリッジから飛び出す。

「ごめんね、叔父さん。大事な奥さんを連れ回しちゃって」

「おいおい。叔父さんは、ないだろう?」

「だって、僕の叔父さんじゃない」


 F・カール大公は、マリー・ルイーゼの弟だ。甥フランツの、9歳年上になる。子どもの頃は、そして今でも、彼の、遊び仲間だという。


 フランツは、反対側に回った。甲斐甲斐しくゾフィーに手を貸して、馬車から下ろした。


「今日は話を聞いてくれて、ありがとう、ゾフィー」

「楽しかったわ、フランツル」


 フランツは、F・カールを振り返った。

「叔父さんも、大切な奥方を貸してくれて、ありがとう!」

「いやいや。全然構わまいよ。いい気晴らしになってるみたいだから。お前といると、ゾフィーの顔色は、とても晴れやかじゃないか」


 突っ立ったまま、F・カールは、ゾフィーを見た。

 ひどく照れくさそうだった。


「そうだ、フランツ。この後、俺と一緒に出掛けないか?」

「え? 叔父さんと一緒に? どこへ?」

「馬の種付けだ。栗毛のメスが、季節外れなのに、発情してな。ありゃ、厩舎のオスの、どれかが誘ったに違いない。そいつには気の毒だが、可愛いインランちゃん栗毛のメスは、イキのいいオスのいる牧場に連れて行くことになった。どうだ、フランツ。俺と一緒に、種付けを見物しないか?」


「……」

無言で夫の脇を通り、ゾフィーは、居室に向かった。


「遠慮しとく」

にべもない口調で、フランツが答えるのが、背後で聞こえた。







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