腕が欲しいな

 それから、鮫神はしばらく大水槽の掃除を続けた。すっかり彼に気を許したらしいスイも手伝い、ひとまず底まで辿り着いて、新しい水を張り始めたところである。水が溜まる間に他の水槽や培養槽の掃除に取り掛かり、死んだ人造生物の数々を引き揚げて焼却場送りにした。こちらは手伝えないので、スイはトロ舟での見物に戻った。

 半グレ鮫と人魚もどきは、思いの外うまくやっていた。日に日にスイは鮫神に懐き、よく喋るようになり、鮫神は朗らかに笑うようになった。友達か、親子か、恋人か。そのいずれにも当てはまらない不思議な関係だったが、親しい仲であったことには違いない。

 そんなある日のことである。

「あァ? 検診?」

「そうだ、いつもの検査と薬剤投与だよ。バイタルサインだけではなく、他にも定期的に記録しておかなければいけない項目があるからね」

 突然訪ねてきたのは水谷だった。一ヶ月に一回ほどの頻度で行っている健康観察に行くように、ということだった。これが鮫神は大嫌いである。

「てことはまた5日も拘束されんのかよ。ふざけやがって」

「それは君が無駄に暴れるからだ。大人しくしていてくれれば3日で済むんだがね」

「ハッ、そうかよ。だと、スイ。これから3日間いなくなるぜ」

「おや、随分仲良くなったようだね。それは何よりだ」

 水谷が口だけで微笑むのを、苦々しい目で鮫神は睨む。

「俺がいない間、誰かがコイツに薬をやってくれるんだろうな」

「我々が面倒を見るから安心したまえ。君は3日で戻れるように頑張ることだね。それじゃあ行きなさい、迎えがそこまで来ているよ」

 水谷が手をかざして生体認証システムのロックを解除し、ドアを開ければ、外にはレーザー銃を構えた男たちが二重三重の網をつくっている。

「……あァーこりゃァまたご丁寧にどうも」

 白衣に中指を立て、スイに軽く手を挙げると、鮫神は特別医療室へと護送されていった。

「スイ、という名前かい。君たちがそんなに仲良くなれるとは思わなかったよ。そこでちょっと提案があるのだがね……」

 水谷はスイに何事かを耳打ちする。彼女の顔は段々と明るくなり始め、遂には満面の笑みで頷いた。


 ◇


「身体がバッキバキだ、クソッタレ……ふざけんじゃねぇ。好き勝手弄りやがって」

 薬の副作用か、節々が痛んだ。

 鮫神は怠い身体を引きずりながらスイの研究室に戻るところだった。不服ながら今回はきちんと所員の指示に従ったおかげで、水谷の言葉通り3日で解放されたのだ。しかも乱闘騒ぎを起こさなかったので、普段よりもずっと傷が少なかった。

「帰りまで丁重に送って頂いてありがたいことこの上ねぇな。ご苦労さんだぜ」

 銃口に見送られつつ、研究室に入る。そろそろ君の部屋の修理も終わるよ、と水谷に告げられてはいたが、あんな部屋に戻ったところで楽しいことなど一つもないのだ。この研究室は広く、水槽では泳ぎ放題だ。それに愉快な同居人もいる。謹慎が解けようがここに居座り続けてやる、と決意を固めていた鮫神であった。

「スイ。帰って来たぜ」

 応えはない。ただ、静かな機械の作動音が響くだけ。

「おい、スイ。どこ行った? いねぇのか?」

 見たところ、大水槽の中に影はない。薬をもらう都合もある、下にある水槽のどれかにいるのだろう。

「かくれんぼのつもりか? さっさと出てこい」

 一つ一つの水槽を見遣りつつ、奥へ進む。拗ねたかな、と思ったとき、少し先の床に水が溢れているのが目に入った。

「そこだな。出て来やがれ、ほら」

 楕円形の、比較的大きな水槽。これならばスイはゆったりと浸かれるだろう。しかしLEDの青白い光を透かした水が、僅かに赤みを帯びているのは気のせいか――

「……スイ?」

 裏側に回り込んだとき、鮫神は見たのだ。

 床に倒れていた彼女を。

 床に。


「おい、どうした。何でそんなとこにいる」

 慌てて抱え起こすと、乾きかけた細い身体はくたりと折れた。う、と小さく呻きながら瞼代わりの薄い膜を開け、彼女はぼんやりとした黒目で鮫神を見た。

「大丈夫か。半分干からびてるじゃねぇか」

 スイが答える前に、しかし鮫神は異変に気付いた。ぬるりと何かが腕に触れたのだ。それは鮫神が嫌というほどよく知っている感触だった。その感覚は怖気を持って指先から脳へと駆け上った。

 ちら、と目を落とせば。

「……おい。何した、これ」

 華奢な肩。腕の生えていないその場所は、まるで腕を切断したかのような楕円形の切断面を見せ、血と膿とでぐちゃぐちゃに腐っていた。


 胃が握り潰され、喉元まで迫り上がってくるかのようだった。思うさま彼女を揺さぶりたい衝動を、何とか堪えた。

「何があった。話せるか」

 陽炎のようにじりじりと揺らぐような、はたまたぴんと張り詰めた弦を恐る恐る弾くような声音。

「……しゅじゅつ」

 水の中に浸かっていなかったからか、スイが絞り出したか弱い声はぱさつき、苦しそうだった。

「さめがみがいないあいだに、しゅじゅつ、したの。あのひとにいわれたの」

「……水谷か?」

「うん。うでをくっつけるしゅじゅつ。そしたら、くっつかなかったの。それでこうなっちゃった」

 真っ白な光が眉間を貫いた。目眩がした。

「何でそんな手術受けた?」

 スイは真っ直ぐ鮫神を見た。

「さめがみと、あそびたかったから。うでがあれば、もっとあそべるから」

「はァ? お前……」

 鮫神は絶句した。


 この、無垢で可哀想な生き物が。自分を慕い、そのために叶わぬものを望み、その報いを――


 長い沈黙の後に、言葉と共にこみ上げてきたものは。

「大馬鹿野郎ッ!!」

 怒声がガラスを震わす。水面に波紋を呼ぶ。

「何で、何でそんなもんを。腕なんぞなくたって、好きなだけ遊んでやる。どうとでもなるんだよそんなこたぁ……この阿呆……」

 声が熱を失う。身体の芯が冷えていく。

「だって……ごめんなさい。ごめんな、さ」

 手で口を塞ぐ。

「お前が謝ることじゃねぇ。苦しいのはお前だろうが、黙ってろ」

 鮫神は改めて肩口の傷を見た。壊死した皮膚は赤、紫、黒と変色し、てらてらと光る黄色の膿がべったり張り付いていた。

 もう手遅れだ。鮫神の視界は真っ白になったり真っ黒になったりと忙しかったが、傷口の赤と黄色だけは狂ったカラーバランスで網膜を焼き続けた。

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