血海の泡

 スイの容態が限りなく悪いのは火を見るよりも明らかで、鮫神には到底手の施しようがなかった。

 きちんとした医者でなければ治せない。治せと言ったところで、治してくれる医者がここにいるはずもない。壊してくれる医者しかいない。用済みの失敗作の面倒など、誰も見ない。

 何よりスイ自身が、己の助からぬことをよく分かっていた。

「どうすんだ、これ……どうすりゃいい」

 それでもまだ、諦めることなどできようはずもなく。眼前の光景を受け入れることを無意識のうちに拒み、うわ言のように無為な自問を繰り返す。

 放置して皮膚が腐りきり、死ぬのを待つか。或いは――

「さめがみ、たべて」

 処理、するかだった。


「本気で言ってんのか、お前。何で俺がお前を食わなきゃならねぇんだ」

 顔も名前も知らない被検体の息の根を止め、その肉を食べて処分することすらおぞましいというのに、少なからぬ友愛を結んだ相手を、しかもこんなにも幼気な女の子を、どうして食うことができようか。

「おねがい、たべて。そうしたら……さめがみとずっといっしょ」

 ――お前を食って得た血肉でいつか仇を討ってやるからよ。今まで誰かを食べるときは、ずっとそう言い聞かせてきた。そうやって不運な同胞たちの命を背負ってきた。それが、掃除屋なりの救済だった。


 そこに、スイの命が加わる。


 本能は嫌だと言っている。その証拠に、酸っぱい液体が喉を焼く。しかし、彼女の要求を拒んだとて、その先に一体何が待っていよう? 腐乱死体と焼却炉? 果たしてどちらが幸せか。生きて欲しいという無理な望みに付き合わせて、ただただ彼女の苦痛を引き伸ばし、より惨めな時を過ごすよりは、今その牙で断ち切る方が余程の優しさではないのか。しかもそれが、彼女の願いであると言うのならば。

「それでいいのか、スイ」

「うん」

 そんなにしっかり頷くんじゃねぇよ、阿呆――などという言葉を絞り出すには、口元に力が入りすぎていた。

「いいんだな」

「うん」

 魚は泣かないはずだ。それならば、魚そっくりの大きな目から今、零れ落ちた雫は何だろう。

「……スイ、知ってるか。人魚姫はナイフを海に捨てた。その海はな、一瞬で血の海に染まったんだぜ。そんで海に飛び込んで泡になった」

 スイはこんな時だというのに、にこりと笑った。


 


 苦しまぬように。スイの口を己の口で塞ぎながら、細い首を折った。最後の吐息、吐き出された魂を逃がすまいと、しっかり口を押し付けて吸い込んだ。

 嘔吐きながらも、食べた。息の代わりに血が流れ出す口元を食い千切った。

こんな荒々しい口づけなど、するはずではなかった。ただ、一緒に、たとえ水の牢獄の中ででも、一欠片の幸せを掴んで生きていこうとしていたのだ──だが、所詮は泡沫。呆気なく弾ける血海の泡。

 そうして血の海に沈んだ。泣きながら、血の海に沈んだ。


 

