スウェーデンの廃太子


 はしゃいだ声で、フランツが尋ねている。

「クツシェラ将軍は、何かおっしゃっていましたか?」

「……」

「近日中に、僕からも、連絡を取らねばならないのですが」

「……」

「ヴァーサ公?」


 びくりと、ヴァーサ公の肩が震えた。

 不躾にゾフィーの上に据えていた目線を引き剥がし、フランツに移す。


「将軍は、何もおっしゃっていなかったよ」

ぎこちない笑みを浮かべた。

「逆に、私の方から報告しておいた。君の活力は、素晴らしいって。ライヒシュタット公は、やる気に満ちていて、兵士たちの憧れの的だ! ってね」


「いえ! まだまだです!」


 フランツの頬が、真っ赤に染まっている。憧れの人を見る目で、彼は、上官を見上げた。

 なぜか、ヴァーサ公は、そわそわとし始めた。

「それではまた、明朝! 寝坊するなよ。今夜は早く寝ろ!」


「はい!」

直立不動で、フランツは敬礼をした。


 ちらと、ヴァーサ公がゾフィーに視線を投げた。無礼なくらい、遠慮のない目線だった。

 ゾフィーは、衣服を脱がされ、心の奥まで見透かされたような気がした。

 しかし、全然、不快ではなかった。

 不快どころか……。




 「ゾフィー? ゾフィー!」

「え? あ、はい」


 はっと、我に帰る。

 ヴァーサ公の姿は消えていた。フランツが一人残り、心配そうに彼女の顔を覗き込んでいた。


「どうしちゃったのさ。急にぼんやりしちゃって」

「あ……なんでもない」


 無理に、ゾフィーは微笑んでみせた。

 ほっとしたように、フランツも笑った。


「ねえ、フランツル。あの人が……?」

「ああ、グスタフ・ヴァーサ公だよ。僕は、彼の連隊で、訓練をさせてもらってるんだ。そういえば、彼は、君の親族だったね」

「ええ」


 これまで彼女は、軍務や軍人に、あまり興味を持たなかった。

 オーストリアに嫁いでから、従兄が軍にいると聞かされても、積極的に会おうとはしなかった。


 自分の上官について話せることが、嬉しかったのだろう。ここぞとばかり、フランツがまくしたてる。

「彼は、スウェーデンの人だよ。王太子だったんだ。でも、クーデターがあって……」


 グスタフ・ヴァーサは、スウェーデンの、廃太子だ。

 グスタフが10歳の時、クーデターが起きた。首謀者は、父の叔父だった。彼は、甥である先王ヴァーサの父を廃し、カール13世として、即位した。


 グスタフ・ヴァーサの立場は、父ナポレオンがフランスの帝位を追われた、フランツと同じ立場だ。


「スウェーデンの王太子に生まれながら、彼は、オーストリアに忠誠を誓った。彼は、素晴らしい将校だよ!」

 ほとんど跳ね上がらんばかりにして、フランツは言った。


 そうだ。フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの跡継ぎとして生まれ、かつ、本人の知らないところでほんの2週間ほど帝位についたとされるフランツもまた、オーストリアに絶対的な忠誠を誓っている。



「あの……、彼……ヴァーサ公には、……奥様はいらっしゃるのかしら」

ためらいがちにゾフィーは尋ねた。


フランツが眉間に皺を寄せる。

「知らないの、ゾフィー。去年、オランダ王の娘との縁談があったんだけど、破談になっちゃったんだよ」


「破談?」


「そう。スウェーデンのカール14世が、横槍を入れてきたんだ。かつての王の息子ヴァーサ公とオランダの縁組みは、なにかと物騒だからね……」

 歯切れの悪い言い方だった。

「だから、今、ヴァーサ公は、失意の人なんだ」


「失意の人……」

その言葉が、ゾフィーの胸を刺した。


「うん。肖像画を見て、お互い、すっかり、その気になっていたようだよ! スウェーデン王もひどいことをするよね。……まあ、僕は、あんまり、あの人の悪口を言いたくないけど」


 今のスウェーデン王カール14世は、廃太子であるグスタフ・ヴァーサとは、何の繋がりもない人だった。

 クーデターで即位したカール13世は、高齢だった。彼は、跡継ぎを残さずに亡くなった。だが、王位は、ヴァーサの元には戻って来なかった。

 新たにスウェーデン王カール14世となったのは、フランスの軍人だった。ジャン=バチスト・べルナドットは、スウェーデン側に乞われて王太子となり、やがて王位を継いだ。


 フランスとの戦いに於いて、彼は、ナポレオンを裏切った……。



 さっぱりとした顔を、フランツは上げた。

「彼には、王位なんか必要ない! だって、ヴァーサ公は、素晴らしい軍人だもの。勇敢で高潔な、オーストリアの将校なんだ。あの人の下で実務を学べて、僕は本当に幸せラッキーだと思う」


 晴れやかな表情だった。

 白い肌に、赤く上気した頬。癖のある金色の髪。

 ゾフィーが初めて会った時の13歳の顔が、美しい18歳のプリンスの向こうに二重写しになって見えた。


 「さてと。ゾフィー、君の部屋へ行こうか。軍の話の続きなら、まだまだたくさんあるんだ……」


 軍での新しい経験を話すのが、楽しくてたまらないようだ。

 軽くゾフィーは、フランツを睨む真似をした。


「ダメよ、フランツル。あなた、明日は早いのね? そういうことは、ちゃんと言わなくちゃ」

「大丈夫だよ。少しくらい、寝なくても。人間は、3時間寝れば、十分なんだ!」

「だめだめ、特に若い人は! 脳が育たないわよ」

「やだな、ゾフィー。まるで、ディートリヒシュタイン先生みたいなこと、言ってる」


「貴方の奥様によろしくね!」

笑いながらゾフィーは言った。


 「貴方の奥様」というのは、二人でいる時の、ディートリヒシュタイン先生の呼び名だ。フランツは、「心配性の老婦人」と呼ぶこともある。


「ヴァーサ公もおっしゃってたじゃない。遅刻はだめよ。今夜は、早くお休みなさい」

「えーーー」


 フランツは不服そうだった。

 しかし、彼にとって、上官の言うことは、絶対だ。憧れの将校なら、なおのこと。


 彼は跪いて、ゾフィーの手に、おやすみのキスをした。

 素直に、自分の部屋へ戻っていった。







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