奥様?


 ゾフィーが彼を、舞踏会や観劇のエスコート役に指名することが多くなっていった。



 フランツと一緒だと、ゾフィーは、いつも楽しかった。芝居の感想やオペラ歌手の技量など、彼とは話もよく合った。フランツと一緒だと、ゾフィーは、ふっと、気が抜けるのを感じた。宮廷で、自分がいかに気を張って生きているのかを、改めて自覚する。


 ……フランツルもそうなら、嬉しいのだけれど。


 色物の演劇もいいが、正統派のオペラも楽しかった。

 舞台の歌声をじっと聞き入っていり、時折、感に堪えないといった風に、隣に座っているフランツの膝を叩いてみる。


 最初は戸惑っていたフランツも、この頃は、平然としているようになった。ゾフィーの手が膝に触れても、ぴくりともしない。

 それがちょっと、ゾフィーにはつまらない。こっそり様子を窺うと、耳たぶが真っ赤になっているのが見えた。

 大いに、ゾフィーは満足した。



 オペラがはねると、一般客に混じって、馬車に向かう。フランツが腕を直角に曲げ、肘の下辺りに、ゾフィーが手を添えている。

 時々、二人の正体を知る者が、ぎょっとしたように立ち止まった。だが、彼らは、詮索するような野暮はしない。不躾にならぬように視線をそらし、そっと通り過ぎていく。



 「少し踊りたいの」

フランツのエスコートで並んで歩きながら、ゾフィーは言ってみた。

「体を動かしたいの」


「でも、今から踊りに行ったら、帰りは夜中になってしまう。またにしようよ」

まるで妹に対するように、フランツがなだめる。ゾフィーは、むっとした。

「大丈夫よ。そんなに遅くならないわ。今日は、嫌なことがあったの。くさくさするわ。つきあってよ、フランツル」


 ゾフィーが何に「くさくさ」しているか、フランツには、だいたい予想がついたようだ。


 ゾフィーは、なかなか妊娠しなかった。まだ若いのだから焦ることはないと思っていたし、皇帝もそう言って下さる。だが、周囲の目は、厳しくなる一方だった。

 今日も、皇妃……ゾフィーの異母姉……カロリーヌが、とんでもないことを言い出した。


 「牛乳や卵をたくさん食べたらいいんじゃないかしら。あまり早起きしないで、体をゆっくり休めて。そうだ! 最近妊娠された方の、を聞くといいわ。私が探してきて、紹介してあげる」


 皇帝の年齢を考えれば、異母姉カロリーヌが妊娠することは、もう、ないだろう。だからこそのおせっかいだということはわかっていた、

 それでも、うっとおしかった。脅迫めいた嫉妬さえ感じる。妊娠できる環境で妊娠しないのは、怠慢であると糾弾されているような気が、ゾフィーはするのだ。

 実の姉という遠慮のなさが、より一層、逃げ場がなかった。



「でも、叔父上が心配なさるでしょ? 愛する奥方が、こんなに遅くまで出歩いていては」


 優しい声が、穏やかに諭した。フランツは、F・カール大公ゾフィーの夫の気持ちを思いやっている。


「あの人の話はしないで」

ぴしゃりとゾフィーが言い返した。


「あの人って、貴女の夫君じゃないか」

「今はあなたといるの、フランツル」

「誰といたって、夫は夫だと思うけど……」



 「失礼、ライヒシュタット公でいらっしゃいますね」


 呼びかけてきた貴公子があった。フランツより、2つ3つ、年上だ。隣に、若い令嬢を連れている。

「僕は、モーリツ。モーリツ・エステルハージです」


 エステルハージ家は、オーストリア有数の貴族である。


「……あっ!」


 不意に、モーリツが連れていた令嬢が、短い声を挙げた。髪を高々と結い上げた、ひどく若い女の子だ。腰を締め上げたドレスが、体のラインを際立たせて見せている。

 彼女は、驚愕の眼差しで、ゾフィーを見つめていた。


 憮然として、ゾフィーは視線をそらせた。


 棒立ちのままの令嬢の腕を、モーリツが強めにつついた。はっと我に返った令嬢を指し示し、彼は言った。

「こちらの女性は……、まあ、いずれそのうち、ご紹介することがあるかもしれません。彼女の無礼をお許し下さい、マダム。素敵なオペラでしたね。お楽しみになりましたか?」


 曖昧にゾフィーは頷いた。

 モーリツが、にっこり笑った。


「では、僕たちは、ここで失礼致します」

 だが彼は、動かなかった。立ち止まったまま、フランツの目を、しっかりと見据えた。


「一度、ライヒシュタット公に、ご挨拶を申し上げたくて。父に頼んでも、なかなか仲介の労を取ってくれないものですから。ご機嫌よう。……いずれまた、お会い出来る日を、楽しみにしています」



 「なあに、あれ」

二人が立ち去ると、ゾフィーは言った。むっとしている。

「あの子のドレス、胸を強調しすぎだわ。唇と頬の色も不自然に赤いし。みっともないったら、ありゃしない」


「あれが、今年の流行らしいです」

 フランツが答えた。確信は無さ気だった。


「ゾフィー。今夜はもう、帰ろうよ」

「えっ! 踊りに行くって、言ったじゃない!」

「言ってないよ」


 モーリツ・エステルハージは、フランツと近づきになりたくて声を掛けてきたのは、明らかだった。高位の貴族であり、年齢も近い彼なら、フランツの良い友達になるだろう。

 連れの女の子は、全くもって、ゾフィーの気に入らなかったが。


 フランツが早く帰ろうと促すのは、大公妃としてのゾフィーの立場を慮ってくれているのは明らかだった。


「早く帰らないと、僕、ディートリヒシュタイン先生家庭教師の先生に、叱られる」

「ディートリヒシュタイン先生? ですって?」

ゾフィーは柳眉を逆立てた。


「夜歩きは、体に悪いって、先生、言うんだ」

申し訳なさそうに、フランツが眉を寄せる。

「朝も、早く起きられなくなるし。皇帝との朝食に遅れるからダメだって、先生が」


「……まったく、あの先生は、あなたの奥様なのかしら」

ため息とともに、ゾフィーは言った。

「それも、とっても口うるさい……」


「奥様?」

「そうよ」


 広い額、正しい姿勢、謹厳実直なディートリッヒシュタイン伯爵が、ドレスを着てシナを作っている姿を、二人は、思い浮かべた。


 二人同時に、爆笑した。






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