鮫神は喉を詰まらせた。襲い来る嗚咽と吐き気とを飲み下し、立ち上がった。

吐いてたまるか。残酷で美しいこの紅を、穢してなるものか。彼女を放しなどするものか。

「許さねぇ。水谷の野郎、貴様だけは絶対に許さねぇ」

 悲嘆と絶望が一度過ぎ去れば、次に打ち寄せるのは怒りの高波だ。漲るのは復讐心に裏打ちされた悪魔の力だ。

握り締めた拳を一発。鮫神は、人魚の投げ捨てたナイフを――叩き割った水槽のガラス片を血の海から攫い、固く握り締めた。

 そして己の頭に突き立てた。


 光の雨が降る。レーザーに焼かれながらも構うことなく、ガラス片で抉り出す――頭に埋め込まれていたGPS発信機、ピカピカと点滅するそれを、水の牢獄に投げつけて。

 途端、そこへ殺到する光の矢と一緒になって――大水槽を割る。


 怒号と警報が轟く管制室。

「何が起こっているんだ! 報告しろ!」

「S154が暴れています! 見れば分かるでしょう!!」

「自動狙撃はどうした!!」

「知りません!!」

 最早悲鳴だ。戦慄く指先、真っ赤に明滅する画面の中に映るのは、復讐に猛る海の殺し屋だ。

「第4特別研究室で浸水!!」

 怨嗟の津波が押し寄せる。

「扉破られました!!」

 赤い濁流が迸る。

「あっ、主任!! 指示をッ」

 部下を振り切り、水谷は走り出す。


 邂逅から決着までは一瞬だった。

 「とんだだったな」。これが、水谷の聞いた最後の言葉だった。


 ◇


頭に血が上ったまま、立ち塞がるもの全てを薙ぎ倒して鮫神は駆け抜けた。といっても赤く明滅する視界しか、朦朧とした頭では思い出せなかった。

水が冷たい。身を揉む水の塩辛さに全身の傷口が悲鳴を上げていたが、彼には聞こえていない。

逃げ出した先は海だった。そこにはガラスの壁などなく、ただ茫漠と、底も果ても見えぬダークブルーが広がっていた。

 これが海だ。外の世界だ。自由というものはくすんだ輝きをしているのだと、鮫神は知った。


 仇は討った。何の感慨も覚える間もなく、呆れるほどあっさりと復讐を終えてしまった。そう、終わったのだ。スイと、その他大勢の同胞たちの犠牲を清算したのだ。

 ――そんなはずがない。あの男の命一つが、彼ら彼女ら数十人、数百人の命を贖えるだけの価値を持っているはずがない。この負債は誰にも返せない。

 悔しかった。惨めだった。


 力の抜け始めた身体に鞭打って泳いだ。ここで人間に捕まれば、振り出しに戻る。失ったものは戻らないままで、命からがら得た自由をまた失って、牢獄へ戻る羽目になる。それだけは絶対に嫌だった。故に鮫神は泳ぎ続けた。忌まわしき島からひたすらに遠ざかった。


 ――なぁ、人魚姫が、その後どうなったか知ってるか。

 海に身を投げて泡にはなったが、そのまま消えたんじゃなく、風の精になったらしいぜ。

 300年間風の精として勤め上げれば、魂を得ることができて、天国に行けるんだと。

 だけどな、魂を得られるまでの期間は、きっかり300年って訳でもねぇんだとよ。何て言ってたかな、きちんとは覚えてねぇが、確か……『親を喜ばせて愛しみを受ける子供を見つけて微笑むと、1年短くなる。その逆に、悪い子を見て悲しみの涙を流すと、1日ずつ長くなるみたいな感じの話だったぜ。

 悪ィけど俺は力になれそうにねぇな。間違ってもいい子ちゃんじゃねぇし、尽くす親すらいねぇんだからよ。

 そうだ、風の精なんだったら、嵐でも呼んであの場所をぶっ壊してやれよ。ただでさえ俺のおかげで今頃てんやわんやなんだ、設備もかなりやられてるからチャンスだぜ。いや、勿論、まだ中に取り残されてる俺たちの同類が死なない程度にしとけ……というかお前、ほんとに風の精になれたのか。よく考えたら無理じゃねぇか? だって、俺の腹の中だもんな。

 まあ、所詮はおとぎ話だ。俺と一緒に泳ごうや、血の海じゃなくて本当の海をな――。


 混濁する意識の中、鮫神はそんなことを馬鹿のように独りごちた。悲しみと怒りが過ぎ去ると、次にやって来たのは、空虚な笑い。痛覚が麻痺した、束の間の微睡み。覚めれば身も心も裂けんばかりの痛みが待っている。

 水獄を破り、スイを殺した世界を捨てて。

 光を受けて輝く透明な泡の中、ただ一人、鮫神海浜は泳ぎゆく。

 許さねぇ、許さねぇ、許さねぇ、許さねぇ。向ける先を失った怒りを反芻しながら。ひたひたと迫りくる静謐な悲しみに身を沈めながら。

 重い腹を引きずって泳いだ。



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水獄 戦ノ白夜 @Ikusano-Byakuya

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