ゾフィーと呼んで



 噂に聞いていたナポレオンの息子は、恥ずかしがり屋の、けれど、礼儀正しい少年だった。


 ウィーンの宮廷には、依然として、ナポレオンへの憎しみが凝り固まっている者がいた。彼らは、憎悪と軽蔑のまなざしを、ナポレオンの息子に浴びせた。

 しかし、一方で、彼は、皇帝の孫である。表立って、攻撃することはできない。鬱屈した怒り(それは、彼の父へ向けられるべきものだった)は、一層陰湿に、少年を苛んでいた。


 複雑な境遇の中で、彼は、いつも孤独だった。



 ゾフィーもまた、ウィーン宮廷の雰囲気になじめなかった。

 のびのびとした自由な雰囲気の中で育った彼女にとって、儀礼や序列に縛られたウィーン宮廷は、寒々しく窮屈だった。


 F・カールとの間に、なかなか子宝に恵まれないのも、馴染めなさの一因だった。


 皇位は、兄が継ぐ。夫には、野心はないようだった。それどころか、責任を逃れ、安穏と生活できることを喜んでいるようにさえ、ゾフィーの目には映った。野心どころか、夫には、覇気というものがまるでなかった。ただただ、その日その日を無為に暮らしているようにしか見えない。


 跡継ぎの見込めない皇太子に代わり、弟のF・カール大公夫妻の子が未来の皇帝になるというのに、もう何年もゾフィーに懐妊の兆しはない。

 彼女に挨拶する時、人々は遠慮のない視線を、いつまでも平らなままの腹部に浴びせた。バイエルンの薔薇と讃えられ、大切に育てられたゾフィーには、考えられない屈辱だった。


 お互いの疎外感の中、若い叔母ゾフィーフランツは、次第に、親しく言葉を交わすようになった。







 ゾフィーは、フランツのことを、「フランツル」と呼ぶことにした。

 皇帝も「フランツ」、彼女の夫も「フランツ・カール」。「フランツ」ばかりで紛らわしいことが、理由のひとつだった。


 最初は、皇妃……彼女の異母姉でもある……と同じように、ゾフィーも彼のことを、「フランツェン」と呼んでいた。だが、そう呼ばれるたびに、フランツが微妙に顔を曇らせるのに気がついた。


 「フランツェンと呼ばれるのは、おいや?」

 ある日、思い切って、そう尋ねてみた。

 フランツは、顔を赤らめた。

 ……本当にこの子は、すぐ、顔を赤くする。

 かわいい、と、ゾフィーは思った。


「なんだか子どもっぽいから」

 フランツは答えた。


 ゾフィーは笑いだした。

「皇妃様は、フランツェンと呼ぶわ」

皇妃お祖母さまはいいんです。昔からだし。でも、叔母上にまでそんなふうに呼ばれるのは、僕は、いやだ」

「ちょっと。叔母上は、やめてよ」

「え?」

「名前で呼んで頂戴」

きめつけるように、ゾフィーは言った。

「あなたと私は、たった6つしか違わないのよ」

「でも……」


フランツは、ためらっているようだった。


「私を『ゾフィー』と呼んでくれたら、あなたのことも、『フランツェン』とは呼ばないわ。別の名前で呼んで、ちゃんとおとな扱いしてあげる」


 ゾフィーがオーストリアに嫁いできてすぐ、14歳の春に、フランツは、声変わりをした。声質そのものは低くなったが、よりソフトで甘い話し方をするようになった。

 なんだか急におとなっぽくなったようで、話しかけられると、どきどきする。

 背丈もゾフィーを抜き、まるでおとなのような発言をすることもあった。

 そんなフランツを、幼児の頃と同じ呼び方をするのはおかしいと、ゾフィーも思った。


「わかった」

とうとう、フランツは言った。

「わかったよ。ゾフィー」






 宮廷には、未だに、ナポレオンの息子をよく思っていない輩がいた。そういう連中は、露骨に、彼を疎外し、悪口を言う。それなのに、彼には、盾となってくれる人がいなかった。母親さえ、身近にはいない。


 フランツの母は、遠いイタリアにいた。ウィーン会議の時、パルマに領土を貰い、旅立っていったのだ。フランツが5歳になる直前のことだった。ナポレオンとの間に生まれた息子は、ウィーンから出ることを許されなかった。


 少しして、義姉は、ナポレオンの生存中から、彼を裏切っていたと、ゾフィーは知った。ナイペルクという片目の護衛官の間に、彼女は、二人の子どもを産んでいた。


 周囲の悪意……それは、彼の父親に向けられたものだった……と、好奇のまなざし……それは、母親に向けられたものだ……。そして、疎外感。フランツは、幼いころから、たった一人で、見えない敵と戦ってきた。


 彼はまさしく、宮廷という黄金の檻に囚われた、高貴な囚人だった。


 フランスで、フランツが幸せだった日々は、あまりに短かった。今では、記憶もおぼろだろう。自分はまだ、自由を知っている、と、ゾフィーは思った。バイエルンの宮廷で、彼女は、のびのびと育てられた。その幸せを、新しくできた甥にも味わわせてあげたいと思った。


 黄金であろうと、檻は檻だ。羽を畳んだままでは、儂の子は、窒息してしまう。

 ゾフィーは、彼を、羽ばたかせてあげたかった。せめて、宮廷の外に、連れ出したかった。



「ねえ、フランツル。マリネリの劇場に連れて行ってくれない?」

 ある日、ゾフィーはねだってみた。思わず、甘えるような声になってしまったのは、自分でも少し、うろたえた。

「マリネリの劇場!」

案の定、フランツの瞳が輝いた。

「今、あそこで、おもしろい劇をやってるんだよね! 犬が主役で、他にも、主な役はほとんど犬だという……。僕も観たいと思っていたんだ!」


「そう」

ゾフィーは、にんまりと笑った。

「とってもおもしろいって評判よ。それなのに、ワイマールでは、ゲーテがこの劇の上演を拒否したんですって。だからゲーテは、ワイマールの劇場監督を、クビになったそうよ」


「ウィーンでは、そんなことはないよね!」

誇らしげにフランツは答えた。

「ウィーンでは、おもしろければ、ちゃんと上演される。そして、きちんと評価され、人気になるんだ」


 堅苦しい宮廷とは真逆の文化が、ウィーンの街中では、花開いていた。音楽会。芝居。見せ物や動物園も、人気があった。


 ここぞとばかり、ゾフィーは頷いてみせた。

「ねね、行きましょうよ。犬の劇、一緒に観に行きましょう」


「でも、ディートリヒシュタイン先生が何て言うかなあ……」

 ディートリヒシュタイン伯爵は、フランツの家庭教師だ。宮廷劇場の支配人を兼務する彼は、厳格で、頭の固い教師だった。

 フランツは首を傾げた。

「犬の劇なんて、ディートリヒシュタイン先生は、いやがるんじゃないかなあ」


「ディートリヒシュタイン先生?」

ゾフィーは眉をつり上げた。

「いやだ、フランツル。何を言ってんの。二人で行くのよ。二人だけで!」


「二人だけで!?」

驚いたように、フランツは息を呑んだ。


「そうよ。あなた、もう、おとなでしょ? いつまでも家庭教師の付き添いがあったら、おかしいでしょ」


 再び、フランツの頬に朱が散った。

「そっ、そうだよね……」


「約束よ!」

ゾフィーは強引にフランツの手を取り、小指を絡めた。

「二人で劇場に行くの。ね。フランツル!」


 フランツは、途方に暮れたように、ゾフィーの小指と絡んだ自分の指を見ている。絡まりあった小指を、ゾフィーは、軽く振ってみせた。


「……わかった」

とうとう彼は言った。


「わっ! 嬉しい!」

ゾフィーは躍り上がって喜んだ。

「約束よ、フランツル。二人で行きましょ。二人だけで馬車に乗って、出かけましょうよ」


「うん」

「楽しみだわ。早速、御者に言わなくちゃ」

「僕も楽しみだよ」


 フランツも、嬉しそうだった。









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